けて、阿勒台 山アルタイ ザンの前マヘに冬籠フユゴモリして、牛ウシ忽客兒の年トシ(我が元久 二年 乙丑、宋の寧宗 開禧 元年、金の泰和 五年、西紀 一二〇五年、太祖︀ 四十四歲の時、)春ハル、阿唻 嶺アライ タウゲにより越コえて往ユけば、乃蠻ナイマンの古出魯克 罕グチユルク カンは、部眾ブシウを取トられて、かく背ソムきて出イでたる〈[#「出でたる」は底本では「出てたる」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉により、僅ワヅカの眾シウにて篾兒乞惕メルキトの脫黑脫阿トクトアと二人フタリ 合アひて、額兒的失 河エルチシ ガハの[潀水シウスヰなる]不黑都︀兒麻 河ブクドルマ ガハの源ミナモトに會クワイして、軍イクサを整トヽノへて居ヲりき。(
額兒的失 河エルチシ ガハ 不黑都︀兒麻 河ブクドルマ ガハの解
額兒的失 河は、親征錄 元史 太祖︀紀に也兒的石 河、憲宗紀に葉兒的石 河、武宗紀に也里的失 河など見え、水道 提綱には額勒濟斯 河、西域 水道記には額爾齊斯 河、露西亞の地圖には伊兒齊斯 河とあり。上流の二源を庫 伊兒齊斯 喀喇 伊兒齊斯と云ふ。庫は黃、喀喇は黑なり。二水 合ひたる後も、喀喇 伊兒齊斯と云ふ。阿勒泰 山の東南幹山の西南麓の諸︀水を合せて、齋桑 諾爾に入り、諾爾より北に流れ出でてより伊兒齊斯 河と云ふ。不黑都︀兒麻 河は、西域 水道記の布克圖爾瑪 河にして、露西亞の地圖には布合塔兒瑪 河とあり。科布多の西北なる阿勒泰 山頂の西麓より出で、北緯 四十九度の北を西に流れて、伊兒齊斯 河に入る。蒙古 地方より布合塔兒瑪の源に往くには、科布多 河の上流なる索果克 河の源より阿兒古特 嶺の南端を踰ゆる路順なれば、阿唻 嶺は、卽ち阿兒古特 嶺などの古名なるべし。)
成吉思 合罕チンギス カガン 到イタりて對陣タイヂンしたれば、脫黑脫阿トクトアはそこに流箭ナガレヤに射イられて倒タフれき。彼カレの子コどもは、彼カレの骸カバネを取トりかねて、彼カレの身ミを持モちて去サりかねて、彼カレの頭カウベを斷タちて持モちて去サりき。そこに乃蠻ナイマン 篾兒乞惕メルキト 共トモに會クワイして對陣タイヂンする能アタはずして、逃ノガれ動ウゴく時トキ、額兒的失 河エルチシ ガハを渡ワタる時トキ、溺オボれて多數アマタを水ミヅに死シなしめき。僅ワヅカに出イでたる乃蠻ナイマン 篾兒乞惕メルキトは、額兒的失 河エルチシ ガハを渡ワタり畢ヲへて、離ハナれ動ウゴきけり。
乃蠻ナイマンの古出魯克 罕グチユルク カンの奔竄ホンザン
乃蠻ナイマンの古出魯克 罕グチユルク カンは、委兀兒台ウイウルタイ、(卷三なる畏忽惕また委兀惕、親征錄 元史 畏吾兒。唐の回紇の遺種にして、その都︀は、唐の北庭 都︀護府の址なる別失八里 城、今の濟木薩の稍北にあり、その地は、天山の南北に跨れり。布合塔兒瑪 河の源より委兀兒の地に往くには、その河に沿ひて西に下らずして、喀喇喀巴 河に沿ひ南に下りて、喀喇 伊兒齊斯 河を渡り、猶 南に進みて、委兀兒の西境に入りたるなるべし。)合兒魯兀惕カルルウトを過スぎて、