し、太宗その位を繼ぎ、天聰と改元し、後に大淸國 皇帝となりて、崇德と改元せり。これらは、みな初に小國の主となり、後に大國の主となれるにて、成吉思 汗の二たびの卽位もその類︀なり。また初の卽位は、合罕とは稱すれども、金朝に貢賦を納め、金の封爵を榮とし、小國の主なることを自らも認め居れども、後の卽位に至りては、天下の主となれる積りなれば、
元史にこの寅の年を太祖︀の元年と立てたるは、至當の事なり。されども建元と云ふ事は、蒙古人の知れることに非ず。この寅の年より後も、祕史と喇失惕の史とは、十二支の象を用ひ、親征錄は、甲子を用ひて、元年二年など云へることなし。黑韃 事略に「其正朔、昔用㆓十二支辰之象㆒、今用㆓六甲輪流㆒、皆 漢︀人 契丹 女眞 敎㆑之。若㆓韃 之本俗㆒、初不㆓理會得㆒。只是草靑、則爲㆓一年㆒、新月初生、則爲㆓一月㆒、人問㆓其庚甲若干㆒、則倒㆑指而數㆓幾靑草㆒」と云へり。彭大雅のこの書を著︀せるは、太宗の時なるに、その言 猶 かくの如くなれば、太祖︀の朝に建元の事なきこと知るべく、この年を太祖︀の元年と名づけたるは、後の世に、大方は世祖︀の朝に、追定したる事なるべし。
また蒙古 源流に「戊戌年、特穆津 年 十七歲、布爾德 哈屯 甫 十三歲、遂爾匹配。特穆津 年至㆓二十八㆒、歲次己酉、于㆓克魯倫 河 北郊㆒卽㆓汗位㆒、稱㆓索多 博克達 靑吉斯 汗㆒」とあり。孛兒帖を娶れる年と初の卽位の年とにつきては、源流の外に據るべきものなし。孛兒帖の十三歲は、祕史に「帖木眞より一歲大きく」とあるに違へれども、帖木眞 十七歲の初婚は、蒙古の早婚の風俗にしては事實なるべし。克魯倫 河の北郊とは、不兒罕 嶽の前なる桑古兒 小河の舊營を云へるなれば、この卽位は、初の卽位にして、斡難︀ 河の源の大會に非ざること論なし。源流の叙事は荒誕の說に富みて、その紀年も誤り多けれども、この二事だけは、幸に祕史の闕漏を補ふに足れり。然るを洪鈞の「源流固爲㆓囈語㆒、祕史亦屬㆓妄談㆒」と云へるは、何たる放言ぞや。)
木合黎ムカリに國王コクワウの號ナをそこに又マタ 賜タマひたり。(國號 無しの王爵なり。元史 木華黎の傳に「丁丑 八月、詔封㆓太師國王㆒、承㆑制行㆑事、贈︀㆓誓券黃金印㆒、曰㆓子孫傳㆑國、世世不㆒㆑絕」とあり。丁丑は、太祖︀ 十二年なり。親征錄 蒙古 集史は、皆 十三年 戊寅の事とすれば、修正 祕史に然ありしにて、原本 祕史の作者︀は、こゝにても虎の年を十二年前のに誤れるに似たり。然れども元史 百官志に「太祖︀ 十二年、以㆓國王㆒置㆓太師一員㆒」とあるは、國王は前よりありて、それをその年に太師にしたるが如くも聞ゆれば、修正 祕史は却て誤りて十二年後の虎の年としたるも知るべからず。)
者︀別ヂエベを、乃蠻ナイマンの古出魯克 罕グチユルク カンを追オはしめに、そこに又マタ 出征シユツセイせしめたり。忙豁勒モンゴルの國クニを定サダめ畢ヲへて、
成吉思 合罕チンギス カガン 勅ミコトあるには「國クニを立タて合アひ行オコナひ合アひたる者︀モノ(諸︀共に國を立て 事を共にしたる者︀)には、千センを千センとして、千戶センコの官人クワンニンを任ヨサして、恩賜オンシの言コトバを言イはん」と勅ミコトありき。千戶センコの官人クワンニンを任ヨサし名ナざせるは、
蒙力克 額赤格モンリク エチゲ(晃豁壇 氏、察喇合 額不干の子、卷一より見えたり。親征錄には蔑力 也赤可とあ