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藥 (梶井基次郎)

本文

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私が身體を惡して東京から歸つて來たとき、一日母がなんともつかぬ變な顏で、
「またお前が怒る思うて云はなんだんやけど、お前の病氣にええ云ふて、人から藥が貰うたあるのやが、お前飮んで見るか」
と云ひ出した。母の變な顏つきや自信のなさそうママな態度で、餘程變なものにちがひないと思つ〔<て一應さういふものに對する彈劾を>〕たのであるが、きいて見ると案の如く、これはまた、人の腦味噌の黑燒であつた。
〔呉れた人といふのは毎日〕それを呉れた〔人間〕のは家へ靑物〔を持〕や卵を〔持つて來〕賣りに來る女で自分の弟が肺病で死んだ、そのとき寺の和尚がこの病氣で死んだ人の腦味噌〔の黑燒〕はこの病氣〔に〕の藥になるから、これも人助けだ、取つて置いて〔こんな病氣になつた〕また人に頒けてやりなさいと云つて、恐らく野良で燒いた〔屍體〕死骸なのだらう、そのなかから取り出して呉れたのだそうである。〔勿論默つてゐる人間にそんな〕
〔私はその話をきいてゐるうちに變に歪められたやうな氣になつた。〕


<それをくれたのは家へ靑物や卵を持つて來る女の八百屋で、>母は決してそれを呉れとは云はなかつたの〔だそう〕であるがその女が呉れると云つて持つて來たものだから無〔下〕理に斷る譯にもゆかず貰つてしまつたのだと云つた。〔私が〕〔いくら遠くへ離れてゐる息子のことが心〕……(缺)

この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。