小さき良心

提供:Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動


本文[編集]

自分は人通りをけて暗い路をあるいた。
耳がシーンと鳴つてゐる。夢中にあるいてゐる。自分はどの道をどう來たのかも知らない。つく杖の音がカツ々とする。この太い櫻の杖で今人を撲つて來たんだ。
此處は何といふ町かそれもわからない。道を曲つて、曲つて、暗い道、暗い道をあるいて來たのである。新京極から逃げて來てからあまり時間を經たとも思はない。しかし何分程經たといふこともわからない。
暗い道の辻を曲つた時、うどんそば手打と書いた赤い行燈を見て、ふと「手打ちだ!」と思ひ出すともなく思つたあの瞬間を思ひ出した。それは抜打ちだつた。「抜く手も見せず」といふ樣な言葉の聯想が湧いてくる。
杖をコツ・コツと突いてゐる。あの男を撲つた時はも少し高い音がしたと思ふ。コツ・コツ。それ程の音だ。何しろかたいものがかたいものに打つかる音だつた。それは快く澄んだ音だつた。その音はかくも無性な激しい怒りとまとひつく怖れのもつれあがるおをぶち切つたのだ。
對手はその途端くるつと後をむいて倒れたらしかつた。自分は直ぐに逃げ出したのである。
「糞!」とも「畜生!」とも云はずに、この間の抜けた「阿呆!」といふ言葉は、人に手を加へる時の切バ詰つた氣持を洩らす無意識の掛聲だつた。
巡査がやつてくる。自分はぎくっとする。路を曲がれたら。駄目だ。何げない顔をして通る方がいゝ。そママうだ。何もなかつた樣な顔をして口笛でも吹いて。巡査はちらとゆきすぎる。
自分は自分の馬鹿を悔いる。自分にママはすこしも惡いことはしなかつたつもりだ。撲ぐられた男こそは生きる資格もない卑劣漢だ。屠られるべき奴だ。
道は暗い。みな寐しずまつてゐる。
俺は順さが變に氣味が惡い。
自分は鑑札のない自轉車にのつて二度巡査につかまつた。そして二度警察へ行つた。未丁年で煙草を喫つてゐて巡査に年をきかれた。それからこちら、巡査に出喰はす毎に、怪しまれるといふ樣な豫感が自分を襲つた。
去年奥さんと二人連れで道をあるいてゐた時だつた。交番の前で、巡査に叱られる樣な氣がしたといつたら、花子さんは惡いことをしてゐるつもりでゐるのかときいた。
道は暗い。何町だかわからない。ごみためのにほひがする樣だ。氣は少し鎭まつて來た。撲つた時は勿論撲つてからこちら自分には策略といふ樣な氣持になれなかつた。かつと逆上つたまゝあるいた。耳に鳴りはためく焔の樣な物音をきゝながら無暗にあるいてゐた。自分はあんな木の端の樣な男のために、そして下らない喧嘩のためこの樣に氣が上釣ママてしまふのが腹立たしかつた。これであちらがどつしりしてゐては悲惨だ。せめて俺を一心に呪つてゐればいゝ。齒切りして口惜しがつてゐればいゝ。一途に悔いてゐればいゝ。その致命的な傷のために。
然しあるく毎になにか高くに上つてしまつたものが少しづゝ下つて來た樣な氣がする。一體何のための昂奮なんらだう。
シヤツとさるまたの若者達が道の眞中で棒押しをしてゐる。そのあちらには明るい通りがある。それは市場だつた。奥さんと一緒に銀杏を買ひに寄つたことのある市場だつた。京極からは何程も離れてゐない市場だつた。はじめて自分はどんな街をあるいてゐるかがはつきりした。明るい町はいけない。人に面を見られちやならない。
何だか追手がくる樣な氣がする。追手がきらつて平氣な筈であるのに俺はなぜこんなこと迄怖れてゐるのかと思ふ。然し自分には對手に又出喰はすとか追手につかまるとかいふ事の漠とした恐怖がある。自分は自分の方の正義の意識と獨立に、そういふ事柄に對する恐怖を持つてゐるのだ。漠然としてゐるが變に蔓つてゐる。そして破つても破つても少したつと又おつかぶさつて來る。
白い運動肌衣の男が二人肩を並べて走つてくる。互いに途切れ途切れに話をしてゐる。自分にはその親和の樣がかつた。
人に怨みを買つた經驗に乏しい自分が二人の敵をつくつてしまつた。そして敵は平氣で卑劣なことが出來る男だ。笑ひながら復讐を謀つてゐるその男の一味の顔さへ目に浮んだ。どんな復讐をするかわからない。いや、死んでもあんな奴等に敗けてゐては堪らない。然しあんな奴等といがみあふのは堕落を意味する。斷然殺してしまはねば死ぬ迄まとひつく樣な蛇にも思はれる。あの男が一生俺につきまとふ。そして心の平和を害する。
惡い犬に吠えられるのを、いまいましがる樣なものさ。あんな男達と本氣で喧嘩するなんて問題にも何にもならないよといつて誰かが鼻で嗤ふ樣な氣もした。
眞し(摯)な友達はどうしてゐるだらう。
自分は下宿を出てから三晩目だ。毎晩酒を飲んでゐた。そして今夜は一文もなかつたんだ。下腹で空腹の時の樣な痛みがする。
先程の酒場で直ぐ來るといつて別れたKの所へ行き度い。心持ちに待つてゐるに違ひない。直ぐ來(行)くと云つたものゝ、直ぐに行けない樣になつてしまつた。撲つたのはその酒場の前の石疊の上だつた。Kはその氣配におどろいただらう。その快くかたい音を同じ樣に快くきいただらう。きいてどう思つたゞらう。あのKなら自分と同じ世界に住んでゐる。自分はこの荒んだ氣〔持〕で下宿へは歸りたくない。あのKと今夜この不愉快な気を語り度い。そして自分の心を少しでも明るい方へ向けたい。然し直ぐあの酒場には行けない。あの怖しい男がそこで介抱をうけてゐるかもしれない。
道は暗く、時刻も分らなかつた。しめきつた家並は黑く寐しづまつてゐる。心にはやゝゆとりが出來たが足は前と同じ歩調ですたすたと歩いてゐる。
ずつと先きを電車が過ぎつた。この町はどこかわからない。一軒の家の軒に某檢閲官宿泊所といふ貼紙が白く見える。
光と人の目をおそれる心をはげまして電車道へ出た。そこは四條通りであつた。人々があるいてゐるのが樂しそうだ。
自分は何げない顔をして玩具屋の店頭に立つて玩具をめきゝする。三重子ちやんと四方子ちやんに玩具を送つてやらねばならない。
美しい娘が母らしい人と歩いて來る。俺の顔は靑ざめてゐるだらうか。こんな太い櫻の杖をついて恐ろしい學生だと思ふだらうか。
氣持は少しくつろいだ。撲つた時のあの顔を一度鏡で寫して見て置くんだつたと思つた。もう顔のかたい線も和んだだらう。泰然としてゐなければいけない。
京極はすぐだ。○○堂の前。店員の怪しむ樣な眼を睨みかへして油繪を見た。荒いブラッシの使ひ樣である。片眼を半分閉じママて見る。右の眼蓋がけいれんする。下品な繪だ。駄目だと思ふ。
突然自分はぎよっとした。何げなくしかも速かに横を向いてあるいた。急がない樣に急いで又暗い道へ入つた。三人の男が立ち話をしてゐたんだ。近寄つて見る勇氣もない。あの中の二人が似ている。
蹴り上げられた心臓が喉も詰りそうに激しく動(悸)つ。臆病だ、弱蟲だといふ聲がまた地團太を踏んでゐる。
道もつきあたればE(子)の家になる。E(D)といふ友達の戀人の家である。男と女が通り過ぎる。
あの眼鏡屋の時計は十時前だ。活動を出たのが八時半頃で酒場へ行つたのは九時前だつた。喧嘩をしてからまだ一時間程しか經たない。何時間も經つた樣な氣がする。
E子は何といふわからない女だらう。Dは東京で寂しがつてゐる。俺の留守の下宿へ又センティメンタルな手紙がきてゐるにちがひない、早く返事をかいてやらねば可哀そうだ。
性のよくない男と喧嘩して街をさまとつた擧句E子の家の前までやつて來た。君が胸を躍らせながら俺と毎晩あるいたあの眼鏡屋の通りを隅(偶)然今歩いてると書いてやつたらどう思ふだらう。あの事件があつて以来DはE子を憎んでゐる。自分がE子の家の前を通るのは、もしE子や家の人がこれを知つたら、Dに變に氣をまわママすかも知れない。然し通らなければならない。俺は散歩をしてゐるんだ。杖をついて散歩だ。眞直(ぐ)あるいてゐるのだ。
巡査があるいてくる。これがさきの巡査だつたら怪しく思ふだらう。何しろ俺は散歩をしてゐるんだ。
道は暗く空には星が一面にちらばつてゐる。東へ曲つた時東山の上に蠍の尾が美しく見えた。道は一すじに……(空白)


俺はあるいてゐる。燦爛とした星の下を。昂奮と怖れと苦悶に厭せられながら。ひつそりとした暗い町を今人間の形をした苦悶が火熱(照)つて行き過ぎるのではないか。
だが蒼い顔をした學生が散歩してゐるとしか見えないのだ。
眼蓋がひくひく痙攣する。
俺には何が善だか惡だかわからない。
わかつてゐなくとも通常の生活では胡麻化して來ることが出來た樣な氣がする。然し今夜こそ駄目だ。俺は怒りにまかせて人を撲つた。それからそれへと平氣ではゐられないものが絶えず連續してゆく。しかも自分はわからない。それが苦しい。
一つの問題に惱んでゐる自分の前に、問題が次々と山の樣に積まれてくる。そして自分はその内の一つも解き得ないでゐる。それが苦しい。
鋭利な解剖刀の樣な普遍的法則が、それさへあればこの拷問的の荒繩を涙が出る程切りとばしてばらばらにしてやるのに。
あゝ、それさへあれば。
思へば自分はそのエルサレムへ急ぐ巡禮だつた。
ハヽヽ。おいその巡禮が酒をのみに行つたんだ。それから杖で人を撲つたんだ。たヽなはる葡萄畠や古い町々を涙を流して過ぎるかわママりに、巡査と睨みあいながらバビロンをほつつきまわママつてるんだ。それは外道の道だ。
馬鹿、惡魔。これは俺の巡禮だ。通らなきやならなかつた路だ。そして通つて來た路だ。この路は聖地に通ずる。
然し自分の聲には力が枯れてゐた。
このいまわママしい經驗を裏返へしても自分を力付ける樣な溫い運命の微笑がにほひ出ることはなからう。蛆も食ふまい。
これには臆病のにほひがしみ通つてゐる。
人を撲つたといふことがこんなにも苦しいことなんだらうか。堪えママ難い面罵にも自分はたへられるだけ堪えた。
止めれば止める程喧嘩を吹きかけて來る。敵手は少し醉つてゐた樣だつた。最後に自分は河原へ敵を誘つた。堪え切れなかつた侮辱のため投げられたガウントレットを拾ひ上げたのだ。
それから敵手が少しひるんで見えた。和解しやママとした。然し自分には胡麻化されないといふ氣があつた。敵はその酒場を出るや否や自分の襟をとつて離さなかつた。
撲りつけたのはその手を振りもぎつたせつな(刹那)だつた。
それは如何にも必然な喧嘩だつた。原因といへば自分がその男の酒を飲まないと云つたことであつた。平常から自分はその男に惡感をもやう(もよほ)してゐた。
それは一寸も心を苦〔し〕める樣な喧嘩ぢやない。お前の内で苦しんでゐるのは臆病の蟲だけなんだ。雄々しく決闘しろ。
負傷を恐れるな。その傷口からふき出す血でお前の臆病も流れ出てしまふ。


氣がつくとその路を自分は今夜三囘も通つてゐた。交番がある路だつた。此ママ度目は怪しまれる。
巡査さん。扇子屋がこの邊にあつた筈ですが。さつきから見つからなくつて。ありました、ありました。
なにげないふりをして、自分は扇子屋の前に立止る。そして交番へ目を注ぐ。これは豊國のかいた近江八景の繪です。左様、豊國は有名は浮世繪師です。
活動寫眞がはねたのか、たくさんの人が通る。酒が臭つてくる、暗い靜かな町を通つて來た自分にはそれがよくわかる。辻待ちの車夫の溜りで車屋が手をねぢ合ひしてゐる。又一人の車夫が笑ひながらなんとか云つてゐる。當人同志もげらげら笑つてゐる。
そして今度は帽子の奪ひ合ひをしてゐる。
車夫は呑氣なものだと思ふ。皺の寄つた顔をして、學生帽の樣な帽子をかむつて。
時計は十時前だ。一時間餘りもおびえながら街をあるきまわつてゐた。何故自分は遠くへ逃げなかつたんだらう。此處は京極通りの裏ではないか。自分は酒場で會ふ約束をしたKと一緒にならうといふ氣が絶えず自分を引つ張〔つ〕てゐたのを知つた。Kは自分に、喧嘩を避けて何處かで脱けてやつて來給へ。東京以来の話をしやうと云つた。この荒まじい氣をKは和げて呉れる。
あの酒場にはいづれにしてもあの男等はゐまい。撲られた儘でその酒場にゐるとは思へない。しかも出る時他の一人が堪(勘)定をしたのを自分はしつてゐる。
細い道を横切つて思ひ切つて賑やかな京極へ出る。酒場はそのあちら側の裏だ。
活動の小屋の横を通る。三味線の流しがきこえてくる。自分は櫻の杖が棄てゝしまひたかつた。氣持は最も落付ママいてゐた。夏服が冷く肌に應へる。辻を曲る。酒場は二軒目だ。垣根ごしにのぞいて見る。
杖が先き迄震えママてゐる。石疊の路上を横にそれ樣とする途端黑い人がつきあたつた。
杖が落ちた。次に自分は捕繩をはめられてゐた。殺人罪だ。垣根越しにのぞき込んだ時の酒場の内部が鮮やかによみがへつた。
俺は正しい。俺は正しい。喉にからんで聲が出なかつた。吐き氣がついてからえ(ゑ)づきをした。
黑い男は何とも云はずに自分をつきとばした。

この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。