り。又列傳卷十なる哈八兒禿ハバルトの傳に「憲宗時、從攻釣魚山有功、云云。從千戶脫侖トルン伐宋、沒于陣」とあるは脫侖扯兒必トルンチエルビの時代と合はざるに似たり。
十九。塔塔兒タタルの失吉忽禿忽シギクトクの續。
功臣の第十五 十六 十七 十八なる許兀愼ヒユウヂンの孛囉忽勒ボロクル、塔塔兒タタルの失吉忽禿忽シギクトク、篾兒乞惕メルキトの古出コチユ、別速惕ベスツトの闊闊出ココチユ四人は、宣懿太后の育て擧げたる拾ひ兒にして、太祖︀は弟の如く思ひて、親信他人と異なりしが、四傑に加はりたる孛囉忽勒ボロクル卽博爾忽ボルクの外は、元史に傳なし。たゞ失吉忽禿忽シギクトクの事は、前に引ける太祖︀紀太宗紀の文の外に、列傳卷二なる睿宗の傳に、太宗三年辛卯の十二月禹山の戰の後、「壬辰(四年)春、合達カダ等知拖雷トルイ已北、合步騎十五萬、躡其後。拖雷接兵、遣其將忽都︀忽クドク等誘之。日且暮、令軍中曰「毋令彼得休息、宜夜鼓譟以擾之」。云云」とありて、遂に三峯山の大捷を得たることを載せ、親征錄に三峯山の戰の後、「上至南京、令忽都︀忽クドク攻之」、木華黎の傳に附記せるその孫塔思タスの傳に「三月、帝北還、詔塔思、與忽都︀虎クドフ統兵略定河南諸︀郡」、列傳卷八なる抄思チヤウスの傳に三峯山の戰に功を立てたる後、「制受萬戶、與內侍胡都︀虎クドフ留、乞僉起西京等處軍人征行、及鎭守隨州」とあり。又親征錄に、太宗六年甲午金を滅ぼしたる後、「遣忽都︀忽主治漢︀民」とあるは、太宗紀の「秋七月、以胡土虎那顏クトフノヤン爲中州斷事官」を云へるにて、耶律楚材エリユソサイの傳に「甲午、議籍中原民。大臣忽都︀虎等、議以丁爲戶。楚材曰「不可。丁逃、則賦無所出、當以戶定之」。爭之再三、卒以戶定」とあり。錢大昕の考異に未知切的主虎を石抹明安シモミンガンの次子なる忽篤奉クトカならんと疑ひたるは、失吉忽禿忽シギクトクの斷事官は太祖︀の命に本づきて蒙古より中州に遷りたることに心附かざりし爲ならん。列傳卷二十二なる鐵哥朮テゲチユの傳にも、鐵哥朮テゲチユの父野里朮エリチユは、「兼長四環衞之必闍赤、壬辰從國兵討金、以戰功最多、賞賚優渥。甲午、副忽都︀虎、籍漢︀戶口、籌其賦役、分諸︀功臣以地。人服其敏︀」とあり。但功臣に地を分てるは、六年甲午にあらずして、下に引けるが如く八年丙申にあり。又列傳卷三十六なる郭寶玉の傳に附記せるその子德海︀の傳に「太宗詔大臣忽都︀虎クドフ等、試天下僧︀尼道士、選精︀通經文者︀千人、有能工藝者︀、則命小通事合住カチユ等領之、餘皆爲民、‥‥從德海︀之請也」とあるは、この頃の事なり。憲宗の時、劉秉忠の世祖︀に上れる書に「自忽都︀那演クドノヤン斷事之後、差徭甚大」と云へるを見れば、その政の何如を窺ふべし。七年乙未の春、皇子曲出と共に宋を伐ちたることは、列傳卷七の察罕チヤガンの傳に「皇子闊出忽都︀禿コチユクドト伐宋、命察罕チヤガン爲斥候、」列傳卷十六なる阿剌罕アラハンの傳に「父也柳干エリウガン、歲乙未、從皇子闊出忽都︀禿コチユクドト南征、」列傳卷二十なる脫歡トホンの傳に「父脫端トドン爲萬戶、從皇子闊出忽都︀禿コチユクドト、略汴宋睢宿等州」とあるは、いづれも虎を禿と誤りたるなり。列傳卷九なる鐵邁赤の傳に「從皇子閥出、忽都︀、行省鐵木荅兒、定河南、累有戰功」とあるは、忽都︀クドの下虎フの字を脫したるなり。又列傳卷九なる槊直瞃魯華シユチトルカの傳に「金亡、命大臣忽都︀虎クドフ、料民分封功臣」、親征錄に、乙未の夏「遺曲出忽都︀忽クチユクドク、籍到漢︀民一百二十萬有奇、遂分賜諸︀王城邑各有差」とあり。この事は、太宗紀にはこの年に載せざれども、八年丙申の六月「復括中州戶口、得續戶一百一十餘萬」、その七月「詔以眞定民戶奉太后湯沐、中原諸︀州民戶、分賜諸︀王貴戚」とあるは、卽その事にして、皆忽都︀忽クドク斷事官の取扱なり。畏荅兒ウイダルの傳に「歲丙申、忽都︀忽クドク大料漢︀民、分城邑、以封功臣」。耶律エリユ楚材の傳に、丙申の七月「忽都︀虎クドフ以民籍至、帝議裂州縣、賜親王功臣。楚材曰「裂土分民、易生嫌隙、不如多以金帛與之」。帝曰「己許、柰何」。楚材曰「若朝廷置吏、收其貢賦、歲終頒之、使母擅科徵、可也」。帝然其計、遂定天下賦稅」、とあり。楚材の傳と劉秉忠の上書の文とに依れば、忽都︀忽クドクの政は人意に滿たざる所ありしが如くなれども、世祖︀嘗て兵を典り民に宰たる者︀の害を爲すを憂へて、張德輝に問へる時、德輝對へて「莫如更遺族人之賢如口溫不花クウンブハ者︀、使掌兵權、勳舊則如忽都︀虎クドフ者︀、使主民政。若此、則天下均受賜矣」と云へる