皇帝、是天上人做㆒。此等庸懦、亦爲㆑之耶。何以拜爲。」卽 乘㆑馬北去。金使還言、允濟益怒、欲㆘俟㆓帝再入貢㆒、就㆓進場㆒害㆖㆑之帝知㆑之、遂與㆑金絕、益嚴㆑兵爲㆑備」と云ひ、金國志にも「大安元年、敵人聞㆓金主新立㆒、而喜曰「彼老懦無能、不㆑足㆑畏也、」遂決㆑意南侵」と云へり。釁端 開けたる後、金國の事情は、兩朝 綱目 備要に「允濟遣㆑眾分屯㆓山後㆒、欲㆘襲㆓殺︀ 鐵木眞㆒、然後引㆑兵深入㆖、會金之乣軍、有㆘詣㆓蒙古㆒吿㆓其事㆒者︀㆖。蒙古 遣㆑人伺㆑之得㆑實。遂遷延不㆑進」と云ひ、
金史 衞紹王 本紀に「大安二年九月丙午、京師戒嚴、上日出巡撫。百官請㆑視︀㆑朝、不㆑允是歲、禁㆓百姓㆒、不㆑得㆑傳㆓說邊事㆒。」續 通鑑 綱目に「金 納哈 買住 守㆓北鄙㆒、知㆓蒙古 將㆒㆑侵㆑邊、奔吿㆓于金主㆒云云金主以㆔其擅生㆓邊隙㆒囚㆑之、」また「蒙古 數侵㆓掠金西北之境㆒、其勢漸盛。金人皇皇、遂禁㆔百姓傳㆓說邊事㆒」とあり。畢沅の續 資治 通鑑は金史 續綱目の文に據り「金承平日久、驟聞㆓蒙古 用㆒㆑兵、人情恇懼、流言四起。九月丙午、中都︀戒嚴云云。旣而知㆔蒙古 未㆓嘗大擧㆒、始解㆑嚴、旋禁㆓百姓㆒、不㆑得㆑傳㆓說邊事㆒」と書けり。諸︀書を參考するに、蒙古の南征は、實に五年庚午より始まりたれども、但 烏沙堡を取れるは、親征錄も金史 獨吉 思忠の傳 承裕の傳も、皆 明年 辛未の事とすれば、元史の五年に載せたるは誤れり。
かくて六年 辛未には、親征錄に「秋、上始誓㆑眾南征、克㆓大水濼㆒、又拔㆓烏沙 堡及昌桓撫等州㆒。大太子 朮赤、二太子 察合台、三太子 窩闊台、破㆓雲內 東勝 武 宣寧 豐靖︀ 等州㆒。金人懼棄㆓西京㆒」とあり。續綱目には「蒙古 侵㆓擾雲中九原㆒、連歲不㆑休嘉定四年、遂破㆓大水濼㆒以進。金主始恐、四月、釋㆓買住㆒、而遣㆓西北路招討使 粘合 合打㆒求㆑和。蒙古 主不㆑許。金主命㆓平章政事 獨吉 千家奴、參知政事 完顏 胡沙㆒、行㆓省事于撫州㆒、西京 畱守 紇石烈 胡沙虎、行㆓樞密院事㆒、以禦㆓蒙古㆒。秋、千家奴 胡沙 至㆓烏沙 堡㆒、未㆑及㆑設㆑備、蒙古 兵奄至、拔㆓烏沙 堡及 烏月 營㆒。八月、蒙古 主乘㆑勝破㆓白登城㆒、遂攻㆓西京㆒、凡七日。胡沙虎 懼、以㆓麾下㆒棄㆑城突︀㆑圍遁去。蒙古 主以㆓精︀騎三千㆒馳㆑之。金兵大敗。追至㆓翠屏口㆒。遂取㆓西京及桓撫州㆒」と書けり。この文は、金國志 金史 本紀 獨吉 思忠(卽 千家奴)承裕(卽 完顏 胡沙)紇石烈 執中(卽 胡沙虎)の傳に據り檃括したるものなれば、親征錄よりは委しく、元史 太祖︀紀よりは確實なり。只「破㆓白登城㆒、遂攻㆓西京㆒、凡七日」と云へるは、察罕の傳なる野狐嶺の戰に「圍㆓白樓㆒七日拔㆑之」とあるを誤會して採れるに似たり。また耶律 楚材の湛然 居士 集に進㆓庚午 元曆㆒表あり、「歲 在㆓庚午㆒、天啓㆓宸衷㆒、決㆑志南征。辛未 之春、天兵南度、不㆓五年㆒、而天下略定。此天授也、非㆔人力所㆓能及㆒也」と云へれば、太祖︀の親征は、春にして秋にあらず。親征錄の「秋、上始誓㆑眾南征」は、固より非にして、衞紹王紀の大安 三年 四月に始めて太祖︀の來征を書きたるも、未是ならず。これのみは、太祖︀紀の六年 辛未 春「二月、帝自將南伐」と云へるに從ふべし。蓋 太祖︀の親征は春にあり、金帝の和を求め邊に備へたるは夏にあり、西京 諸︀州の取られたるは秋にあるなり。
然るに太祖︀紀この二三年の間の叙事は傎倒 複沓にして、その失 數ふるに暇あらず。まづ「二月、帝自將南伐、敗㆓金將 定薛 於野狐嶺㆒、取㆓大水濼 豐利 等縣㆒。金復築㆓烏沙 堡㆒。秋七月、命㆓遮別㆒、攻㆓烏沙 堡及 烏月 營㆒拔㆑之」とある野狐嶺の戰は、豐利 等縣卽 撫州を取れる後にあるを、その前に記して、明年 壬申に至り、復 野狐嶺の戰を記し、撫州を取るは、烏沙堡を取れる後なるを、その前に記して、明年 復それを記し、烏沙堡を拔くは、今年 一たびなるを、已に去年に記し、今年に至り「金復築㆓烏沙 堡㆒」の一句を加へて、復 記したり。その病の本を尋ぬるに、太祖︀紀は、親征錄 金史 金國志 等の諸︀書を雜へ採り、咀嚼 融會せずして、筆に任せて列記したるに由れるなり。故に烏沙堡を取れる事は、或書に據りて、五年 春に記し、親征錄に據りて、復 六年 秋に記せり。撫州 卽