琴を持つた乞食と舞踏人形

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本文[編集]

大阪の堺筋にも夜店が出るやうになつた。新聞はひとしきりそれの景氣や不景氣の記事で賑つた。此頃はときどき夜店に關した畫家や文人の文章を載せてゐる。銀座通(つう)の文人の書いた銀座の夜店の話をこの間も讀んだが、「銀座の夜店が二百六十八軒、額緣屋や、扇子屋や、古本屋や、呼鈴屋や、玩具屋や、刃物屋や、表札屋や、……」と讀んでゆくうちに、私も久し振りに銀座の夜店を思ひ出した。私も東京にゐた自分は随分そこを步いた。私は別に孤獨を好む人間ではないが、銀座へゆくときは一人のことが多かつた。勿論友人ともよく行つたが、それよりも一人のことが多かつたといふのは、私にとつて銀座は別に友人を持つてはじめて面白いといふところではなかつたからである。例へば、私はカフエー・ライオンの卓子に一人で腰をかけて、白服を着た男がカクテールを振つてゐるのを眺めたり(その男ははじめはカクテールを振つてゐるが、しまひにはカクテールに胸倉をとられて小突きまはされてゐるやうに見えるので滑稽だつた。)、卓子の間を行つたり來たりするウエトレスを眺めたり、麥酒を飮んだり、骰子をころがしてゐる客を眺めたりしてゐることがなんとはなしに面白かつた。こんなことは一人の方がいい。人を眺めるには自分が人々の誰からも閑却され、閑却されることによつて自由に彼等が樂しめるといふことが必要なのであるが、銀座のやうなところは恰度その條件に適合してゐるのだ。私は飯倉にゐて麻布十番へもよく出掛けたが、そこのある一軒の玉子屋の子供が、いつも店の次の間の、往來のよく見えるところで寐てゐるのが何時見ても羨ましい〔やうな〕氣がしたことを覺えてゐる。〔さういふ錯覺があるのだらうが、わたしにもずつと昔そんなところで寐ながら往來を通る人々を眺めてゐたことがあるやうな氣がして仕方がなかつた。〕<私にも昔、すつかりその通りそのまゝのことがあつたやうな氣がして、その錯覺を訝りながらも>當時不眠症で困つてゐた私は、あんなところでならきつと安心して樂しい氣持で眠むれるだらうなど考へたのである。私が銀座へよう行つうたのはつまりはさうした樂しみがいつもそこにあつたからである。しかし私はいつもその樂しみに滿足して歸つて來るわけではなかつた。いくら食つてもいくら食つても齒の根が痒ゆママいやうな氣がしてなほ食はずにはゐられないときがあるやうに、〔いつまで步いてゐても〕步いても步いても心のなかにはどうしても滿たされない氣持があつて、遂には終電車がやつて來る時分までうろついてゐたりすることがある。なにが情ないといつてそんなときほど情ない氣持のすることはない。こんなこともしよつちゆうあつたのである。
私はそのやうな私の浮浪をお思ひ出すたびに感傷的な氣持になる。その感傷的な氣持のなかにはいつも一つの人形と一人の乞食のヴイジヨンが浮んで來る。ダンス人形と琴を持つた乞食だ。
ダンス人形といふのは、東側の松屋の前あたりの玩具屋の屋臺の上に、いつも澄ました顏をして踊つてゐた人形である。ゴムの握りから空氣を送つて踊らすやうな仕掛だつたらしい。手を腰にして、スカートを穿いて、しかし顏は古い日本の人形のやうな表情で、いつ見ても小さな函の舞臺の上で、あちらを向いたりこちらを向いたりクルリクルリと踊つてゐるのである。この人形はその行儀のいい取り澄ました表情のせい(ゐ)がひどく淋しく見えた。鋪道のゆきずりにそれを見ることはなにか傷ましい氣を起させた。あるひはこれがもつと玩具屋の店の中かなにかならかうも淋しくは見えないのだらうが、あとからあとからぞろぞろと人の歩いて來る鋪道で、しかもその八人が誰あつてそれに眼をやらうとしない風なのだから餘計淋しさうに見えたのである。とにかくその人形はいつ見ても澄ました顏をして、手を腰にして、あちらを向いたりこちらを向いたり單調なダンスをしてゐた〔のである〕。ところがあるとき、私はふとなに氣ない氣持から、その人形のそばへ寄つて見たことがあつた。するとその人形の踊るにつれて、舞臺になつてゐる小函のなかから、實に微かなチリンチリンといふ音がしてゐるらしいのに氣がついたのである。私は妙な發見をした氣持でもつとそばへ寄つて見た。チリンチリンといふ音は微かではあるが確かにしてゐた。そしてそのそばには、なるほど「ダンス人形。音樂入り」と書いたボール紙が出てゐたのである。私〔に〕はその人形がながいあひだ、なにか間が拔けて淋しく見えてゐた理由がやつとわかつたやうな氣がした。音樂入り。それが銀座の舗道のうえママでは〔音樂入りにならないのである〕少しもきこえないのである。これが銀座の鋪道なのだ。人びとがただぞろぞろ步いてゆく、その無感覺な足音のなかに、きこえないダンス人形の音樂が鳴つてゐる!
琴を持つた乞食は盲人(めくら)だつた。彼は銀座に限らず、人びとの雜閙する交叉點の片隅に、いつも茣蓙を敷いてトタンで張つた琴を彈いてゐた。私はその男を本郷三丁目の交叉點でも見たこともあるし、須田町、四谷鹽町などでも見た。彼の敷いてゐる茣蓙のうしろにはいつ見てもゴム靴が行儀よく脱いであつた。琴の前にはアルミの辨當箱が開いて置いてあり、そのなかには人びとの投げる銅貨がはいつてゐた。
私はその曲の平凡を知つてゐた。また街頭の雨と埃で黑くなり風邪をひいた絲が、決して滿足な音色を出してゐないことも知つてゐた。しかしそれがある一〔定〕聯の旋律のところへ來るたびに、いつも私はあるきまつた悲しい發作に捕へられた。それは凡そあたりの現實とは似ても似つかない古めかしい悲しい情緒であつた。
彼はときどき思ひ出したやうに地の歌を歌つた。これは遂に私にも聽きとれなかつた。歌といふよりも「呼氣延聽」〔のやうなもの〕であつた。〔翅を震はしても〕微かなゼンマイのほどけるやうな音しかない。老いたこほろぎの歌であつた。
私は或る日その男が尾張町の角から巡査に追はれてゐるところへ行きあはした。彼はもうブリキ張の琴と茣蓙とを背中に斜に結へつけてゐた。しかし彼は二三步あゆみ出したばかりで鋪道の上へ立留つてしまつた。彼の顏は何時にになく悲痛な困惑の表情を浮べてゐた。そして立留つたままで、なにかの氣配を探るやうにその首を擧げてゐた。憐れな盲人よ。恐らく彼は鮭を落してゆく熊のやうにその巡査が立ち去つてゆくのを待つてゐたのだらう。しかし巡査はまたその何步か先で同じやうに立留つて意地惡くそれを見てゐるのだつた。彼は〔また〕引返して來て盲人を罵つた。盲人は步き出した。おう、その格好!背中へ斜にかけた琴と茣蓙はいかにも大仰〔に辯慶の七〕に見えた。しかもその大仰さがむつきに挾んだ赤ん坊のやう……(缺)

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