「生ウマるゝと共トモに生ウマれたる、長タくると共トモに長タけたる、福︀サキある慶ヨゴトある汝ナンヂ、汝ナンヂの功助イサヲタスケは、幾イクばくもありしぞ。その內ウチ 王罕 額赤格ワンカン エチゲ、桑昆 安荅サングン アンダ 二人フタリ 我ワレを賺スカして喚ヨびたる時トキ、往ユく閒アヒダに蒙力克 額赤格モンリク エチゲの家イヘに宿ヤドりたれば、蒙力克 額赤格モンリク エチゲ、汝ナンヂ 止トヾめざりせば、渦ウヅ忽亦侖ある水ミヅの裏ウチに紅クレナヰ忽剌侖なる火ヒの裏ウチに入イれらるるなりしぞ。彼カの功イサヲを善ヨく想オモひては、子孫ウミノコの子孫ヤソツギツギに至イタるまでいかんぞ忘ワスられん。
彼カの功イサヲを想オモひて、今イマ 坐次クラヰは、この隅スミの根ネに坐スゑて、年トシに月ツキに議ハカりて給與キフヨ 賞賜シヤウシを汝ナンヂに與アタへん。侍奉カシヅきて過スさん、子孫ウミノコの子孫ヤソツギツギに至イタるまで」と勅ミコトありき。
§205(08:34:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
又マタ 成吉思 合罕チンギス カガンは、孛斡兒出ボオルチユに宣ノリタマはく「小チヒサき時に、葦毛アシゲの騸馬センバ 八匹ハチヒキを盜ヌスまれて、路ミチに三ミたび宿ヤドりて追オひて行ユける時トキに遇アひ合アひたるぞ。
汝ナンヂそこに言イはく「艱ナヤみて來キつる伴トモに伴トモなはん」と云イひ、家イヘに父チヽにも話ハナシなく、騍馬メウマの乳チを擠シボり居ヰたるに、その大皮桶オホカハヲケ 皮斗カハマスに野ノにて蓋フタして、尾脫ヲヌケの栗毛馬クリゲウマを放ハナたしめて、我ワレを脊黑セグロの靑馬アヲウマに乘ノらしめて、汝ナンヂ 自ミヅカら速ハヤき淡黃色ウスキイロの馬ウマに乘ノりて、その馬羣バグンをば主ヌシなく放ハナちて、急イソぎて野ノより便スナハち我ワレと伴トモなひて、又マタ 三ミたび宿ヤドり追オひて、葦毛アシゲの騸馬センバどもを盜ヌスみたる團ダンの處トコロに到イタれば、團ダンの邊ホトリに立タてるを奪ウバひて追オひて逃ニげて將モち來キし