Page:成吉思汗実録.pdf/279

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東京拔、卽引去、夜馳還、襲克之」と云ひ、吾也而の傳には、逸︀早くも太祖︀ 五年に「吾也而 與折不 那演、克金東京功」と云ひ、年月は合はざれども、その東京としたるは、いづれも親征錄に本づきたるなり。

東京を攻むる暇なき​者︀別​​ヂエベ​

然れども東京を取れる人は、實は者︀別に非ず。耶律 阿海︀の傳に、者︀別の先鋒となりて、烏沙堡 宣平 澮河の戰より「拔宣德德興諸︀郡、乘勝次北口、攻下紫荆關」まで、阿海︀は常に者︀別と共に働きたる由 見ゆれば、者︀別は常に大軍に先だちて轉戰したるなり。者︀別は、いかに戰馬の如く駿速なりとも、何の暇ありてか北京路を踰えて徑に東京を攻めらるべき。

遼東を經略せる按陳

耶律 畱哥の傳に「歲壬申(太祖︀ 七年)太祖︀命按陳 那衍軍至遼東。畱哥 率所部之、共破金軍。帝召按陳還、而以可特哥畱哥其地。癸酉(八年)春、眾推畱哥遼王、云云」とあれば、始めて遼東を經略したる者︀は、阿勒赤 那顏と可特哥とにして、者︀別は與らず。八年 甲戌に至り、

東京を取れる​木華黎​​ムホアリ​

木華黎は命を受けて、諸︀軍を統べて遼東を征し、九年 乙亥に裨將 蕭 也先は計を以て東京を平定したること、木華黎の傳に見え、蕭 也先 卽 石抹 也先の傳にも、木華黎に從ひて先鋒となり、奇計を用ひて東京を降したることを委しく叙べたれば、東京を取れる者︀は、木華黎 也先にして、者︀別に非ず。然らば者︀別の取れるは、東昌にも非ず、東京にも非ず、いづこなりけん。

東勝の奇功

太祖︀ 六年に取れる西京路 諸︀州の內に東勝州あり、その地は、金の西京 今の山西 大同府の西北に在りき。者︀別の奇功を立てたるは、疑はくはその地ならん。蓋 祕史の原本には東勝とありしを、明人は誤りて東昌と音譯して、元の初に東昌なきことに心附かざりしなり。修正 祕史は誤りて東京とし、親征錄 集史 元史みなそれに依りて、いづれも東京を取れるは者︀別に非ざることに心附かざりしなり。


§248(11:04:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


完顏 承暉の請和の建議

 ​者︀別​​ヂエベ​は、​東昌​​トウシヤウ​の​城​​シロ​を​取​​ト​りて​回​​カヘ​りて​來​​キ​て、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​合​​ア​へり。(親征錄に據れば、者︀別の奇功を立てたるは、太祖︀ 六年 西京路の諸︀州を取れる時なれば、回りて太祖︀に合へるは、西京路の或地にて合へるなり。)​中都︀​​チウト​を​攻​​セ​められて、​阿勒壇 罕​​アルタン カン​の​大官人​​ダイクワンニン​ ​王京 丞相​​ワンキン シヨウジヤウ​、(この阿勒壇 罕は、金の宣宗なり。太祖︀ 八年 癸酉の八月、金帝(衞の紹王)永濟は、紇石烈 執中に弑せられ、章宗の庶兄 豐王 珣 立てられたり。これを宣宗と云ふ。王京は、完顏の轉なり。王京 丞相は、親征錄 元史に丞相 完顏 福︀興とあり、金史に完顏 承暉として傳あり。承暉、本の名は福︀興にして、この時 平章政事 兼 都︀元帥となり、尋で右丞相に進みたり。)​阿勒壇 罕​​アルタン カン​に​建議​​ケンギ​しけらく「​天地​​アマツカミクニツカミ​の​命​​ミコト​ある​時​​トキ​、​大位​​タカミクラ​の​代​​カハ​る​時​​トキ​ ​至​​イタ​れり。​忙豁勒​​モンゴル​ ​甚​​ハナハダ​ ​力​​チカラ​あり、​來​​キ​て​我等​​ワレラ​の​雄雄​​ヲヲ​しく​猛​​タケ​き​合喇 乞塔惕​​カラ キタト​〈[#「合喇 乞塔惕」は底本では「合喇乞塔惕」。前述、巻の一§53の割り注に倣い修正。以後すべて同じ]〉 ​主兒扯惕​​ヂユルチエト​ ​主因​​ヂユイン​の​緊要​​キンエウ​なる​軍​​イクサ​を​敗​​ヤブ​りて、​盡​​ツ​くるまで​殺︀​​コロ​しけり。​賴​​タノミ​ある​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​をも​奪​​ウバ​ひて​取​​ト​りけり。​今​​イマ​ ​我等​​ワレラ​ ​再​​フタヽビ​ ​軍​​イクサ​を​整​​トヽノ​へて​出​​イダ​さば、​再​​フタヽビ​ ​忙豁勒​​モンゴル​に​敗​​ヤブ​られ