Page:那珂通世遺書.pdf/434

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く聚めてこの選擧を確定せんことを議決しけり(​含篾兒​​ハンメル​の​亦勒罕​​イルカン​一、六一)」。

 憲宗推戴の事情は、元史譯文證補の定宗憲宗本紀補異に​多遜​​ドーソン​に本づきて委しく叙べたり。憲宗紀には、​額勒只吉歹​​エルヂギダイ​と​忽必來​​クビライ​との議論は無くて、攝政皇后の使​八剌​​バラ​と​木哥​​ムゲ​(世系表睿宗の第九子​末哥​​モゲ​)との議論あり。「歲戊申、定宗崩、朝廷久未立君、中外恟恟、成屬意於帝。而覬覦者︀衆、議未決。諸︀王​拔都︀​​バド​、​木哥​​ムゲ​、​阿里不哥​​アリブカ​(世系表睿宗の第七子)、​唆亦哥禿​​シヤイゲト​(世系表睿宗の第十子​歲都︀哥​​サイドゲ​か)、​塔察兒​​タチヤル​(世系表​鐵木哥斡赤斤​​テムゲオチギン​の孫)、大將​兀良合台​​ウリヤンカタイ​(​速不台​​スブタイ​の子)、​速儞帶​​スニダイ​(は知らず)、​帖木迭兒​​テムゲル​(祕史太宗の侍衞第二班の宿老)​也速不花​​エスブハ​(食貨志歲賜篇左手千戶九人の一)、威會子​阿剌脫忽剌兀​​アラトクラウ​之地、​拔都︀​​バド​首建議推戴。時定宗皇后​海︀迷失​​ハイミシ​所遣使者︀​八剌​​バラ​在坐、日「昔太宗命以皇孫​失烈門​​シレムン​爲嗣、諸︀王百官皆與聞之。今​失烈門​​シレムン​故在、而議欲他屬、將實之何地耶」。​木哥​​ムゲ​曰「太宗有命、誰敢違之。然前議立定宗、由皇后​脫忽列乃​​トクレネ​與汝輩爲之。是則違太宗之命者︀、汝等也。今尙誰咎耶」。​八剌​​バラ​語塞。​兀良合台​​ウリヤンカタイ​曰「​蒙哥​​モンゲ​、聰明睿知、人咸知之。​拔都︀​​バド​之議良是」。​拔都︀​​バド​卽申令於眾、眾悉應之、議遂定」。​阿剌脫忽剌兀​​アラトクラウ​の​剌兀​​ラウ​は、蓋​阿兀剌​​アウラ​の誤にして、​阿剌脫忽阿兀剌​​アラトクアウラ​は、卽​多遜​​ドーソン​の​阿剌克塔克​​アラクタク​山なり。​脫忽列乃​​トクレネ​は、​脫列忽乃​​トレクネ​の誤にして、卽后妃表の​脫列哥那​​トレゲナ​六皇后なり。

 ​忙哥撒兒​​モンゲサル​の傳は、又憲宗紀とも異なり。「定宗崩、宗王​八都︀罕​​バドカン​、大會宗親、議立憲宗。​畏兀​​ウイウ​​八剌​​バラ​曰「​失烈門​​シレムン​、皇孫也、宜立。且先帝嘗言其可以君天下」。諸︀大臣皆莫敢言。​忙哥撒兒​​モンゲサル​獨曰「汝言誠是。然先皇后立定宗時、汝何不言耶。​八都︀罕​​バドカン​固亦遵先帝遺言也。有異議者︀、吾請斬之」。眾乃不敢異。​八都︀罕​​バドカン​乃奉憲宗立之。憲宗之幼也、太宗甚重之。一日行幸、天大風、入帳殿。命憲宗坐膝下、撫其首曰「是可以君天下也」。他日用牸按豹。皇孫​失烈門​​シレムン​尙幼、曰「以牸按豹、則犢將安所養」。太宗以爲有仁心、又曰「是可以君天下」。其後太宗崩、六皇后攝政、竟立定宗。故至是二人各擧以爲言云」。洪鈞曰く「案本紀、卽與​忙哥撒兒​​モンゲサル​傳異、西書又異。蓋會議時、人眾語多、各就所聞紀之、故不同如此。惟大致同耳」。


九。憲宗卽位の事情。

 憲宗卽位の條は、異說もあり、明ならざる所もあるに由り、今​額勒只吉歹​​エルヂギダイ​の事を述ぶる序に、憲宗紀の文を引きて、その考證を試みん。かくて憲宗紀に「元年辛亥夏六月、西方諸︀王​別兒哥​​ベルゲ​・​脫哈帖木兒​​トハテムル​、東方諸︀王​也古​​エグ​・​脫忽​​トク​・​亦孫哥​​イスンゲ​・​按只帶​​アンヂダイ​・​塔察兒​​タチヤル​・​別里古帶​​ベリグダイ​、西方諸︀大將​班里赤​​バリチ​等、東方諸︀大將​也速不花​​エスブハ​等、復大會于​闊帖兀​​コテウ​阿闌之地、共推帝卽皇帝位於​斡難︀​​オナン​河」。卽位の日は、​多遜​​ドーソン​の史に一二五一年(西暦の七月一日とあり。​別兒哥​​ベルゲ​・​脫哈帖木兒​​トハテムル​二人は、​多遜​​ドーソン​に據るに、​拙赤​​ヂユチ​の子​巴兒開脫喀提木兒​​バルカイトカチムル​なり。​也古​​エグ​・​脫忽​​トク​・​亦孫哥​​イスンゲ​三人は、祕史卷六に見えたる​拙赤合撒兒​​ヂユチカツサル​の子​也古​​エグ​・​亦孫哥​​イスンゲ​・​脫忽​​トク​、世系表​搠只哈撒兒​​シユヂハツサル​の子​也苦移相哥脫忽​​エクイシヤンゲトク​なり。​按只帶​​アンヂダイ​は、​合赤溫​​カチウン​の子​阿勒赤歹​​アルチダイ​なり。​塔察兒​​タチヤル​は、世系表​鐵木哥斡赤斤​​テムゲオチギン​の孫にして​只不干​​ヂブガン​の子なり。​別里古帶​​ベリグダイ​は、祕史の​別勒古台​​ベルグタイ​、世系表の​別里古台​​ベリグタイ​なり。洪鈞曰く「​別里古帶​​ベリグダイ​、改本作​伯勒格台​​ベルゲタイ​、爲太祖︀弟。案、​伯勒格台​​ベルゲタイ​、不過少太祖︀數歲、特以庶母所出故列於末。太祖︀崩、至是已二十五年。是否尙存、殊不敢必。又​別里古台​​ベリグタイ​孫​滅里吉歹​​メリギダイ​見史表、或卽​別里古帶​​ベリグダイ​」。​班里赤​​バリチ​は、錢大昕の考異に「疑卽​巴而朮阿而忒​​バルチユアルテ​也」と云へれども、憲宗紀九年に​札剌亦兒​​ヂヤライル​部人​脫歡​​トホン​に對して、​阿兒剌​​アルラ​部人​八里赤​​バリチ​とあれば、​畏兀惕​​ウイウト​の​巴而朮​​バルチユ​には非ずして、​阿嚕剌惕​​アルラト​の人なり。​孛斡兒出​​ボオルチユ​の親屬にやあらん。​闊帖兀​​コテウ​・​阿闌​​アラン​は、卽​闊迭兀​​コデウ​・​阿喇勒​​アラル​、太祖︀創業の地なり。​斡難︀​​オナン​河と云へるは誤れり。​闊迭兀​​コデウ​・​阿喇勒​​アラル​は、​客魯嗹​​ケルレン​河の中島なることは、實錄の注に屢云へるが如し。

 洪釣の憲宗本紀補異は、​多遜​​ドーソン​の史を述べて、​阿勒克塔克​​アラクダク​山の大會畢り、「皇后使者︀歸報。后與二子​闊札​​コヂヤ​・​納古​​ナグ​大不悅、遣使吿​巴禿​​バト​「會議非地、宗王未集、議不能從」。​巴禿​​バト​謂「明年再會於東。太祖︀太宗大業、未可輕