犬を賣る露店

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本文[編集]

……一體あれはみな赤犬の仔だらうか、寄せ集めの仔ではないのだらうか、そんなことも思ふ。私はそんなに思つて見ては、自分の變な心持ちを充〔た〕そママうとした。
わたしの盲滅法に發した疑問も疑問ではあつたが、私の變な心持はその疑問が解けたとて癒る樣なものではなささうであつた。それよりも、もつとぴつたりする疑問が發せられたら、たとへそれが私にとけないぎもんであつても、變な氣持だけは収まると思へた。
なにしろ私は變てこな露店を見たと思つた。私はその不思議ともつかない、と云つて滑稽とも侘しいともつかない露店を私一人のために話題にしてゐた。
私一人のための話題――それはこママういふ譯である。


その當時、私はひどくみぢ(じ)めな高等學校の生徒であつた。私は懶けてばかりゐた。程よい懶けは生活に風味を添へる。殊に血氣の高等學校の生活などには。然し私の生活は懶けそのものであり、勤學の念はそれこそ風味にしたくともなかつたのだ。あまりみぢママめで私は孤獨を餘儀なくされた。初めの間こそ、他の生徒達が面白そママうに生活の風味を味〔は〕ふのにも伍してゐたけれど、moderateを越さないといふ、彼等の意志的なdegeneré(dégénéré)の態度は、卽興的な、そして遂には惰性的な病的な、それこそ〔沒〕意志的な私の態度とは結局油と水であつた。また悲しいことには彼等の生活の風味は、あんなにも甘そうだつたのだ。然し私にとつてそれはもう苦々しいものに變つてゐる。
とにかく私は懶けてゐて、そして孤獨であつた。私はその犬を賣る男の話をするにも相手がなかつたのである。
その上私はその腑に落ちない露店を眺めては今云つた様に、「何だか面白い、何だか!」と迄は思つては見るものゝ、その何だかの正體がはつきりわからなかつた。少くとも私の説話欲が滿足するだけの見解をまたは詩味を、言葉にまで感得するには至ママらなかつたのである。たゞそれだけのことで、然もその重大な點で、よし話相手があつたとしても、私はfrankにそれを話題とするのを嫌つたかもしれない。
然し私はいつも孤獨であつたのだ。そして懶け者であつたのだ。そしてどの孤獨な懶け者でもがそうである樣に、私は自分自身を相手に倦きないお喋りをすることを覺え込んでしまつたのだ。
「ほう。犬賣り。ほう。」私はおしがものを云ふ樣にこんなに云ふ。
「ほう。犬賣り。」
愚かしく、氣のいゝ私の話相手は、それでも、私のもどかしい言葉をのみこみ、嬉しそうに、時には人のいゝ顏を赤らめながらその犬賣りの箱を覗き込むのであつた。
この樣にして犬屋は段々私の眼に親しく寫る樣になつた。
落花生の主人は時には夜泣きうどんの車からうどんを運ばせたりする。古本は南京豆の袋入りを買つて鼻の下の祭をする。萬年筆やインキ消しは絕えず喋つてゐる樣だし、人足を止めてゐることも美人會葉書に次いでゐる。然し犬屋はいつも厚司をき 膝小僧を出し、冷たい甍の上に寂しく立つてゐた。彼が寺町の白い電氣の光の中に、その赤黃い陰氣な燈火の隅(隈)を作るのを見ると、そこまでは明るかつた寺町も變に侘しくなる。此世んあらぬweirdな色が出來る。その眼で他の露店を見れば稀薄ながらもその色を帶びてゐる。私は彼等露店商人は多少ともそんな色を帶びてゐるものだと思つたりした。
そのうちに私はその仔犬をしぼつた手拭程の大きさを段々成育し越してゆくのを知る樣になつた。赤犬の親犬の乳房へ重なつて吸ひついてゐる容積が、たわゝに過ぎる實りを思はせる樣にもなつた。仔犬は五六匹ゐた。
それは耳の垂れた犬で、黑斑や赤斑がゐた。一體いくらに賣らうと云ふのだらう、そう思つて私は異樣な光を持つ犬屋の眼を通りすがりに盗み見る。あの人はどうかしてゐるのではないかとも思ふ。彼はあたりを敵意を含んだやうな眼で睨んでゐるのである。
人と云ひ犬と云ひ、それは私の想像を樣々に誘つた。それはなにか腑に落ちなかつた。それは知らない他國の風俗と(で)でもあるのか。
そのうちに私は、石油の空箱であつた犬箱が炬燵を入れたも少し大きな箱に變つたのに氣付いた。半分は自分の爲にではあらうが、半分はその犬の親子の爲にであらう。私は冬の底冷えに炬燵を工夫した犬屋を微笑ましう思つた。
「ほう。親犬がゐないな。」
「ほう。」
そのうちにこママう云つた晩が來る樣になつた。
赤犬の親犬がゐなくなつた箱の中で、黑斑と赤斑が重なりながら、五匹隅つこで寐てゐた。乏しい光の下でぼろつ切れの樣にしてゐた。
古い毛布が敷かれたり、犬屋が甚平さんを着込んだりした。冬が嚴しかつたのである。
賣物らしい賣物のモルモツトの箱が姿を消してゐたり、と思ふとそれが廿日鼠に變つてゐたりする。然し賣物らしくない仔犬の箱はいつも變らなかつた。私の察した通り、その數の五つは四つ半にさへならなかつた。
「何だか面白い。何だか!」
初め私がそう云つたまゝ、その何だかの言{ひ}表はしを喉につめた日は卽に遠く去つてゐた。そしてそれは喉につまつたまゝで、いつのまにかまた収まつてしまつてゐた。そして私の興味もいつのまにか彼等の變化や生長を見守つてゆくことに侈(移)つてしまひ、彼らに對する愛がその隙からこつそり忍び込んでゐたのである。
或る夜、私は彼等の姿を、いつもの場所に得(よ)う見當てなかつた。その私に輕い失望と淡い危惧があつた。私は私の危惧故、以前には知らなかつた、犬屋の休み日を認識したのである。それからもその樣な夜がぼつぼつ私の心に印される樣になつた。ほんとママうに、そんな夜、私の感じたものは物足りない寺町といふよりも寧ろ物足りない私であつた。そんな私を、私は見出すよママうになつた。思ひ直して見ると、懶け者の孤獨な生活に、彼等こそ友達といへばそうも云へる唯一の存在であつたのだ。
「そんなことが、お前は面白いか。」……(缺)


……目に見えない魔法の縛めの强さを知り、氣を滅入らせる。やがては希臘悲劇の主人公の樣な、豫定された破滅が自分を待つてゐる。それを私の身に感じることは惡夢の經驗にも似てゐた。この上破滅か逃れやママうと思ふなら、たゞ自らそれに急がせるより外はない。助かるものならそこから助かるのだ。こう信じる時が次に來るだらうと思へた。いつそこう思ふ時の方が私の心は安まるのであつた。私は破滅の不思議な魅力を知つた。
はつきりした痛みを訴へもないこの倦怠はまことに毒々しかつたので時々私は亂暴をした。
「せめてはこの毎日の毒々しい氣持よ。」と、私は寧ろ、倦怠の銹の樣な腐蝕力を思ふことがあつた。
「お前の銹の樣な力を一そ何層倍にもして俺を泣かせろ。その强い痛みや深い悲しみで俺を撲て、手拭の樣にしぼられて泣く方がどれだけ生活に張合ひがあるかわからないではないか。」
然しその願ひも僭越である樣に思へた、その中には一度でも展望の利く所へゆき度いと思ふ私の願〔ひ〕があつたので(だ)から。
その樣な私が犬賣りを知る樣になつたのだ。
冬。冬。寂れた寺町の凍てる夜々。カンテラの樣な乏しい燈の下に賣られる、賣れそうもない仔犬共。その少し變てこな犬賣りを思へば、私の腐水の樣な心も時々はそんな思はぬ所からみぢママめにも動き出すかと思へた。
汚染の出た窓掛けに向ひながら、私のしびれた頭の中を過ぎるものは下らないことばかりであつた。どうしたきつかけでこんなことを考へてゐるのだらうと遡つてゆけば、總理大臣と話をしてゐたりする。どれもこれも、氣がついて見れば、白日へ持ち出せない程つまらないことである。然もひとりでに私の頭は次から次へと妄想のラビリンスを辿つてゐる。それに混つてまだ觀念の形にならない觀念、輪廓のぼやけた幻は、あとからあとから意識の薄明の中を過つてゆく。――こママうして一日が暮れ、一日はまた歸つて來、そのうちけだものゝ樣に私は死んでしまふらしかつた。そんな時、ふっと心に蘇つて來て、またしても想像を誘ふのはquaintな犬屋のことであつた。……(缺)


……また私は三拍子の口笛を吹き、それが步調の四拍子に合ふ樣に練習したりする。しくじつては、しくじつては口笛は何囘も三拍子をやりはじめ、やりはじめてはぎくしやくした步調に亂されてしまふ。
「オ一 二 三」「オ一 二 三」
「さあ、オ一 二 三 四」
「オ一 二…………」
變な感覺に氣がつけば、私の憂鬱な足並みはいつのまにか田舎の兵隊の樣に右手を右足を同時に踏み出し、左手と左足を同時に踏み出してゐるのである。
そんなことをしくじりつゝ私は幾曲〔り〕も曲り曲つて寺町へ出てゆく、その私の眼の前には燦々とした電燈が整列して、次の遊戲を待つてゐた。
私は眼の玉をベン タービンの樣にして像を二重に映し寺町をあるいてゆく。街の火はぼやけてみな美しい菊の花になり、その數はまた二倍になり、寺町は菊花園になるのである。
然しこの樣な遊戲も、街の上の私の憂鬱をどれだけ追拂つて呉れたといふのであらう。
ともすれば問答を初めがちな私の中の「二人の私」の議論は、私をなほさら憂鬱にしてしまふのであつた。
「一生懸命になつて右手と右足を一緒に出したりして、いゝ恰構(好)だぜ。狐憑きぢやあるまいし、笑はれるぜ」
陰氣な、恟々した私の、繼っ子のする樣なけちな遊びに、一方は毒々しく惡態を吐くのである。
「お前は寺町に赤や靑の電燈があつて嬉しいだらうな。」
「あゝ、黃色ばかりぢやつまらないからね。」
「笑はれるぜ。お前。眼の玉を兩方眞中に寄せて人に突き當つたりしたらどうするんだい。どう云つて詫びるんだい。いゝ態度だぜ。」
かうして私は、私の憂鬱にすげられた、ベン ターピママンの首が、貧相な私の眼の故ではなく、私の蝕まれた生活故、その繼つ子の樣な欲望故に、恥しい程侘しいものであることを、或る時は私の中に起る惡魔の嘲罵で思ひ知つたのであつた。
「銹は鐵を食ふ、毛蟲は葉を食ふ、尾張名古屋は城を食ふ」
こんな言葉で私が憂鬱に食はれるのをはやしたてるのは、やはりこの樣な惡魔等であつた。此奴らが私を尚更憂鬱にした。
そんな時にも、寺町を下れば犬屋がゐると、思ひ、些かでも樂しみは殘つた。些かの樂しみ、――ほんの通りすがりの一瞥であるその一べつ(瞥)につれて、極つた様に私の口邊までやつて來る一くさりの詩句ともなんともつかないものがあつた。それは「この夕べ、犬を賣る男ありて、」といふのである。これはもう私が犬屋とおさらばをする最後の日とはあまりへだたつてゐない日頃であつた。
街の寒さと、近〔づ〕いて來た學年試驗のために、寺町から京極、四條へかけての往來には敞衣破帽の高等學校の生徒が稀であつた。然し依然として私は街をうろつかねばならなかつた。……(缺)
そういふ譯で、街を步く私は、杉垣の中へ鼻を挿し込んだり往來へ立留つて鼻を𢌞したりしなければならなかつた。それもたゞほのかなさびれた臭覺にひよっと心が浮いて來ないでもないと思ふ心からであつた。……(缺)


……それと同じみぢママめは犬屋の五匹の仔犬の上にもあつた。それはいつ見ても一匹が半匹も減つてゆかなかつた。
寒い風は冷い甍へ砂埃を吹きつけ、灯の火は煙をあげて穂先をなびかせ、犬屋の敵意を含んだ樣な顏には鬼の樣な陰影が動いた。
この酷しい凍ての冷たさ、このアセチレンの匂ひ、これらの何時か、この樣な犬屋の印象を蘇らせ、この樣な私の生活を憶ひ起させる特殊な感覺になるのだらうなど思へた。
「いつのことか一年先か、二年先か、その時にも私は落魄れ、孤獨で、その特殊な感覺に便ママつて心を慰める不びんな男になつてゐないとはどうして斷定出來やママう。」
何を思つても展望のない私の心であつた。


三條から四條へかけての寺町通りは新京極と背中あはせになつてゐて、寄席の高座の直ぐ裏になつてをる。三味線や太鼓の音、時には「ハッこらさあ」といふ聲が響いて居り、しかもそれには無關心な、暗い、くすんだ通りである。この通りはお酒醬(醬油)をたく匂がした。また電信柱の蔭には車ママ夫が溜つてゐて、弱いものいぢめをして遊んでゐる。手を捩つたり、帽子を往來へ放ママつたり、弱い者はやつつけられて、みなあっはあっは笑つてゐる。巾着切りが捕まつたりする木賃宿が、泊り五十銭で、二三軒もあり、日を極めて荒物の夜店が並んだりする。車夫や夜店商人やその樣な人を相手に安い酒を飮ませる居酒屋があつて私はそのうちの一軒へ出かけてゆくのであつた。
狹いたゝきに空樽が椅子にしてあり、さん俵の樣な坐布斷が裁(載)つてゐる。その机の端には肴の小鉢がごたごた並んでゐるといふ風で、また疊の所もあり、二つに仕切られた奧の方には焙らく(炮烙)にみだらな畫をかいたのがかゝつてゐる、その部屋からは雇仲居(やとな)といふものが三味線をひいて客と騒いてゐたり、こゝの女が酒に醉つて舊式な毒舌を叩いてゐたりする聲がきこえて來た。
こゝで酒を飮んで私は堅い寐ママ床へ歸つてゆくのであつた。酒をのまねば眠れず、また酒をのめば頭は半分莫迦になり半分陽氣になつてゆく。――私にはそれが必要であつた。
そして私には覇氣のある學生や嫖客のゐる四條が疎ましく、その日その日の生計に暗く彩られた、此處いらの人々に親しみが持てた、私に滲み出た色がこちらに近いのである。
私のよく見る顏に、一人の年寄りの働人があつた。日に燒けた大きい掌で、この家の無格構ママな盃を持つと、それが雛様の盃の樣に小さく見えた。默つて、盃を嘗める樣にしてのみ、のんでは一所を見てゐる。極つて一本の下等酒を飮むこと、また大きな財布から不器用に錢を出すのを觀、私はしみじみした氣持にうたれるのであつた。私ののむ酒は、上酒の方で、それは私が一番の最初、その方を飮み、そのためいつまでも下等の方に變へることを得うせなかつたので私には氣がひける所があつたのである。
私は酒をのみ、變てこな犬屋の玩賞をする。――もしこれが身に入ればその夜は良い夜であつた。……(缺)


その前夜の始末とはかうであつた。
私はいつもの居酒屋でのんでゐた。私は浮ママ圖、あの犬屋の仔犬を買ふのには私といふ人間が最も適してゐると思ひ當てたのである。仔犬を買つて歸り、犬舎を作り、私の食ひ料を頒けてやればうまくゆくであらうと思ひ、この樣な考えママが何故今まで浮ばなかつたのかわからなかつた。私は自然に興奮してゆき、犬を入れてはいけないと下宿で云へば變るまでだとも思ひ、「中學生の西郷隆盛」の樣な情熱を感じた。
それにしても私の愚昧な獨り話しも、いゝ聞き手が出來たものだ哩(ワイ)、名前は何にしやママう――など私は早も思ひ見、犬屋に犬を領(頒)けてくれと云ひ出すときの種々な情景や、言葉遣ひまで、私は氣にしては訂し、氣にしては訂ししたのであつた。いつのまにか下宿はかはる積りをしてゐ、犬と私との新しい住居を想像しておママれば、直ぐにも私の生活は端々まで蘇つてゆく樣に思へた。
私はディオといふ樣なうまい名がつくまで小ママ供の時家にゐたミキといふ老ひママぼれ犬の名のお古をつけておいてやれなど思つてゐたのである。
そんなことを思ひつくのに私は種々なことを思ひ亂りママ、澤山酒をのんで、その居酒屋を出る時には、もう此の家も今夜切りだな、など思つてゐた。……


それを次々に思ひ出し、然も私の心は二度と動いて來なかつた。

この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。