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母親 (梶井基次郎)



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母が近頃ちかごろになってめっきり弱ったように思われた。――針仕事をするのにも針に糸を通すことが出来なくなった。老眼鏡をかけながら心許こころもとない様子で、電気の方へすかしながら糸を通そうとする。それが穴からよほどそれているのに、そこへ向けて糸の穂先ほさきをしずしず進ませている。そして何度やりそくなっても、まだ真顔でやっている。私はつい「通してあげましょう」とって通してやろうとするのであるが、それが以前なら頑固がんこに自分で通したものが、次には無理にそれをうばおうとする私に逆らわなくなり、近頃ではのいい弟などに「これを二三本通しといておくれ」など云うようになった。
母はまた時々記憶きおくが悪くなったことを云い云いした。そして若い時には××耳――何でもおそろしいほど記憶のいいという意味をもった面白い言葉だったが私には今それが思い出せない――その××耳だと人に云われたものだがといつものようにつけ加えた。しかし私には母の記憶がそれほど減ったとは思えなかった。
実際母は怖ろしいほど記憶がよかった。私と母とが一緒いっしょにその場にいあわせた出来事を父などに話す時、自分はよくあれまで覚えていられたものだといつも思っていた。そしてそのはなりもなかなか順序が立っていてその事件を知っている私までがつい興味を感じさされるという風のものであった。しかし近頃になってその話し振りが随分ずいぶん私にはもどかしく思われ出した。
ゆっくりこしえてのろのろと同じことを繰返くりかえしたり、「ああ、そうそう」だとか「いやそうじゃなかった」とか云ってその永い話が改められたりすると私はついいらいらして「つまりはどうなんです」とか「結局はまたおじゃんという訳ですね」とか云って直截ちょくせつせまったり、予見出来ている所まで先廻さきまわりしたりしてしまうのであった。元から母の相談をうける私であったが近頃になって急にたよりなさそうに私に相談を持ちかけるようになった母はよくそのまだるっこい話しで、そして大抵たいていはあまり聞きたくない家のことや親戚しんせきのことで私の気をいらだたせてしまうのだった。
――そういう風に母の私に対する態度なりまた挙動なりがもう老いというものの感じを私におしつけるように思われだしたのだった。


母が幼稚園ようちえんに出ていたのを私は記憶の中にうすく覚えている。母は父にまだとつがない前から、今は大阪では随分有名になっているT先生などと一緒に育児の事業にたずさわっていたのであった。もっとも母は私のすぐ下の今は亡くなってしまった弟を生む前にそれからは手をひいてしまったのであるが、そんな経歴を持った母だけに随分私達へのしつけがやかましかった。私は小さい時には、たまの夕餉ゆうげに酒を飲んで機嫌きげんをよくした父の方を余計なつかしく思ったことが時々あるように思っている。父はどこかこわかったが平常は随分子供にはあまかった。しかし母はどこまでもきびしくしつけた。――そのためか中学を卒業して両親の膝下しっかはなれるまで、そしておそらくはこの間まで私は母をおそれていた。どこまでも母は私をおさえつける人であった。
高等学校に入るようになってから私は酒や煙草たばこを親しむようになった。家へ帰っても酒はのまなくても辛抱しんぼう出来たが――それもどちらかと云えば私の気持がどうしてもそれを許さなかっという方が本当である。母が私達に父の酒癖さけぐせを見習わないようにといつも云いふくめたり、私達が酒をにくむことを小さい時から教えて来たので、私は一度家に帰るとどんなに父が酒を飲んでいてもちっとも欲しくもならなかったし、とにかく家で母を前にして酒を飲むというような考えはどんな考え方をしても私には考えられないことだったので、酒はつつしめたが、煙草の方はどうもそういう訳にはゆかなかった。
しかし初め――と云ってその頃はまだ私もそんなに煙草がなくてはいられないというほどでもなく、時々は禁煙きんえんの決心をするような初めだったのだが、それでも急に吸いたくてたまらないようになって家をけ出して近所の橋の上へ行って吸って帰ったものであったが、とうとう家へ帰る道々吸っていたのを家の前でまだ吸いかけの長い煙草を捨てたのを私の後からやはり家へ帰りがけの母にみつけられて、「あんな長い煙草を捨てるのじゃないよ」と私はいやみを云われてどきまぎさされたのをはじめに――私は正直な母がそのいやみを少しどもるようにして真顔で云ったのを覚えている――私が母を裏切っていたことが母にわかり出したのだった。それから私は初恋はつこいらしいもので父母に迷惑めいわくをかけた。
次に私が酒をのんでいることがどこからか母の耳に入った。次に私は肋膜ろくまくになって試験を放棄ほうきして家へ帰った。そしてその原因が酒をのむことで私の前から持っていた肋膜の傾向けいこうが助長されたのであることや、その試験の放棄の半分の理由はうけても落第だと思っておじけがさしてげ帰ったのであることが母にわかて来た。母はそのたびに私をきびしく責めて私を困らせた。病気がなおって学校へゆくようになってからも私の生活が不検束ふしだらであることや、私が質屋で出入りしたり、飲食店で借金をかさませたり、うそを云って金をとったりしていたことを母は時々知った。そして私はだんだん母を裏切ることに慣れて来た。
次に私はとうとう私の生活の内容をみな告白しなければならない時が来た。その時に母は私が女を買うようになっていることをきかねばならなかった。私は泣いて両親にびた。
感傷的な父は一緒に泣いた。しかし母は泣いてはいなかった。私は母の顔が青ざめてえられない苦悩くのうゆがめられていたのを覚えている。私は出来るなら母にその苦しみの最後の一滴ひとたらしまではのませたくはなかった。その放埓ほうらつの破局の後始末がつきさえすれば、そしてその理由がにおちるようにさえ出来れば、私は何もそんな残酷なことをせずに済ませたのであるが、私はもう全部総ぐるみ一つあまさず父と母との前に曝露ばくろして永い間裏切って来た罪を許してもらいたかったのだった。永い間糊塗ことの生活からのがれたい、もう一度せいせいした気持になってみたい、その上へ新らしく喜びにみちた合理的な生活を打ち立ててゆきたい――そのためにはどうしても私はそうせずにはいられなかったのだった。
*            *           *
私はふとこんなことを思ってみる。
私があんな残酷な失望を母に与えたのは、自分の後悔こうかいを売りものにするため、その後悔の効果をあげたいという魂胆こんたんがあったのではなかったかと。――
「つまりお前はうまくやったんださ。」と云って意地の悪い者がどこかで私をわらうような気がする。そして私はどうしても虚勢きょせいなしにはその声に対抗たいこうすることが出来ない。私には思い当る節々がある。
先を云えば、なんしろその夜から母のねむれない夜が続いた。母は随分苦しんだ。私は母がその苦しさにつかって、のたうちまわっているのを冷やかには見られなかった。私は時折ひざまずきたいような衝動しょうどうを感じた。重苦しい数日の後母はやっと仕事などに手をめるようになった。
*            *           *
「泳ぎつくように」母が思っていた私の卒業の彼岸ひがんがまた後退あとずさってしまったのだった。たしかにこれは大きな失望に相違そういなかった。しかし単にそれだけだったら母はあんなにも苦しまなかっただろう。しかし私が学校へ出なかったり、試験を受けなかったりした理由が単に毎日のように酒にひたって遊びくらしたあげくたましいあらした結果であることが母には堪えられなかったのである。私はそうして母を残酷に裏切りいたのだった。
母が心に生じた不意の空虚くうきょに調和するのには充分じゅうぶんの苦しみとかなりの時がかかった。しかし母は毎日毎日の積みかさねの末とうとう私を許し、それをあきらめてくれた。
母はかしこい人であった。しかし第一に正直な義理がたい人だった。そして厳格げんかくに私達を育……(欠)

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