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Page:成吉思汗実録.pdf/224

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征錄に亦乞列 部 孛徒 駙馬 二千騎、黑韃 事略に 撥都︀ 駙馬とあり。元史 本傳に「孛禿、亦乞列思 氏、善騎射。太祖︀妻以皇妹 帖木倫。皇妹薨、復妻以皇女 火臣 別吉」と云ひ、公主表 昌國 公主 位の處に「昌國 大長公主 帖木倫、烈祖︀女、適昌忠武王 孛禿。主薨、繼室以太祖︀ 女 昌國 大長公主 火臣 別吉」と云へり。帖木倫は、卷一 卷二にも喇失惕の史にも みな帖木侖とあり。火臣 別吉は、卷五に豁眞 別乞、親征錄に火阿眞 伯姫、喇失惕の史に長女 火眞 別吉とあり。蒙韃 備錄に「成吉思 皇帝 女 七人。長公主曰阿眞 鱉拽、今嫁豹突︀ 駙馬」とある阿眞 鱉拽は卽ち豁眞 別乞、豹突︀は卽ち不禿なり。

​阿剌忽失 的吉惕忽哩​​アラクシ デギトクリ​ ​駙馬​​ムコギミ​

​汪古惕​​オングト​の​阿剌忽失 的吉惕忽哩 古咧堅​​アラクシ デギトクリ グレゲン​なる​五​​イツヽ​の​千戶​​センコ​の​汪古惕 氏​​オングト ウヂ​、(この名は、卷六より見えて、今始めて古咧堅と稱せり。元史 本傳に曰く「旣平乃蠻、從下中原、復爲嚮導、南出界垣。太祖︀畱阿剌兀思 剔吉忽里、歸鎭本部。爲其部眾、昔之異議者︀所殺︀、長子 不顏昔班 倂死之。其妻 阿里黑、攜幼子 孛要合、興姪 鎭國難︀、夜遁至界垣、吿守者︀、縋城以登、因避地雲中。太祖︀旣定雲中、購求得之、賜與甚厚。以其子 孛要合 尙幼、封其姪 鎭國北平王。鎭國 薨、子 聶古台 襲爵、尙睿宗 女 獨木干 公主、略地江淮、薨于軍。孛要合 幼從攻西域、還封北平王、尙阿剌海︀ 別吉 公主。公主 明睿 有智略。車駕征伐四出、嘗使畱守、軍國大政、諮稟而後行。師出無內顧之憂、公主之力居多」と云ひ、公主表 趙國 公主 位の初に「趙國 大長公主 阿剌海︀ 別吉、太祖︀女、適趙武毅王 孛要合」とあり。然るに蒙韃 備錄には「二公主曰阿里黑 百因、俗曰必姫夫人。曾嫁金國亡臣 白四部、死、寡居、今領白 韃靼 國事、日逐看經、有婦女數千人之、征伐斬殺︀、皆自己出」と云ひ、多遜の史には「成吉思 汗、第三の女 阿剌海︀ 別吉を阿剌忽失 的斤忽哩に妻せんとしたるを、年老いたりとて辭みて、兄の子 鎭古に妻せられんことを願ひ、阿剌海︀は鎭古に嫁ぎて、訥古台を生み、訥古台は拖雷の女を娶れり」と云へり。

​阿剌合 別乞​​アラカ ベキ​ 再醮の說

洪鈞 思へらく「據孟珙言、則元史所謂畱守、乃是掌汪古部 事、非太祖︀本部。太祖︀西征、斡赤斤 居守、元 祕史 西游記 可證、別無阿剌海︀ 居守之語。作此傳者︀誤會也。史 言孛要合 幼從征西域、歸乃封王尙主、而孟珙之使蒙古、作蒙達備錄、在辛巳歲、正太祖︀在西域札闌丁之時、不卽云公主夫死寡居。今案、西域書之鎭古、卽 鎭國 之訛。訥古台、卽 鎭國 子 聶古台。尙睿宗 女、語同元史。反覆推求、必是公主先適鎭國、夫死、遂自領汪古 部事、繼而夫弟(從弟)孛要合、自西域還、復尙公主。鎮國 子 聶古台 爲公主出、而 孛要合 之 三子、則公主進姫妾以生。西域書但言其前、元史但言其後、而蒙達備錄、則適當其中。蒙古 不再醮、理宜然也」とて、三書の異なる處を巧に解釋せり。又 黑韃 事略に蒙古の十七頭項の名を擧げて、その一人なる白厮馬の原注に「一名 白厮卜、卽 白韃 僞太子、忒沒眞 壻、僞公主 阿剌罕 之前夫」とあり。洪鈞はこの文を引きて公主 再醮の確證とし、「白撕卜、卽 白四部、亦卽史之 鎭國。何以二名、不其考」と云へり。洪鈞 又 曰く「西域書謂太祖︀欲女適阿剌兀思 剔吉忽里、辭以年老、請以兄子婚。阿剌兀思 之兄、先爲汪古 部主。汪古 部爲金守長城邊界。兄死弟嗣、而金主仍禮遇其兄子、蒙達備錄所以云金國亡臣也。汪古 之義爲邊牆。云是契丹語、蓋卽金語。史言金源氏塹山爲界、阿剌兀思 以一軍其衝要、語同。西域書紀阿剌兀思 死難︀ 之故、與元史異。語繁不載。又云阿剌海︀ 別吉 年歲、在窩闊台 拖雷 之間、則是太宗妹睿宗姊」と云へり。

​阿剌合 別乞​​アラカ ベキ​ 三醮の說

洪鈞の此等の說は、考證 甚だ精︀にして確なり。余これに依りて猶 考ふるに、阿剌海︀ 別吉は、祕史 卷十なる阿剌合 別乞にして、前に鎭國