コンテンツにスキップ

橡の花



本文

[編集]

[編集]
此頃の陰欝な天候に弱らされてゐて手紙を書く気にもなれませんでした。以前京都にゐた頃は毎年のやうにこの季節に肋膜ろくまくを悪くしたのですが、此方へ来てからはそんなことはなくなりました。一つは酒類を飲まなくなつたせゐかも知れません。然しやはり精神が不健康になります。感心なことを云ふと云つてあなたは笑ふかも知れませんが、学校へ行くのが実に億劫おつくうでした。電車に乗ります。電車は四十分かゝるのです。気持が消極的になつてゐるせゐか、前に坐つてゐる人が私の顔を見てゐるやうな気が常にします。それが私の独り相撲だとは判つてゐるのです。と云ふのは、はじめは気がつきませんでしたが、まあ云へば私自身そんな視線を捜してゐると云ふ工合なのです。何気ない眼附きをしようなど思ふのが抑々そもそもの苦しむもとです。
また電車のなかの人に敵意とはゆかないまでも、棘々しい心を持ちます。これもどうかすると変に人びとのアラを捜してゐるやうになるのです。学生の間に流行はやつてゐるらしい太いズボン、変にべたつとした赤靴。其他。私の弱つた身体にかなはないのはその悪趣味です。なにげなくやつえゐるのだつたら腹も立ちません。必要に迫られてのことだつたら好意すら持てます。然しさうだと決して思へないのです。浅墓な気がします。
女の髪も段々堪らないのが多くなりました。――あなたにお貸しした化物の本のなかに、こんな絵があつたのを御存じですか。それは女のお化けです。顔はあたり前ですが、後頭部に――その部分がお化けなのです。貪婪どんらんな口を持つてゐます。そしてほぐした髪の毛の先が触手の恰好に化けて、置いてある鉢から菓子をつかみ、その口へ持つてゆかうとしてゐるのです。が、女はそれを知つてゐるのか知らないのか、あたりまへの顔で前を向いてゐます。――私はそれを見たときいやな気がしました。ところが此頃の髪にはそれを思ひ出させるのがあります。わげがその口の形をしてゐるのです。その絵に対する私の嫌悪はこのわげを見てから急に強くなりました。
こんなことを一々気にしてゐては窮屈で仕方がありません。然しさう思つて見ても逃げられないことがあります。それは不快の一つの「型」です。反省が入れば入る程尚更その窮屈がオークワードになります。ある日こんなことがありました。やはり私の前に坐つてゐた婦人の服装が、私の嫌悪を誘ひ出しました。私は憎みました。致命的にやつつけてやりたい気がしました。そして効果的に恥を与へ得る言葉を捜しました。ややあつて私はそれに成功することが出来ました。然しそれは効果的に過ぎた言葉でした。やつつけるばかりでなく、恐らくそのシヤアシヤアした婦人を暗く不幸にせずにはおかないやうに思へました。私はそんな言葉を捜し出したとき、直ぐそれを相手に投げつける場面を想像するのですが、此場合私にはそれが出来ませんでした。その婦人、その言葉。この二つの対立を考へただけでも既に惨酷でした。私のいら立つた気持は段々冷えてゆきました。女の人の造作を兎や角思ふのは男らしくないことだと思ひました。もつと温かい心で見なければいけないと思ひました。然し調和的な気持は永く続きませんでした。一人相撲が過ぎたのです。
私の眼がもう一度その婦人をかすめたとき、ふと私はその醜さのななに恐らく私以上の健康を感じたのです。わる達者といふ言葉があります。さう云つた意味でわるく健康な感じです。しやうにおへない鉄道草といふ雑草があります。あの健康にも似ていませうか。――私の一人相撲はそれとの対照で段々神経的な弱さをあらはして来ました。
俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれは何時も私自身の精神が弛んでゐるときの徴候でした。然し私自身みじめな気持になつたのはその時が最初でした。梅雨が私を弱くしてゐるのを知りました。
電車に乗つてゐてもう一つ困るのは車の動きが音楽に聴えることです。(これはあなたも何時だつたか同様経験してゐられることを話されました。)私はその響きを利用していゝ音楽を聴いてやらうと企てたことがありました。そんなことから不知不識しらずしらずに自分を不快にする敵を作つてゐた訳です。「あれをやらう」と思ふと私は直ぐその曲目を車の動き、街の響きの中に発見するやうになりました。然し悪く疲れてゐるときなどは、それが正確な音程で聞えない。――それはいゝのです。困るのはそれがもう此方の勝手では止まらなくなつてゐることです。そればかりではありません。それは何時の間にか私の堪らなくなる種類のものをやります。先程の婦人がそれについれて踊るであらうやうな音楽です。時に嘲笑的にそしてわざと下品に。そしてそれが彼等の凱歌のやうに聞える。――と云へば話になつてしまひますが、とにかく非常に不快なのです。
電車の中で憂欝になつてゐるときの私の顔はきつと醜いにちがひありません。見る人が見ればきつとそれをよしとはしないだらうと私は思ひました。私は自分の憂欝の上に漠とした「悪」を感じたのです。私はその「悪」を避けたく思ひました。然し電車に乗らないなど云つてはゐられません。毒も皿もそれがあらかじめ命ぜられてゐるものならひるむことはいらないことです。一人相撲もこれでおしまひです。あの海に実感を持たねばならぬと思ひます。
ある日私は年少の友と電車に乗つてゐました。この四月から私達に一年おくれて東京に来た友でした。友は東京を不快がりました。そして京都のよかつたことを云ひ云ひしました。私にも少くともその気持に似た経験はありました。またやつて来た匆々そうそう直ぐ東京が好きになるやうな人は不愉快です。然し私は友の言葉に同意を表しかねました。東京にもまた別種のよさがあることを云ひました。そんなことをいふ者さへ不愉快だ。友の調子にはかう云つたところさへ感ぜられます。そして二人は押し黙つてしまひました。それは変につらい沈黙でした。友はまた京都にゐた時代、電車の窓と窓がすれちがふとき「あちらの第何番目の窓にゐる娘が今度自分の生活に交渉を持つて来るのだ」とその番号を心のなかで極め、託宣を聴くやうな気持ですれちがふのを待つてゐた――そんなことをした時もあつたと其日云つてをりました。そしてその話は私にとつて無感覚なのでした。そんなことにも私自身がこだはりを持つてゐました。


[編集]
或る日Oが訪ねて呉れました。Oは健康相な顔をしてゐました。そして種々元気な話をしてゆきました。――
Oは私の机の上においてあつた紙に眼をつけました。何枚もの紙の上にwasteといふ字が並べて書いてあるのです。
「これはなんだ。恋人でも出来たのか」と、Oはからかひました。恋人といふようなあのOの口からは出さうもない言葉で、私は五六年も前の自分を不図思ひ出しました。それはある娘を対象とした、私の子供らしい然も激しい情熱でした。それの非常な不結果であつたことはあなたも少しは知つてゐられるでせう。
――父の苦り切つた声がその不面目な事件の結果を宣告しました。私は急にあたりが息苦しくなりました。自分でもわからない声を立てて寝床からとび出しました。後からは兄がついて来てをりました。私は母の寝台の前まで走りました。そして自分の青ざめた顔をうつしました。それは醜くひきつゝてゐました。何故そこまで走つたのか――それは自分にも判然はつきりしません。その苦しさを眼で見ておかうとしたのかも知れません。顔を見て或る場合心の激動の静まるときもあります。
――両親、兄、O及びもう一人の友人がその時に手を焼いた連中です。そして家では今でもその娘の名を私の前では云はないのです。その名前を私は極くごく略した字で紙片の端などへ書いて見たことがありました。そしてそれを消したうえこなごなに破らずにはゐられなかつたことがありました。――然しOが私にからかつた紙の上にはwasteといふ字が確実に一面に並んでゐます。
「どうして、大ちがひだ」と私は云ひました。そしてその訳を話しました。
その前晩私はやはり憂欝に苦しめられてゐました。びしよびしよと雨が降つてゐました。そしてその音が例の音楽をやるのです。本を読む気もしませんでしたので私はいたづら書きをしてゐました。そのwasteといふ字は書き易い字であるのか――筆のいたづらに直ぐ書く字がありますね――その字の一つなのです。私はそれを無暗にたくさん書いてゐました。そのうちに私の耳はそのなかゝらはたを織るやうな一定のリズムを聴きはじめたのです。手の調子がきまつて来たためです。当然きこえる筈だつたのです。なにかきこえると聴耳をたてはじめてから、それが一つの可愛いリズムだと思ひ当てたまでの私の気持は、緊張と云ひ喜びといふにはあまりささやかなものでした。然し一時間前の倦怠ではもうありませんでした。私はそのきぬずれのやうなまた小人国の汽車のやうな可愛いリズムに聴き入りました。それにもくと今度はその音をなにかの言葉で真似て見たい欲望を起すしたのです。ほとゝぎすの声をてつぺんかけたかと聞くやうに。――然し私はたうたう発見できませんでした。サ行の音が多いにしがひないと思つたりする、その成心に妨げられたのです。然し私は小さいきれぎれの言葉を聴きました。そしてそれの暗示する言語が東京のそれでもなく、どこのそれでもなく、故郷の然も私の家族固有なアクセントであることを知りました。――おそらく私は一生懸命になつてゐたのでせう。さうした心の純粋さがたうとう私をしてお里を出さしめたのだらうと思ひます。心から遠退とほのいてゐた故郷と、然も思ひもかけなかつたそんな深夜、ひたひたと膝をつきあはせた感じでした。私はなにの本当なのかはわかりませんでしたが、なにか本当のものをその中に感じました。私はいさゝか亢奮をしてゐたのです。
然しそれが芸術に於てのほんたう、殊に詩に於てのほんたうを暗示してゐはしないかなどOには話しました。Oはそんなことをもおだやかな微笑で聴いてくれました。
鉛筆のをとがらして私はOにその音をきかせました。Oは目を細くして「きこえる、きこえる」と云ひました。そして自身でも試みて字を変へ紙質を変へたりしたら面白さうだと云ひました。また手加減が窮屈になつたりすると音が変る。それを「声がはり」だと云つて笑つたりしました。家族の中でも誰の声らしいと云ひますから末の弟だらうと云つたのに関聯してです。私は弟の変声期を想像するのがなにかむごい気がするときがあります。次の話もこの日のOとの話です。そして手紙に書いておき度いことです。
Oはその前の日曜に鶴見の花月園といふところへ親類の子供を連れて行つたと云ひました。そして面白さうにその模様を話して聞かせました。花月園といふのは京都にあつたパラダイスといふやうなところらしいです。いろいろ面白かつたがその中でも愉快だつたのは備へつけてあるおおきなすべり台だと云ひました。そしてそれをすべる面白さを力説しました。ほんたうに面白かつたらしいのです。今もその愉快が身体のどこかに残つてゐると云つた話振りなのです。たうとう私も「行つて見度いなあ」と云はされました。変な云ひ方ですがこんじょなあはOの「すべり台面白いぞ」のと釣合つてゐます。そしてそんな釣合ひはOといふ人間の魅力からやつて来ます。Oは嘘の云へない素直な男で彼の云ふことはこちらも素直に信じられます。そのことはあまり素直ではない私にとつて少くとも嬉しいことです。
そして話はその娯楽場の驢馬ろばの話になりました。それは子供を乗せて柵をまはる驢馬で、よく馴れてゐて、子供が乗るとひとりで一周して帰つて来るのだといひます。私はその動物を可愛いものに思ひました。
ところがそのなかの一匹が途中で立留つたと云ひます。Oは見てゐたのださうです。するとその立留つた奴はそのまま小便をはじめたのださうです。乗つてゐた子供――女の児だつたさうですが――はもぢもぢし出し顔が段々赤くなつて来てしまひには泣き相になつたと云ひます。――私達は大いに笑ひました。私の眼の前にはその光景がありあり浮びましあ。人のいゝ驢馬の稚気に富んだ尾籠びろう、そしてその尾籠の犠牲になつた子供の可愛い困惑。それはほんたうに可愛い困惑です。然し笑ひ笑ひしてゐた私はへんに笑へなくなつて来たのです。笑ふべく均衡されたその情景のなかから、女の児の気持だけがにはかに押し寄せて来たのです。「こんな御行儀の悪いことをして、わたしはづかしい」
私は笑へなくなつてしまひました。前晩の寝不足のため変に心が誘はれ易く、物に即し易くなつてゐたのです。私はそれを感じました。そして少しの間不快が去りませんでした。気軽にOにそのことを云へばよかつたのです。口にさへ出せば再びそれを「可愛い滑稽なこと」として笑ひ直せたのです。然し私は変にそれが云へなかつたのです。そして健康な感情の均整をいつも失はないOを羨しく思ひました。


[編集]
私の部屋はいゝ部屋です。難を云へば造りが薄手に出来てゐて湿気などに敏感なことです。一つの窓は樹木とそして崖とに近く、一つの窓は奥狸穴おくまみあななどの低地をへだてゝて飯倉の電車道に臨む展望です。その展望のなかには旧徳川邸の椎の老樹があります。その何年も経たとも知れない樹は梅雨期に葉が赤くなるものなのでせうか。最初はなにか夕焼の反射をでも受けてゐるのぢやないかなど疑ひました。そんな赤さなのです。然し雨の日になつてもそれは同じ。いつも同じでした。やはり樹自身の現象なのです。私は古人の「五月雨さみだれの降り残してや光堂」の句を、目をへだててではありましたが、思ひ出しました。そして椎茜しひあかねといふ言葉を造つて下の五におきかへ嬉しい気がしました。中の七が降り残したるではなく、振り残してやだつたことも新しい眼で見得た気がしました。
崖に面した窓の近くには手にとゞく程の距離にかなひでといふ木があります。ほゝの一種ださうです。この花も五月闇のなかにふさはなくはないものだと思ひました。然しなんと云つても堪らないのは梅雨期です。雨が続くと私の部屋には湿気が充満します。窓ぎはなどが濡れてしまつてゐるのを見たりすると全く憂欝になりました。変に腹が立つて来るのです。空はたゞ重苦しく垂れ下つてゐます。
「チヨツ。ぼろ船の底」
或る日も私はそんな言葉で自分の部屋をのゝしつて見ました。そしてそののゝしり方が自分でに面白くて気は変りました。母が私にがみがみおこつて来るときがあります。そしてしまひに突拍子もないののしり方をして笑つてしまふことがあります。ちよつとさう云つた気持でした。私の空想はその言葉でぼろ船の底に畳を敷いて大きな川を旅してゐる自分を空想させました。実際こんなときにこそ欝陶しい梅雨の響きも面白さを添へるものだと思ひました。


[編集]
それも矢張雨の降つた或る日の午後でした。私は赤坂のAの家へ出かけました。京都時代の私達の会合――その席へはあなたも一度来られたことがありますね――憶えていらつしやればその時ゐたAです。
この四月には私達の後、やはりあの会合を維持してゐた人びとが、三人も巣立つて来ました。そしてもともと話のあつたことゝて、既に東京へ来てゐた五人と共に、再び東京に於ての会合が始まりました。そして来年の一月から同人雑誌を出すこと、その費用と原稿を月々貯めてゆくことに相談が定つたのです。私がAの家へ行つたのはその積立金を持つてゆくためでした。
最近Aは家との間に或る悶着を起してゐましあ。それは結婚問題なのです。Aが自分の欲してゐる道をゆけば父母を捨てたことになります。少くとも父母にとつてはさうです。Aの問題は自ら友人である私の態度を要求しました。私は当初彼を冷さうとさへ思ひました。少くとも私が彼の心を熱しさせてゆく存在であることを避けようと努めました。問題がさういふ風に大きくなればなる程さうしなければならぬと思つたのです。――然しそれがどちらの旗色であれ、他人のたてだどんな旗色にも動かされる人間でないことを彼は段々証して来てをります。普段にぼんやりとしかわからなかつた人間の性格と云ふものがかう云ふときに際してこそその輪郭をはつきりあらはすものだといふことを私は今に於て知ります。彼も亦この試練によつてそれを深めてゆくのでせう。私はそれを美しいと思ひます。
Aの家へ私が着いたときは偶然新らしく東京へ来た連中が来てゐました。そしてAの問題でAと家との間に入つた調停者の手紙に就て論じ合つてゐました。Aは其の人達をおいて買物に出てゐました。その日も私は気持がまるでふさいでゐました。するとそのうちに何かのきつかけで「Aの気持もよくわかつてゐると云ふのならなぜ此方を骨折らうとしないんだ」といふ言葉を聞きました。調子のきびしい言葉でした。それが調停者に就て云はれてゐる言葉であることは申すまでもありません。
 私の心はなんだかびりゝとしました。知るといふことゝ行ふといふことゝに何ら距りをつけないと云つた生活態度の強さが私を圧迫したのです。単にそればかりではありません。私は心のなかで暗にその調停者の態度を是認してゐました。更に云へば「その人の気持もわかる」と思つてゐたからです。私は両方共わかつてゐるといふのは両方とも知らないのだと反省しないではゐられませんでした。便りにしてゐたものが崩れてゆく何とも云へないいやな気持です。Aの両親さへ私にはそつぽを向けるだらうと思ひました。一方の極へおとされてゆく私の気持は、然し、本能的な逆の力と争ひはじめました。そしてAの家を出る頃やうやく調和したくつろぎに帰ることが出来ました。Aが使から帰つて来てからは皆の話も変つてもつぱら来年の計画の上に落ちました。Rのつけた雑誌の名前を繰り返し繰り返し喜び、それと定まるまでの苦心を滑稽化して笑ひました。私の興味深く感じるのはその名前によつて表現を得た私達の精神が、今度はその名前から再び鼓舞され整理されてくるといふことです。
私達はAの国から送つて来たもので夕飯を御馳走になりました。部屋へ帰ると窓近い樫の木の花が重い匂ひを部屋中にみなぎらせてゐました。Aは私の知識の中で名と物が別であつた菩提樹ぼだいじゆをその窓から教へて呉れました。私はまた皆に飯倉の通りにある木は七葉樹だつたと告げました。数日前RやAや二三人でその美しい花を見、マロニエといふ花ぢやないかなど云ひ合つてゐたのです。私はその名をその中の一本に釣られてゐた「街路樹は大切にいたしませう」の札で読んで来たのです。
積立金の話をしてゐる間に私はその中の一人がそれの為の金を、全く自分で働いてゐるのだといふ事を知りました。親からの金の中では出し度くないと云ふのです。――私は今更ながらいゝ伴侶と共に発足する自分であることを知りました。気持も可成調和的になつてゐたのでこの友の行為から私自身を責め過ぎることはありませんでした。
しばらくして私達はAの家を出ました。外は快い雨あがりでした。まだ宵の口の町を私は友の一人と霊南坂を通つて帰つて来ました。私の処へ寄つて本を借りて帰るといふのです。ついでに七葉樹の花を見ると云ひます。この友一人がそれを見はぐしてゐたからです。
道々私はうたひにくい音階を大声で歌つてその友人にきかせました。それが歌へるのは私の気持のいゝ時に限るのです。我善坊の方へ来たとき私は一つの面白い事件にぶつかりました。それは螢を捕まへた一人の男です。だしぬけに「これ螢ですか」と云つて組合わせた両の掌の隙を私たちの鼻先に突出しました。螢がそのなかに美しい光を灯してゐました。「あそこで捕つたんだ」と聞きもしないのに説明してゐます。私と友は顔を見合わせ変な笑顔になりました。やゝ遠離とおざかつてから私達はお互に笑ひ合つたことです。「きつと捕まへてあがつてしまつたんだよ」と私は云ひました。なにか云はずにはゐられなかつたのだと思ひました。
飯倉の通りは雨後の美しさで輝いてゐました。友と共に見上げた七葉樹は飾燈のやうな美しい花が咲いてゐました。私はまた五六年前の自分を振返る気持でした。私の眼が自然の美しさに対して聞き初めたのも丁度その頃だと思ひました。電燈の光が透いて見えるその葉うらの色は、私が夜になれば誘惑を感じた娘の家の近くの小公園にもあつたのです。私はその娘の家をぐるりを歩いてはその下のベンチで休むのがきましになつてゐました。
(私の美に対する情熱が娘に対する情熱と胎を共にした双生児だつたことが確かに信じられる今、私は窃盗に近いこと詐欺さぎに等しいことをまだ年少だつた自分がその末犯したことを、あなたにうちあけて、あとで困るやうなことはないと思ひます。それ等は実に今日まで私の思ひ出を曇らせる雲翳うんえいだつたのです。
街を走る電車はその晩電車固有の美しさで私の眼に映りました。雨後の空気のなかに窓を明け放ち、乗客も程よい電車の内部は、暗い路を通つて来た私達の前を、あたかも幸福そのものが運ばれて其処にあるのだと思はせるやうな光で照されてゐました。乗つてゐる女の人もたゞ往来からの一瞥いちべつで直ちに美しい人達のやうに思へました。何台もの電車を私達は見送りました。そのなかには美しい西洋人の姿も見えました。友も其晩は快かつたにちがひありません。
「電車のなかでは顔が見難いが往来からだとかすれちがふときだとかは、可成長い間見てゐられるものだね」と云ひました。なにげなく友の云つた言葉に、私は前の日に無感覚だつたことを美しい実感で思ひ直しました。


[編集]
これはあなたにこの手紙を書かうと思ひ立つた日の出来事です。私は久し振りに手拭をさげて銭湯へ行きました。やはり雨後でした。垣根のきこくがぷんぷん快い匂ひを放つてゐました。
銭湯のなかで私は時たま一緒になる老人とその孫らしい女の児とを見かけました。花月園へ連れて行つてやり度いやうな可愛い児です。
その日私は湯槽ゆぶねの上にかゝつてゐるペンキの風景画を見ながら「温泉のつもりなんだな」といふ小さい発見をして微笑ほほえまされました。湯は温泉でそのうへ電気溶といふ仕掛がしてあります。ひつそりとした昼の湯槽には若い衆が二人入つてゐました。私がその中へ混つてやゝ温まつたその頃その装置がピ…………と働きはじめました。
「おい動力来たね」と一人の若い衆が云ひました。
「動力ぢやねえよ」ともう一人が答へました。
湯を出た私はその女の児の近くへ座を持つてゆきました。そして身体を洗ひながらときどきその女の児の顔を見ました。可愛い顔をしてゐました。老人は自分を洗ひ終ると次にはその児にかゝりました。幼い手つきで使つてゐた石鹼のついた手拭はお老人にとりあげられました。老人の顔があちら向きになりましたので私は、自分の方へその子の目を誘ふのを予期して、ぢつと女の児の顔を見ました。やがてその子の顔がこちらを向いたので私は微笑みかけました。然し女の児は笑つて来ません。然し首を洗はれる段になつて、眼を向け難くなつても上眼を使つて私を見ようとします。しまひには「ウ……」と云ひながらも私の作り笑いに苦しい上眼を張らうとします。そのウ……はなかなか可愛く見えました。
「サア」突然ろうじんの何もかも知らない手がその子の首を俯向かせてしまひました。
しばらくして女の子の首は楽になりました。わたくしはそれを待つてゐたのです。そして今度は滑稽は作り顔をして見せました。そして段々それをひどく歪めてゆきました。
「おぢいちやん」女の子がたうたう物を云ひました。私の顔を見ながらです。「これどこの人」
「それやあよそこのおつちやん」振向きもせず相変らずせつせと老人はその児を洗つてゐました。
珍らしく永い湯の後、私は全く仲々した気持で湯をあがりました。私は風呂のなかである一つの問題を考へてしまつて気が軽く晴々してゐました。その問題といふのはかうです。ある友人の腕の皮膚が不健康なしわを持つてゐるのを、ある腕の太さ比べしたとき私が指摘したことがありました。すると友人は「死んでやらうと思ふときがときどきあるんだ」と激しく云ひました。自分のどこかに醜いところが少しでもあれば我慢出来ないといふのです。それは単なる皺でした。然し私の気がついたのはそれが一時的の皺ではないことでした。とにかく些細なことでした。然し私はそのとき自分のなにかがつかれたやうな気がしたのです。私は自分にもいつかそんなことを思つたときがあると思ひました。確かにあつたと思ふのですが思ひ出せないのです。そしてその時は淋しい気がしました。風呂のなかでふと思ひ出したのはそれです。思ひ出して見れば確かに私にもありました。それは何歳位だつたか覚えませんが、自分の顔の醜いことを知った頃です。もう一つは家に南京虫が湧いた時です。家全体が焼いてしまひ度くなるのです。も一つは新らしい筆記帳の使ひはじめ字を書き損ねたときのことです。筆記帳を捨てゝしまひ度くなるんどえす。そんなことを思ひ出した末、私はその年少の友の反省の為に、大切に使はれよくつくろはれた古い器具の奥床しさを折があれば云つて見度いと思ひました。ひびへうるしを入れた茶器を現に二人が讃めたことがあつたのです。
紅潮した身体には細い血管までがうつすら膨れあがつてゐました。両腕を屈伸させてぐりぐりを二の腕や肩につけて見ました。鏡のなかの私は私自身よりも健康でした。私は顔を先程したやうにおどけた表情で歪ませて見ました。
Hysterica Passio――さう云つて私はたうたう笑ひ出しました。
一年中で私の最もいやな時期ももう過ぎようとしてゐます。思ひ出して見れば、どうにも心の動きがつかなかつたやうな日が多かつたなかにも南葵文庫なんきぶんこの庭で忍冬すひかづらの高い香を知つたやうなときもあります。雲南坂で鉄道草の香から夏を越した秋がもう間近に来てゐるのだと思つたやうな晩もあります。妄想で自らを卑屈にすることなく、戦ふべき相手とこそ戦ひ度い、そしてその後の調和にこそ安んじたいと願ふ私の気持をお伝へしたく此の筆をとりました。


この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。