に從ひ宋を伐ち、その武功は、札剌亦兒ヂヤライルの阿剌罕アラハンに似たり。二十三年、鎖南王脫歡トホンを佐けて交趾を征し、大德元年に卒しき。
忒木迭兒テムデルと共に侍衞の第二班の宿老となれる一人は、者︀古ヂエグとあり。者︀古ヂエグと云ふ名は耳新し。不者︀古ブヂエグの不ブを脫したるにて、速別額台スベエタイと共に西征に從へる不者︀克ブヂエク、卽札剌亦兒ヂヤライルの撥徹ボチエならん。これも、札剌亦兒ヂヤライルの不合ブカの親族なるべし。
侍衞の第四班の宿老を輔くる忙忽台モンクタイ(實錄六四九百)は、前に知りたりし忙忽惕モンクトの朶豁勒忽徹見必ドゴルクチエルビの親族なるべければ、札剌亦兒ヂヤライルの札剌亦兒台ヂヤライルタイ、兀哴合ウリヤンカの兀哴合台ウリヤンカタイの如く、姓を名としたるならん。高麗史に見えたる憲宗三年十一月也窟エク大王の命を受けて高麗の朝廷に使したる蒙古大モングタイ、元史世祖︀紀に屢見えたる忙古帶モングダイは、この忙忽台モンクタイなるべし。世祖︀紀一に「中統元年五月、詔燕帖木兒忙古帶エンテムルモングタイ、節︀度黃河以西諸︀軍。詔平陽京兆兩路宣撫司、僉兵七千人、於延安等處守隘、以萬戶鄭鼎昔剌忙古帶シラモングダイ領之。七月、宋兵攻邊城。詔遺太丑タイチウ〈[#「丑」は底本では「※[#「𠃍/七」]」。「元史(四庫全書本)卷4第13丁」では「尹」(yǐn)に似た字。s:zh:元史/卷004に倣い発音が底本のルビ「チウ」に近い「丑」(chǒu)とした。]〉・怯烈ケレイ・忙古帶モングタイ、率所部合兵擊之。二年八月、初立勸農司、以忙古帶モングタイ爲涿州勸農使」。世祖︀紀三に「至元五年八月、命忙古帶モングタイ、率兵六千人、征西番建都︀ゲンド」。世祖︀紀四に「九年正月、勅皇子西平王奧魯赤アウルチ等、與四川行省也速帶兒エスダイル部下並忙古帶モンゲダイ等、同征建都︀ゲンド」。世祖︀紀五に「十一年正月、以忙古帶モングタイ等新舊軍一千五百人戌建都︀ゲンド」などあり。世祖︀紀二に「中統四年正月、陵州達魯花赤蒙哥ダルハチモンゲ戰死濟南、以其子忙兀帶モングダイ襲職。六月、以管民官兼統懷孟等軍俺撒エンサ戰歿汴梁、命其子忙兀帶モングダイ爲萬戶、佩金符」などあるは、太宗の時より仕へたる忙忽台モンクタイに非ざること論なし。列傳卷十八なる塔塔兒タタルの忙兀台モンゲタイも、「事世祖︀、爲博州路奧魯アウル總管、至元七年、又爲監戰萬戶、佩金虎符、八年、改鄧州新軍蒙古萬戶、治水軍于萬山南岸」などありて、世祖︀紀の忙古帶モングタイと別の人なれば、祕史の忙忽台モンクタイにも非ざるべし。又契丹キダンの耶律阿海︀エリユアハイの長子も、忙古台モングタイと云ひ、「在太祖︀時、爲御史大夫、佩虎符、監戰左副元帥、官金紫光祿大夫、管領契丹キダン漢︀軍、守中都︀招安水泊等處」とあれども、色目の人にて番直の官人となれる例なければ、祕史の忙忽台モンクタイとは異なり。
十二。委兀兒台ウイウルタイ、阿喇淺アラツエン。
兀嚕兀惕ウルウトの察乃チヤナイと共に營盤官となれる委兀兒台ウイウルタイ(實錄六五五頁)、許兀愼ヒユウヂンの脫忽察兒トクチヤルと共に站ヂヤムを整ふることを命ぜられたる阿喇淺アラツエン(六五九頁)は、何姓の人なるか知らず。