伐ち、十二年七月、張世傑の舟師を焦山の下に敗り、その月中書左丞相。列傳卷十五に傳あり。氏族表に據れば、阿朮の子不憐吉歹ブレンギダイは、河南行省の左丞河南王。
八。忙忽惕モンクトの忽亦兒荅兒クイルダル。
列傳卷八、「畏荅兒ウイダル、忙兀モング人」は、功臣の第二十一なる忙忽惕モンクトの忽亦兒荅兒クイルダルなり。その子忙哥モンゲは、功臣の第五十二なる蒙可哈勒札モンケハルヂヤ〈[#ルビの「モンケハルヂヤ」はママ。明治40年初版「成吉思汗実録」三二三頁(§202)では「モンコハルヂヤ」]〉なり。太宗、畏荅兒ウイダルの功を思ひ、「復以北方萬戶、封其子忙哥モンゲ爲郡王。歲丙申、忽都︀忽フドフ大料漢︀民、分城邑、以封功臣、授忙哥モンゲ泰安州民萬戶。帝訝其少。忽都︀忽フドフ對曰「臣今差次、惟視︀舊數多寡。忙哥モンゲ舊纔八百戶」。帝曰「不然。畏荅兒ウイダル封戶雖少、戰功則多。其增封爲二萬戶、與十功臣同爲諸︀侯者︀、封戶皆異其籍」。兀魯ウル爭曰「忙哥モンゲ舊兵、不及臣之半、今封顧多於臣」。帝曰「汝忘而先橫鞭馬鬣時耶」。兀魯ウル遂不敢言」。兀魯は、兀嚕兀惕ウルウトの主兒扯歹ヂユルチエダイの子怯台ケタイ郡王なり。この傳は、全く姚燧の撰れる平章忙兀モング公(博羅歡ボロホン)の碑に據りたるが、事實に誤あり。丙申の年、怯台ケタイは、德州の二萬戶を賜はり、忙哥モンゲと同額なれば、「今封顧多於臣と云ふべき筈なし。橫鞭馬鬣の一事に至りては、有無も知るべからず。たとひ有りとも、旣に命を受けて、王罕の大軍を敗り、太祖︀一生の大戰なる合剌合勒只惕カラカルヂトの役は、主兒扯歹ヂユルチエダイの力に依りて勝を決したれば、太祖︀深くその功を賞し。主兒扯歹を高山の遮護に譬へ、元史の撰者︀も、その語を採りて傳に入れたる程なるに、太宗何ぞその微過を摘みて大勳を傷くるの理あるべけんや。これは、蓋兩家の子孫、その祖︀の功を述ぶるに競ひて、遂にかゝる中傷の談をも造れるにて、二大功臣の同功一體の素志にも違ひ、太祖︀太宗の功臣を優遇する盛意にも怫れり。朮赤台チユチタイの傳にも誤は多けれども、この傳の誤は殊に誣罔に似たるが故に、聊辨じ置くなり。忙哥モンゲの孫只里瓦䚟ヂリワダイ・乞荅䚟キダダイ曾孫忽都︀忽フトフ・兀及チユナイ・忽里フリ・哈赤ハチ、皆郡王を襲げり。朮赤台の傳に、阿里不哥アリブカの亂の時、怯台ケタイの少子哈荅ハダと忽都︀忽フドフと自ら請ひて軍に從ひ、石木溫都︀シムウンドの地に戰へりとあるは、この忽都︀忽なり。忙哥の從孫博羅歡ボロホンは、至元中、宋を擊ち、叛王乃顏ノヤンを討じ、皆功あり、大德中、江浙行省の平章政事。その子孫に顯人多し。第三子埜先帖木兒エツセンテムルは、河南行省の左丞相。
九。客咧亦惕ケレイトの哈散納ハサンナ。
列傳卷九、「哈散納ハサナ、怯烈亦ケレイ氏」は、功臣の第二十なる許孫フスンなるべし。哈散納ハサナは、巴勒主惕バルヂユトの一人にて、後には「管領阿兒渾アルクン軍、從太祖︀征西域、下薛迷則干セミスカン・不花剌ブハラ等城」。太宗の時、平陽太原兩路の達魯花赤ダルハチ。
十。塔塔兒タタルの不只兒ブヂル。
列傳卷十(元史一二三)、「布智兒ブヂル、蒙古脫脫里台トトリタイ氏」は、功臣の第三十八なる不只兒ブヂルなり。父紐兒傑ニウルケ「嘗道逢太祖︀。前驅騎士別那顏ベノヤン邀與俱見、云云」とある別那顏ベノヤンは、者︀別那顏ジエベノヤンなるべし。布智兒ブヂルは、軍に從ひ、回回フイフイ・斡羅思オロス等の國を征して、屢力戰し、その後「憲宗以布智兒ブヂル爲大都︀行天下諸︀路也可札魯忽赤エケジヤルフチ、印造寶鈔」。也可札魯忽赤エケジヤルフチは、大斷事官なり。憲宗紀元年卽位の條に「以牙剌瓦赤ヤラワチ・不只兒ブヂル・斡魯不オルブ・覩荅兒ドダル等、充燕京等處行尙書省事」とあるは、官名を漢︀語に飾りたるにて、その實は卽札魯忽赤ヂヤルフチなり。大都︀行天下諸︀路と云へるも、蒙古語を後に譯したるにて、憲宗の時は、未大都︀の名あらざりしなり。昔里鈐部シリケンブの傳に「遷斷事官云云。憲宗以卜只兒ブヂル來茫行臺、命鈴部ケンブ同署︀」とある行臺は、卽燕京の行省なり。布魯海︀牙ブルハイヤも、夙くより斷事官となりて、卜只兒と共に順天等路を按察したる人なるが、その傳に曰く「時斷事官得專生殺︀、多倚勢作威。而布魯海︀牙ブルハイヤ、小心謹︀密、愼於用刑、云云」。布智兒ブヂルは、布魯海︀牙ブルハイヤの如くにはあらざりけん。本傳には何とも云はざれ