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Page:成吉思汗実録.pdf/230

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ば​行​​ユ​くまで​拽​​ヒ​きて、​我​​ワ​が​善​​ヨ​からぬ​事​​コト​は​立​​タ​つまで​止​​トヾ​めて、この​位​​クラヰ​に​到​​イタ​らせたり。

右手の萬戶

​今​​イマ​ ​眾​​モロの​上​​ウヘ​に​坐​​クラヰ​に​坐​​ヰ​て、​九度​​コヽノタビ​の​罪​​ツミ​に​勿​​ナ​ ​罪​​ツミ​なひそ。​孛斡兒出​​ボオルチユ​は、​右​​ミギ​の​手​​テ​の​阿勒台 山​​アルタイ ザン​に ​凭​​ヨ​れる​萬戶​​バンコ​を​知​​シ​れ」と​勅​​ミコト​ありき。(蒙語​篾迭​​メデ​は、本の義は知るにて、管する意にも用ひ、我が古言のしるに同じ。古の知太政官事 今の府縣 知事などの知も、同じ意なり。管する意に用ひたる篾迭を知ると譯したるは、皆 古言のしるなり。


§206(08:39:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​木合黎​​ムカリ​の​神︀吿​​ミツゲ​

 ​又​​マタ​ ​木合黎​​ムカリ​に​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​宣​​ノリタマ​はく「​我等​​ワレラ​、​豁兒豁納黑 主不兒​​ゴルゴナク ヂユブル​なる​忽禿剌 罕​​クトラ カン​[を​戴​​イタヾ​ける​部眾​​ブシウ​]の​踊​​オド​りける​繁​​シゲ​れる​樹​​キ​[の​下​​シタ​]に​下馬​​ゲバ​したれば、​木合黎​​ムカリ​に​皇天​​アマツカミ​の​神︀吿​​ミツゲ​を​吿​​ツ​げ​給​​タマ​へる​言​​コトバ​ ​明​​アキラカ​なる​故​​ユヱ​に、​我​​ワレ​そこに​古溫豁阿​​グウンゴア​(卷四なる古溫兀阿)を​想​​オモ​ひて、​木合黎​​ムカリ​に​言​​コトバ​を​了​​ヲ​へたりき。(約束を定めたりき。この事は、前に見えず。豁兒豁納黑の下馬は、札木合と同居せる時なり。この言に依れば、木合黎 等は、その頃 已に太祖︀と內約ありて、その後 主兒勤の亡びたる時、先約に從ひ服屬したるなり。)それに​依​​ヨ​り​坐​​クラヰ​に​上​​ノボ​りて​坐​​スワ​りて、​木合黎​​ムカリ​の​子孫​​シソン​の​子孫​​シソン​に​至​​イタ​るまで​眾民​​オホクノタミ​の​國王​​コクワウ​となれ」とて​國王​​コクワウ​の​號​​ナ​を​賜​​タマ​ひたり。

左手の萬戶

「​木合黎 國王​​ムカリ コクワウ​は、​左​​ヒダリ​の​手​​テ​の​合喇溫 只敦​​カラウン ヂドン​に​凭​​ヨ​れる​萬戶​​バンコ​を​知​​シ​れ」と​勅​​ミコト​ありき。(合喇溫 只敦の所在 確ならず。王罕の少き時 叔父に遂はれて逃げ込みたる合喇溫の隘は、薛涼格 河の邊にありて、これと異なり。巴勒主納の水飮の時、太祖︀を尋ねて合喇溫 只敦の嶺どもを合撒兒の辿りたるは、この山なるべし。興安 嶺の山脈の內なる一峯の名なるべしとは誰も考ふることなれども、孛斡兒出の阿勒台 山と對して擧げられたるを見れば、興安 嶺の一峯の名には非ずして、興安 嶺 全體を呼べる舊き名なるべし。閻復の廣平王の碑に「國初、官制簡古、置左右萬夫長、位諸︀將之上首、以武忠右、東平忠武王居左、翊衞辰極、猶車之有軸、身之有臂、電掃荒屯、鼇奠九土、拄天之力競矣」と云へり。武忠は孛斡兒出、忠武は木合黎なり。


§207(08:40:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​豁兒赤​​ゴルチ​の​讖言​​シンゲン​

 ​成吉思 合罕​​チンギス カガン​、​豁兒赤​​ゴルチ​に​宣​​ノリタマ​はく「​讖言​​シンゲン​して(明譯​你曾​​ナンヂカツテ​​說​​イヒ​​先兆​​センテウ​​的​​ノ​​言語​​コトバヲ​)、​我​​ワ​が​年​​トシ​ ​少​​ワカ​くあるより​今​​イマ​まで​久​​ヒサ​しく​濡​​ヌ​るゝに