「靑空」のことなど

提供:Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

本文[編集]

文藝部から嶽水會雜誌の第百號記念號へ載せる原稿をと請はれたが、病中でまともまつたものへ筆を起す氣力もなく、とりとめもない「靑空のことなど」で私に課された責を塞ぐことにする。


「靑空」といふ雜誌は大正十四年の一月から昭和二年の央まで發行されてゐた。僕達三高卒業生の據つてゐた同人雜誌であつた。皆が三高を出てから東京へ行つて出したので、それの追憶と云へば舞臺は東京になる譯であるが、私はそれの培はれた三高時代の思ひ出にこの話を限り度い。三高時代私達は劇研究會といふものを持つてゐた。これが靑空の前身であつた。それは劇の方では本讀み、演出などをやつてゐたが、そこには名目通りの劇研究があつたといふよりも、寧ろ廣汎な文藝に對する私達の飽くなきアスピレイシヨンが團結してゐたのであつた。劇作は思ひ出して見ても、外村茂の數篇位ゐで、演出は――この演出に就て語るのは實にたくさんの記述が要る。私達でやる筈になつてゐた試演會は校長の禁止で、公演の前日に迄もなつてゐて、それを思ひ切らなければならない破目になつたのである。今でこそそのことはこんなにもあつさりと書けるのであるが、その當時その打撃は私達の生活をまるで打ちのめしてしまつた。校長からはその代償といふ譯ではなかつたらうがとにかくいくらかの金が出たのであるが、それはたしか新聞へ出す中止廣告の廣告代にも足らなかつた。そのうへ、大道具小道具に要した金、練習場、會場に要した金、プログラムや切符に要した金、それらは會員達が何ケ月もかかつて積立てた準備金の到底補充出來る額ではなかつた。中止に氣落ちした面々がまた心を取直して何の希望もない經濟的なまた勞力的なあと片づけを默々とやりはじめたときの氣持は今思ひ出しても涙が零れる。それのみか――これはだんだんあとになつて耳に入つて來たことではあるが――私達の公演を援けたフロインデインに就て下等な憶測が、學校當局ではどうであつたか知らないが、生徒達のなかに働いてゐたらしいのである。これには胸が煮えたぎる程口惜しかつた。恥あれ!恥あれ!かかる下等な奴等に!そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があつたのだ。彼等にはさういふことがわからない。これは實に口惜しいことだつた。それから何年も經つてからであつたが、第三者からふとそのことに觸れられた。場所も憶えてゐるがそれは大學の池のふちである。その瞬間、ながらく忘れてゐたその屈辱の記憶が不意に胸に迫つて來て、私の顏色が見る見る變つたので、何も知らないその人を驚かしたことがあつた。こんな屈辱は永らく拭はれることのないものである。
ついでだからそのときの出し物を思ひ出して見やうママ
チエホフの 「熊」      一幕
シングの  「鑄掛屋の結婚」 一幕
山本雄三の「海彦山彦」    一幕
「熊」の老僕にはあとで「靑空」の同人になつた小林馨がなつた。小林は東北の生れで東北なまりが、その役に實にうまく生かした。借金取にはあとで「眞畫」を作つた楢本盟夫がなつたが、楢本は、ぷんぷん怒る男なので、またその短氣なせりふが打つてうけで、今思ひ出しても思はず笑へて來るほど面白かつた。シングの「鑄掛屋の結婚」はこの三つのなかで芝居としては一番いいものだと今でも思つてゐるが、それは稽古を重ねてゐるうちに自然胸に感じられて來たことであつて、たつたそれだけのことでも、自分等の努力が手探りにわからせて呉れたのだと思ふとどんなに樂しかつたか知れない。これには「靑空」の中谷孝雄が田舎の老牧師になつて出てゐる。「眞畫」の淺見篤も一役持つてゐた。中谷の老牧師は袋かなにかをかぶせられてぶん撲られたりするのであるがこれがまた可笑しかつた。臺本は松村みね子氏の譯本に據つたのだつたが、この定評ある飜譯もテキストと讀みああせて見ると意味を通じなくしてしまつてあるせりふや誤つたト書などがあつて、その發見などはなか鼻の高いものだつた。英國の俗謡が出て來る。それはエルダー先生にFisher Womenの譜を借して貰つて稽古した。「海彦山彦」は「靑空」の外村茂と淺沼喜實とがやつた。これには撲り合ひの兄弟喧嘩があるので、それを熱心な外村がやるものだから、ほんたうの喧嘩みたいで、毎日それをやるときになると稽古する部屋の向ひの魚屋から人を立つて見てゐた。まだかういふことを書けば切りがない。とにかく私達が何ケ月もかかつて計畫し努力した、恐らくは三高はじめての試演會といふものは蓋のあく前日に、生徒として最後のもので脅かすことによつて、差止めになつてしまつたのである。
劇研究會としてこの試演ほど大きい事業はなかつたのであるが、私達はこの會合の名目通りに劇ばかりやつてゐた譯ではなかつた。私や中谷などは別に戲曲を物せず却つて小説を書いてゐた。そして「靑空」を出すやうになつてからは誰も戲曲も書く者はなくなつた。當時私達の持つて醫た雜誌は囘覽雜誌「眞素木(マシロギ)」といふ、原稿を單に製本しただけのものであつた。これは三册程しか出來なかつたと思ふ。ここへ書いたものが、嶽水會雜誌に原稿が集まらなくて、僕のものや中谷のものが轉載されたことがあつた。この「眞素木」といふ名前は後で「靑空」の随筆欄の名になつた。
私達は斯樣にして小さいものではあつたが非常に强固な文學的な團體を形作つてゐた。行先は東京の文科であり、東京へ出たら必ず私達で雜誌を作らうといふ氣持が云はずして醸されてゐた。ところが兎角さういふことは後れ勝ちになるもので、東京へ出て直ぐと思つてゐた發行が半年も少しも後れて初號は次の年の一月にやつと出ることになつた。同人はその劇研究會の中谷、外村、小林、それに私、そこへ中谷が獨文科の忽那吉之助を連れて來て五人、も一人それも中谷の友人で今鏘々とした新進歌人の稻森宗太郎が早稻田から加はつた。當時同人雜誌はまだ實に少ないものであつた。大學では小方又星、伊吹武彦、淺野晃、飯島正、大宅壯一、それに一高の連中がやつてゐた「新思潮」が漸く出はじめた頃で、慶應からは「靑銅時代」「葡萄園」――「辻馬車」や早稻田の「主潮」などは私の記憶に間違ひがなければ「靑空」よりも遲れて醫た。今の「新思潮」は當時の「新思潮」が潰れてから出たので勿論「靑空」よりはあとである。思へばその時分が同人雜誌氾濫のはじまりであつた。
その後間もなく私達のなかへは、私達のあと三高で劇研究會を維持してゐた、淀野隆三、淺沼喜實、北神正の三人が、東京へ出て來たので加はり、次いで飯島正や三好達治、北川冬彦の二詩人參加し、三年目にやはり劇研究會から龍村謙が來、「靑空」は年を追つて益々人を殖した。稀に例外があつたが、みな三高から、それも劇研究會からはいつて來たのである。そのほかにも同人を擧げなければ「靑空」についての全體は語られないが、まとまつて「靑空」のことを書く積りでもなし、管々しいことは省く。とにかく「靑空」は昨年の七月同人の多くが卒業論文で忙しくなり編輯をやめるまで月々撓みなく發行された。別に花々しく世のなかの視聽を欹てたといふ譯でもなく、流行の新人を送り出した譯ではなかつたが、それの持つてゐた潛勢力は當時人も知り私達も自信してゐた。そして同人の多くが入營や卒業のため四散してしまつた今でも、なほ私はそれを信じてゐる。「靑空」は遊戲氣分のない、融通の利かないほど生眞面目なものを持つた人達の集りであつた。廣く世の中へ出て見るに随つて、私達の持つてゐた素樸な熱意に振り振り敬禮せずにはゐられない。「靑空」から新人會へ、文學から解放運動へ出て行つうた私達の一人はその後もよく云つてゐた。「全く靑空でがんがんやつたのがよかつた。」然り「靑空」はなによりも私達の腹を作つた。
室生犀星氏は嘗て私達の中谷孝雄の作品を評して、氏獨特の表現で、「第一流の打ち込み方」と云つた。そしてこの評はまさに肯綮である。外村茂は「靑空」のなかでもその苦しいまで正義感に溢れた作風で人々の注目、畏敬を集めてゐた。こんな人達の今後の活動は、潛心を終つた淀野隆三の活動と共に非常に私達を期待させるものである。北川冬彦、三好達治は二人とも名を成した詩人である。「靑空」も考へて見れば随分いい人達を持つてゐた。
この稿は劇研究會の記録としても「靑空」の記憶としてもその十分の一も完全ではない。記載すべき人の名も事柄もその煩に堪へないので書くことを止した。そのうへ會員同人の人達が共有した追憶を私一人で私したやうな氣がしてならない。それだけのお斷りを云つて置く。
京都を思ひ出し、三高を思ひ出す毎に、尚賢館の北室や、佛敎靑年會館や、丸山の明ぼのを思ひ出す。私達が集まつて晩くまで本讀みをし、話をしたのも、佛蘭西から歸られた折竹先生を迎へてコポオの話を聞いたのも、さうした部屋の私達の圍居のなかであつた。そしてその記憶は常に東京のそれよりも樂しい。東京の思ひ出はいつも空つ風に吹き曝されてゐるやうな感じがある。京都ではいつもなにか溫かく樂しいものが私達を包んでゐて呉れた。溫かく、樂しいばかりではない。私はそのなかに自分を勇氣づけて呉れるものを常に感じてゐるのである。

この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。