貧しい生活より

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本文[編集]

私はその家に半年もゐたらうか。その家と云ふのは京都で私の寄寓してゐた家のことなのであるが、その家の薄暗いうらぶれた幻はその時の生活を思ひ出す毎に私の眼の前をかすめる。
西から入り込んで來て私の家のすぐ傍から左へ拔けてゆくあの細い、寂しいが靜かな道を思ひ出す。私のゐた部屋の――それは二階であつた。――西の窓から見えるその道はその樣にうら枯れてゐた。荒土の土塀がおちてゐたり、溝がこわ(は)れてゐたり、時には鼠の死骸が二三日も轉つてゐたり、それでゐてそれは變に步くものゝ心を淋しく靜思に導く樣な道であつた。私はその西の窓からよくその道を見下した。目の下の家、それは道の曲り角にあたつてゐた。その言えの少(小)さな庭に立つてゐる柿の木、百日紅の花。それから時々ぎいぎいと鳴り出す鞦韆の横木。
そのも一つ先にある家は屋根の廣い斜面の上に、六疊一間ほどの二階がそつと置かれた樣に載つてゐた。その二階の私の窓に對(あた)る方は硝〔子〕窓になつてゐて、磨硝子かなにかで中は見えなかつたが夜になると、衣服や書棚らしいものゝ影繪が映し出されるのだつた。
その私の家の前まで西から入り込んで來る道の北側、私の窓からそれは右側に見えたのだつたが、その家並びは皆同じ樣な、瓦をおいた土塀と少しその瓦葺よりは大きい屋根のついた門を持つてゐた。その塀の中には低い松の木や楓の樹などが植え(ゑ)られてあつたが、私はいまでもそこに植えママられてあつた椿の木のあの光澤(つや)やかな厚い葉の茂りを思ひ出す。その暗い葉の陰に、私は紅い椿の花を點じや(よ)う。
然しその花もその道端では決して眞紅な色には咲き出ない、ぽったり地に落ちたりしない、その町並みにあるものみなはみなすがれた淋しい色しか持つてゐなかつたのだ、
だからその花の色もあせた蕾を暗い葉陰に宿らせてゐるばかりで、その蕾も決して咲きはしなかつたゞらう、咲いても恐らくは花辨(瓣)のさきを褐色に枯らしながら、その崩れた荒土の塀を飾つてゐたに過ぎないだらう。
私はまたその道へ午後の四時頃になるとどこからとなくやつて來て、またどこへとなく曳かれてゆく驢馬のついた荷車を忘れはしない。なんて哀れっぽい驢馬だつたらう。それは半時間か一時間何を積むのか私の窓の下に立つてゐる。老ひ(い)ぼれて、薄野呂で、その滑稽(おど)けて可愛げである筈の長い耳さへたゞ憐れな氣持を起させるばかりだつた。何を考へるでもなく、どんよりと空間をみつめてゐるその動物の眼はいつでも悲しげに見えた。誰がそんな首の細い、脚の弱つた驢馬が重い荷をひいて營々と步いてゆく姿を想像し得や(よ)う。
それはとにかく私自身はその〔驢〕馬がその荷車をひいてゆく所を一度も見たことはないのだ。
その〔驢〕馬はその樣に毎日私の窓の下に立つ、雨が降る日などその動物はびしよびしよに濡れながらやはり洞ママろな瞳をその道にさらしてゐたのだつた。
その私の部屋の西向きの窓は一間であつたゞらう、二枚の硝子窓(戸)がはまつてゐた。その下の方の敷居が内側へ曲つてゐて、ひどく窓のあけたてが苦しかつたのを覺えてゐる。その硝子は糊の樣なものが不規律に塗つてあつて棧がこわママれてゐた、それを紙ではりつけたりしてあつた。決して洗つたことのないうす黑くよごれて黃色く塗(染)みの出てゐる木綿布の窓かけ――といふよりは日塗(除)けがそれを閉してゐた。
その部屋は四疊半程も敷けたらう。片側は壁、片側は押入れ、そして窓に向つた側は三疊の東向きの窓を持つた部屋に境してゐた。
壁は肌理の荒い土で塗つてあつたが、ひどくぼろぼろしてゐて、凭れかゝれば衣服にもつき疊の上へも落ちた。色が塗つてある節の多い柱と壁の間には狹い隙が出來てゐて、薄暗い晝間は日の光がそこから射し込んで來た。そしてそんな外面と通じてゐる隙間は窓ぎわママにもそのほかの所にもあつた。それは私のその時分の生活とは切り離すことの出來ない貧しさを部屋に仕立てたとでも云ひ度い樣な貧しさを持つ挺た部屋なのであつた。
押入れと云つてもそれは下宿人への必要のためにあとから造つたものゝ樣に思へた、押入れの襖に張られてある色紙はいつでも私に、私が小學校にゐた時分の、貧しい同級生が張紙細工の時に使つてゐた、色紙を思ひ出させた。それは古くくすんでゐて、その上隅の方に大きい破れがあつた。破れと云へば不器用に張られた壁の腰紙さへ、隅といへばみな剝げてゐた、壁〔紙〕と糊とその荒い肌理の壁とが馴染まなかつたのだらう、壁土をうすく附著(つ)けたまゝ剝げてゐるその紙はあ、その土の重みで垂れ下つてゐた。
古いいろをしてゐる疊は所々膨れてゐたりした。そしてその表ての薄さがよくわかつた、或はまた薄くなつてゐたのかもしれない、光澤のある所などはないまで磨り切れてゐて、埃がたまつてゐたのだつた。そして物を荒く置いたり、寐ママ床を敷く時など眼に見えて埃が立つた 古くからある靑インキや赤インキの汚點がそれを汚してゐたし、疊と疊の間や畳と敷居との間には大きな隙があつて いつからとはしれない暗いごみがたまつてゐた。
私はまたその上に備へるものとしては一脚のいやに角張つた机、うどん屋などに敷いてある樣な薄い汚れた木綿の坐ママ布團一枚、そしてそこには四五日も或は一週間も敷っ放しにしてある、寐ママ床、私の持つてゐるものは極く僅かだつた。本棚もなかつたし、それに本がなかつた。私は敎科書といつても足りない勝ちの數しかなかつたが、それと時々街で買つて來る古册子が十册程と、ノートに紙切れ。それ等は机の邊に雜然と轉がされてゐたり、寐ママ床の下敷きになつてゐたりしてその獄僅かの本が殆ど足の踏み立て所もない程散亂してゐたのだつた。それからまだ貧しいのはピクニツク用の湯沸しだつた。アルコールラムプと臺と小さな湯呑みから大きい湯沸しに至るまで、重ね合つて大きな水容れの中へしまひ込める様になつてゐるものだつたが、それらがみな清潔に仕(始)末されてゐた時とては決してなかつた。紅茶の茶かすが幾日もその中にたまつたまゝになつてゐたり、時には煙草の灰皿になつてゐたりしてゐた。紅茶とアルコールと乳と砂糖がそろつてゐれば紅茶がのめたのであつたが、そのどれもが完全にそろつてゐる事は珍らしかつた。そしてそれがそろつてゐれば私はいつも煎じ茶の樣に苦くなつた紅茶を頭がカーンとしてしまふまで飮んで とりどめもなく浮んでは消えてゆく、はかない考や縦(ほしいまま)な空想に神經を酷使してしまふのが常だつた。――
東向きの窓を持つた三疊の部屋はやはり私の部屋なのであつたが、その部屋は階段の上り口のついてゐる所であつたし、その家の道具がその廣さの三分の一を占めているので私の樂しめるものとしては、その東向きの窓のみであつた。その窓からは私の家に背中合はせをしてゐる家々の裏が見えた。それらの家並みは表通りへ𢌞れば古洋服屋やこんにやく製造屋や藥屋などであつたが私の窓から見えるそれらの家々はみな一樣に裏らしい貧しさを見せてゐた。窓の下〔に〕は私の家の猫の額程の地面があつて、便所や柿の木や、炭俵や薪が全部を占めてゐた。それは直ぐ塀にへだてられて向ふ側のやはり同じ樣な地面に續いてゐたのだつたがそこにも私の家と同じ位の高さの柿の木が立つてゐた。その東の窓からは夜更けてからも近くにあるカフエーからオルガンの音がきこえて來たり、晝であればミシンの音や時々は拙い三味線の音がきこえて來た。
私のゐた家の家族は二人暮しの、七十餘りの老婆と三十の小學校の女の敎師であつた。
七十二になるお婆さんの生活は表ての三疊に敷き切りになつてゐる寐ママ床と私の部屋からの下り口になつてゐる三疊の小さい長火鉢の前とに限られてゐた。一年中喘息持ちでそれに心臓が惡かつた。
たるんで下つてゐる頰はいつも生氣がなく、顏の上にはたくさんの斑點があつたが、それも皮膚の色と皺との爲めママに見わけがつきかねる程だつた。それでゐて眼や耳はまだ内臓程の衰へをみせず、齒も拔け切つてはゐなかつた。その後とり娘の三十になる小學校の先生は、そのお婆さんの姪かなにかに當り、未だに配偶(つれあ)ふ人もなくそのお婆さんの世話と、學校通ひをしてゐるのだつた。顏立ちのよくない然し健康そママうな人だつた。私は覺えてゐる。この二人の親子によつて取り交された會話はお互の惡口の云ひ合ひか他人の惡口の云ひ合ひがその大部分であつたのを。
――ほつといて。ひとの事は放っといて。そんなことはわたしの權利や。――その權利の權を長く引張つた粗野な調子を私の耳は未だに忘れてゐない。發音が明確で角が立つてをり、力があつて女らしさがなく、またその言葉は――彼奴(アイツ)とかおやぢとか權利とかの連續であつた。彼女等の話は大低ママ學校の話、校長や學務委員や女敎員や男敎員の話と、親類の話とが多かつた樣だつた。それも先生がその晝間のてんまつをお婆さんにきかせるのだつた。
――云ひこめてやつたんや。――とか
――今度出會ふたらひどいもんに云ふ(う)てやるねん――とか、そう云つたとげとげしい言葉がよく私の部屋へ聞えて來るのだつた。
それでゐて彼女は變に若々しい調子を私に向けるのだつた。然しそれは決して非難さるべき性質のも〔の〕ではなかつた。そしてそのお婆さんもどうなのであつたが彼女は非常に親切であつた。それもとやかくのものではなく、時としては煩〔は〕しい程のおせつかいとなつて私を苦しめる樣な性質のものだつた。その獨斷的な親切氣は時として私のその二人に對する嫌惡や不愛想の墻を造つた。
私が風邪をひいたりするとお婆さんはその小さい長火鉢の抽出しからアスピリンを出して私にのめと云ふ。それがいつ盛られたかわからない古い包みなのである。いらないと云つても私がその理由を、古いからきかないとか買つて來てあるとか明かに云はなければ決して彼女は强ひることを止めない、そして直ぐ後ろの小さい棚からもう澄ママ明でなくなつた古いコツプを取つて、自分の指でその中をさらっと拭いて、銅壺の中から湯を汲むに極つてゐるのだつた。
又手拭を持たずに顏を洗つて濡れたまゝで二階へ上りかけ樣とするとお婆さんはきつと自分か娘の手拭を指して拭けと云ふ。仕方がなしに鼻を呼吸を止めながらその古いタオルで顏を拭いたことが二三度もあつたらうか。
また娘の方は私が寐ママ床の中から首を出して本を讀んだりしてゐる所へなど上つて來ると
「電燈をもつと卸(下)してあげませうか、」とか
「そんなに暗くてよく本が讀めますな、」とか云つて勝手に電燈のコードを伸したり、橫へやつたりする。私は電燈の動搖や彼女の荒々しい立居振舞で折角の本を讀みさゝなければならない不愉快とその獨斷や粗野に不快にされることが間々あつた。
「何讀んでなさるの。なんぞ面白いものがのつてますか。」そして彼女は私の枕許へ坐り込む。それでも私は時々初めの間彼女の爲にその小説の一つの光景を指して讀ませたり、筋を話したりした。
「なんでこんなのが面白いの。」
「なんでって、面白くなけれやそれまでゝすよ。」
「そうだけどね、瀨山さん。」
「えゝ。」
「文士ってけったいなことをかいて喜んでるのね。またあんたもどうしてこんなのがいゝの。」それにはどしても説明が入用だつた。どうにか説明をきかなければ納得が出來なかつた。然し決してそれでおしまひではなかつた。私の説明に對する批評とか、抗辨(辯)とか、彼女は議論に花が咲かせ度かつた。
或る時は男は勝手で女は損だと云ひ出した。それが女も勝手で男も損だといふことでは鳧がつかなかつた。私は結局女は男の快樂のための道具に過ぎないといふ事を彼女の愚論を防ぐ盾として頑張り通したりこともある。
私は彼女に就て全く無關心ではゐられなかつた。三十になつても獨身を通してゐる彼女が男といふものをどう思つてゐるのだらう、また私をどう思つてゐるのだらう。といふ樣な興味は彼女が私に親しくして來るその時々に起つた。また彼女の方も同じ樣な興味を私に感じてゐたらしかつた。そして私の想像は時々二人が色欲(慾)地獄に陷ちてゆく姿を描き出した。
然しそれも私が彼女の議論を惡まれ口一つで突放したり……(缺)

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