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敵するもの無かりき」と云へり。一二一九年は、卽 己卯の年なり。丘長春の西游記に、宣使 劉仲祿、己卯の五月「在乃滿 國 兀里朶旨」とあるは、太祖︀ 親發の前月なり。乃滿 國 兀里朶は、太祖︀の四 斡兒朶の一なる乃蠻の斡兒朶、辛巳の六月 長春の立寄りたる處にして、下文に「窩里朶、漢︀語行宮也。其車與亭帳、望之儼然。古之大 單于、未此之盛也」と云へり。耶律 楚材の雲中より至りたる行在所も、この斡兒朶なり。一二一八年(戊寅)の冬 斡兒朶を發したる(多遜の史)は、客魯嗹 河の大 斡兒朶にして、乃蠻の斡兒朶を發したるは、己卯の六月なり。翌年 庚辰の二月、長春 燕京に入りて「行宮漸西」と聞けるは、己卯の秋 軍を進めたることなり。己卯の西征は、諸︀書 殆ど異辭なし。然るに喇失惕の史には

修正 祕史の紀年の一年後れ

「兔の年、諸︀皇子 將帥を集めて西伐の事を議り、軍中の法度を定め、龍の年 亦兒的失 河に駐夏し、秋、軍を進めて、斡惕喇兒 城に至る」とあり、諸︀書に較ぶれば、一年後れたり。親征錄は「己卯、上總兵征西域」とは書き〈[#「書き」は底本では「書ぎ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉出したれども、次に「庚辰、上至也兒的石 河夏、秋進兵、所過城皆克、至斡脫羅兒 城」と云へるは、全く喇失惕に同じ。蓋 修正 祕史の紀年に一年の後れありしと見えて、己卯より癸未まで五年の間の事蹟は、親征錄も集史も皆一年づゝ後れたり。洪鈞 曰く「帝駐也兒的石 河、應是己卯夏、而西域史、辰年方至也兒的石 河、與親征錄同。由是而見脫必赤顏 之 叙西伐、誤始龍年。元史旣本之、而又考知他書始於己卯、據以增入。於是攻取 蒲華 薛迷思干 兩城、一事兩記。譯西域史、乃知其病在此。」この一事 兩記は、錢大昕より疑ひ始めたる難︀題なりしが、洪鈞の解說にて、その病の根本 明になれり。阿喇亦は、卷八なる阿唻 嶺にして、乃蠻の地より不黑都︀兒麻 河の源に赴くに越ゆる所なり。

西征の路順

然るに太祖︀ 西征の路は、不黑都︀兒麻 河に向はずして、乃蠻の地より阿勒台 山の東南幹山を越えて、合喇 額兒的失 河に出でたれば、阿喇亦を越ゆと云へるは、いかゞあらん。耶律 楚材 丘長春の經たる路は、蓋 大軍のに異ならざる故に、楚材の西游錄と長春の西游記とに依り、太祖︀の進軍を跡附くるは、頗る興味ある事なれば語 長けれども、こゝに補叙せん。まづ西游記に、辛巳 五月 中旬、陸局 河(客魯嗹 河)を離れてより西に行き、六月 十四日 長松嶺を越え、西北に行き、平地に出で、石河を見、高嶺に登り、海︀子に臨み、「二十八日、泊窩里朶 之東。宣使往奏稟皇后、奉旨請師渡河。其水東北流。」玻塔紉は、長松嶺を康該 山の東の枝なる溫都︀兒 沙納(高き松)山に當て、石河を薛連噶 河の南の潀水なる赤羅禿(石ある)河に當て、高嶺の下なる海︀子を赤羅禿 河の流れ出づる察罕 諾兒(白き湖)に當て、

​額帖兒​​エテル​ 河の​邊​​ホトリ​なる​乃蠻​​ナイマン​の​斡兒朶​​オルド​

乃蠻の斡兒朶を薛連噶 河の一源なる額帖兒 河の邊に置けり。次に「七月九日、同宣使西南行五六日云云。又三二日歷一山、高峰如削、松杉鬱茂、而有海︀子。南出大峽、則一水西流。」玻塔紉 曰く「尖れる峰は、烏里雅蘇台の東なる康該の雪峰の一なる斡惕桓 孩兒罕 山なり。それの麓、孛固丁 河の源に一の湖あり。峽より出でたる後、西に流るゝ河は、烏里雅蘇台 河なり」と云へり。長春は、それより西南に行き、沙場を過ぎ、又 五六日 嶺を踰えて南し、田 鎭海︀の城の北を過ぎ、二十六日、阿不罕 山の北に鎭海︀ 來謁︀し、八月八日、大山に傍ひて西に行き、

​阿勒台​​アルタイ​の東南幹山

又「西南約行三日、復東南過大山、經大峽。中秋日、抵金山東北少駐、復南行。其山高大、深谷長坂、車不行。三太子出軍、始闢其路。約行四程、連度五嶺、南出山前、臨河止泊。從官連幕爲營、因水草便、以待鋪牛驛騎、數日乃行、渡河而南。」卜咧惕施乃迭兒 曰く「長春の過ぎたる山口にて大軍の過ぐる爲に路の聞かれたるを見れば、長春は、成吉思 汗 耶律 楚材と同じ路を行きたることうつなし。荅必思騰 荅班の山口は、阿勒台 山脈を越ゆ