Page:成吉思汗実録.pdf/299

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る峠の內にて困難︀ 少き所なれば、長春 等はその山口を過ぎたるならん。然れども又 上文の水草の便と河を渡るとの二語に據れば、兀闌 荅班を越えて不勒昆 河(兀侖古 河の上流)に下れりとも考へらる。」これより長春は、直に南に進み、白骨甸を度り、沙陀を過ぎ、委兀兒の國に向ひたれども、西征の軍は、金山を越えたる後、馬力を養はんが爲に、西に轉じて合喇 額兒的失 河に一夏を過したりき。合喇 額兒的失 河の谷とその潀水なる克㘓 河の谷とは、今も善き牧場として名高しと云ふ。西游錄に「道過金山云云。金山而西、水皆西流入海︀」とあるは、兀侖古 河の乞失勤巴什 湖に入り、合喇 額兒的失 河の齋桑 湖に入るの類︀を云ふ。

​必什巴里克​​ビシユバリク​

次に「其南有回鶻 城、名別石把云云。城西二百里、有輪臺縣。」西游記に「八月二十七日、抵陰山(天山)後。翌日、沿川西行、歷二小城。西卽 鼈思馬 大城云云「此大唐時北庭端府。」其西三百餘里、有縣曰輪臺。九月二日、西行。四日、宿輪臺之東。又歷二城、重九日至回紇 昌八剌 城。」記の鼈思馬は、卽 錄の別石把、元史の別失八里、喇失惕の必什巴里克にて、委兀兒の都︀なり。克剌普囉惕は、必什巴里克を今の烏嚕木齊に當てて、洪鈞もそれに從ひたれども、かくては昌八剌に接近して、輪臺を置くべき所なし。徐松 曰く「唐北庭大都︀護府治、在今 濟木薩 之北。端、卽都︀護字之合音。輪臺縣治、約在阜康縣西五六十里」と云へる、從ふべし。昌八剌は、元史 地理志に彰八里、耶律 希亮の傳に昌八里と書けり。程同文 曰く「中統 元年、阿里不哥 反、希亮踰天山、至北庭都︀護府、二年、至昌八里 城、夏、踰馬納思 河、則 昌八里 在今 瑪納斯 河之東也。」錄に「瀚海︀去(別石把)城數百里。過瀚海︀千餘里、有不剌 城。不剌南有陰山。山頂有池、周圍七八十里。出陰山、有阿里馬 城。」

​賽喇姆 諾兒​​サイラム ノル​

記に「翌日(九月十日)、竝陰山而西、約十程。又度沙場五日、宿陰山北。詰朝南行、長坂七八十里、抵暮乃宿。晨起、西南行約二十里、忽有大池、方圓幾二百里。師名之曰天池。沿池正南下、左右峯巒峭拔。眾流入峽、奔騰洶湧、曲折彎環、可六七十里。二太子扈從西征、始鑿石理道、刋木爲四十八橋、橋可車。薄暮宿峽中、翌日方出、入東西大川。次及一程、九月二十七日、至阿里馬 城。」錄の瀚海︀は、卽 記の沙場なり。徐松 曰く「晶河城東、至托多克積沙成山、浮澀難︀行。東距阜康縣、一千一百里、故云十餘程。」不剌は、地理志に普剌、耶律 希亮の傳に布拉と書き、喇失惕は普剌惕と云へり。洪鈞 曰く「今城已廢。當博羅塔拉 河左近、南臨賽喇木 淖爾。」徐松 曰く「自托多克晶河、山行五百五十里、至賽喇木 淖爾 東岸。淖爾 正圓、周百餘里、雪山環之、所謂天池海︀。竝淖爾南行五十里、入塔勤奇 山峡、諺曰果子溝。溝水南流、勢甚湍急。架木橋、以度車馬。峽長 六十里、爲四十二橋、卽 四十八橋遺趾。」記の東西大川は、伊犂 河の谷を云へるなり。

​阿勒馬里克​​アルマリク​

〈[#「阿勒馬里克」は底本では「阿勤馬里克」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉阿里馬 城は、元史の阿力麻里、珀兒沙 人の阿勒馬里克なり。嚕西亞の薛篾諾甫は「阿勒馬里克は、庫勒札の西北 四十 嚕里 伊犂 河の谷にありき」と云ひ、嚕西亞の庫勒札 領事たりし敎授 咱合囉甫は「綏定より七 嚕里の所に古城の大なる廢墟あることを聞き知れり」と云ひき。又 錄に「又 西有大河伊列」とあるは、卽 伊犂 河なるを、記には「又西行四日、至荅剌速 沒輦、水勢深闊、抵西北流。十月二日、乘舟以濟」とあり。塔剌思 河は、伊犂 河より遙に西にあり、記を書きたる人ふと誤りたるなれば、これは伊犂 河として見るべし。長春の歸路に、癸未 三月 二十三日、吹 沒輦の南岸に至り、「又十日、至阿里馬 城西百餘里、濟大河」とある大河は、この伊犂 河なり。

西遼の故都︀

錄に「其西有城、曰虎司 窩魯朶、卽 西遼之都︀。附庸城數十。」記に「十月二日、乘舟以濟、南下至一大山(阿剌套 嶺か)又西行五日云云。西行七日、度西南一山(喀思帖克 山口か)。明日至回紇 小城。十有六日、