西南過㆓板橋㆒渡㆑河、晩至㆓南山(阿列克散迭兒 山脈)下㆒、卽 大石 林牙。其國王、遼後也云云。」板橋にて渡れる河は卽 吹 沒輦、今の楚河にして、合喇 乞塔惕の都︀は、楚河と阿列克散迭兒 山脈との間にありしなり。
錄に「又西數百里、有㆓塔剌思 城㆒。」記に「十有八日、沿㆑山而西七八日、山忽南去。一石城當㆑途、石色盡赤、有㆓駐㆑軍古跡㆒。西有㆓大塚︀㆒、若㆓斗星相聯㆒。又渡㆓石橋㆒、竝㆓西南山㆒、行五程、至㆓塞藍城㆒。」記を書ける人、伊犂 河を荅剌速 沒輦と誤りたる故に、こゝには塔剌思 河の名を擧げず。然れども渡れる石橋は、塔剌思 河の橋なるべし。卜咧惕施乃迭兒 曰く「長春は、今の庫勒札に近き阿勒馬里克を發したる後、伊犂 河を庫勒札より遠からぬ所にて渡りたりと見ゆ。それより蓋 今の威兒尼のある所に進みたり。阿剌套 連山に沿ひ 西に行き、蓋 舊き驛路に由り、喀思帖克 山口にて、連山を越えたり。(原注、威兒尼より塔什肯篤に車の通らるゝ新しき驛路は、北に廻り路して、闢什珀克にて舊路に合ふ。)楚河をば必ず今の脫克馬克にて渡り、阿列克散迭兒 山脈の麓に達したるならん。それより今 驛路あるこの山脈の麓を西に行き、塔剌思 河に到り、今の奧列 阿塔の邊にて河を渡りき、賽喇姆 城は、沁肯惕の東 十三 英里に今も猶あり。奧列 阿塔より塔什肯篤に至る驛路は、賽喇姆に近く通るなり。」錄に「又西南四百餘里、有㆓苦盞 城 八普 城 可傘 城 芭欖 城㆒。苦蓋 西北五百里、有㆓訛打剌 城㆒。」苦蓋は、失兒 荅哩牙の南岸なる闊氈篤なり。八普は、地理志に巴補と書き、經世 大典の圖は柯散の南に置けり。嚕西亞の地圖に、納曼干の西 失兒 荅哩牙の北に帕魄とあるは、それなり。可傘は、地理志の柯散、曷思麥里の傳の可散にして、納曼干の西北 三十 嚕里、喀散 小河の傍にあり。
芭欖 城は、速勒壇 巴別兒の記錄に見えたる康底 巴擔にして、闊氈篤の東にありき。康底は城邑、巴擔は、巴旦杏にして、巴旦杏の名高き所なり。この果は支那に無かりし故に、珀兒沙 語をその儘に用ひたり。本草 綱目には巴旦杏と書き、本草 正要には八擔 杏と書けり。錄に「芭欖 城邊、皆 芭欖 園、故以名。其花如㆑杏而微淡、葉如㆑桃而差小、冬季而花、夏盛而實」と云ひ、記にも「正月杷欖始華、類︀㆓小桃㆒。俟㆑秋、採㆓其實㆒食之、味如㆓胡桃㆒」と云へり。芭欖も把欖も、巴擔を聞き誤りたるなるべし。嚕西亞の地圖に、浩罕篤と闊氈篤との間に康亦 巴擔と云ふ所あるは、卽 その地なり。訛打剌は、名高き斡惕喇兒なり。後に言ふべし。記に十一月 五日 塞藍にて病死したる門人 趙九古を葬り、「卽行㆓西南㆒、復三日至㆓一城㆒。明日又歷㆓一城㆒、復行二日有㆑河、是爲㆓霍闡 沒輦㆒。由㆓浮橋㆒渡。」
霍闡 沒輦は、中世の阿喇必亞 地理家の昔渾 河、今の失兒 荅哩牙なり。常德の西使記に忽牽 河、元史 郭賣玉の傳に忽章 河、明史の西域 傳に火站 河と云ひ、赫兒別羅惕は「阿喇必亞 人は、昔渾 河を通俗には「納哈兒 闊展篤」闊展篤の河と呼びたり」と云ひ、速勤壇 巴別兒も、この河をしか呼べりと云ふ。卜咧惕施乃迭兒 曰く「長春の歷たる二城の一は、沙什 卽 塔什肯篤なるべし。失兒 荅哩牙を渡れる所は、蓋 撒馬兒罕に至る驛路の通る赤納思なりけん。」蒙古の軍は、斡惕喇兒 指して西に進みたりしに、長春は、賽喇姆より直に西南に行きたれば、賽喇姆 以往の行程は、大軍と同じからざりき。)
者︀別ヂエベを先鋒センパウに遣ヤりぬ。者︀別ヂエベの後援ゴヱンに速別額台スベエタイを遣ヤりぬ。速別額台スベエタイの後援ゴヱンに脫忽察兒トクチヤルを遣ヤりぬ。(脫忽察兒は、多遜の史に脫噶察兒とありて、太祖︀の壻なりと云へり。元史 世系表なる鐵木哥 斡赤斤の孫 塔察兒 國王を集史に脫噶察兒と云へるに依れば、この脫噶察兒は、博爾忽