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Page:成吉思汗実録.pdf/276

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宣德府、至德興府、失利引卻。四太子 也可 那顏、赤渠 駙馬率兵、盡克德興境內諸︀堡而還。後金人復收之。癸酉(太祖︀ 八年)秋、上復破之」とあり。宣德府は、金の西京路 宣德州にして、元の初 陞せて宣寧府とし、世祖︀の時 宣德府と改めて上都︀路に隸せり。今の直隷 宣化府なり。太祖︀のそれを破れるは未府とならざりし時なれば、府と云ふべき筈なし。喇失惕の史に宣德州と云へるを見れば、修正 祕史には州とありけんを、親征錄の撰者︀は、當時の稱に依り府と書けるなり。この祕史の原本にも必ず州とありしならめど、明の譯人は、宣德府の名を聞き慣れ居たるに由り、ふと音譯を誤りたるならん。德興府は、遼の奉聖州にして、金の時 德興府と改め、西京路に隸し、元の世祖︀の時 復 奉聖州とし、宣德府に隸せり。今の直隷 保安州なり。四太子は、第四の皇子 拖雷、也可 那顏は、大官人の義にして、拖雷の號なり。赤渠 駙馬は、卷八の赤古古咧堅なり。

​者︀別​​ヂエベ​ ​古亦古捏克​​グイグネク​の先鋒

​者︀別​​ヂエベ​、​古亦古捏克 巴阿禿兒​​グイグネク バアトル​ ​二人​​フタリ​を​先鋒​​センポウ​に​遣​​ヤ​りたり。(この戰に者︀別の大に働きたる旁證としては、元史 耶律 阿海︀の傳に「敕左師 闍別、略地漠南、阿海︀ 爲先鋒。辛未、破烏沙 堡、鏖戰宣平、大㨗澮河、遂出居庸、耀兵燕北云云」とあり。古亦古揑克は、何人とも知れず。親征錄 壬辰(太宗 四年)の處に貴由 拔都︀とある人ならんか。もし然らば、元史 列傳に「月魯帖木兒、卜領勤 多禮伯臺 氏。曾祖︀ 貴裕、事太祖︀、爲管領 怯憐口 怯薛 官」とある貴裕も、その人なるべし。多禮伯臺は、朶兒別惕にして、卜領勤は、朶兒別惕の分部の名なり。)​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​に​到​​イタ​りて、(漢︀名 居庸關、今の順天府 昌平州の西北、直隷 宣化府 延慶州の東南にあり。

​居庸關​​キヨヨウクワン​の​禦​​フセ​ぎ

​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​の​峠​​タウゲ​を​禦​​フセ​がれて、(昌平州の西北 二十四 淸里に居庸の南口あり、南口より十五 淸里 上れる所に關城あり、又 八 淸里に上關あり、上關より十七 淸里に延慶州の八達 嶺あり、嶺の上に城あり、元人はそれを居庸の北口と云へり。卽 察卜赤牙勒の峠なり。昌平 山水記に「自八達 嶺、下視︀居庸關、若瓶、若井。昔人謂、居庸之險、不關城、在八達 嶺也」と云へり。金人 守禦の事は、親征錄に「時金人塹山築壁、悉力爲備、」札八兒 火者︀の傳に「金人恃居庸之險、冶鐵鋼關門、布鐵蒺藜百餘里、守以精︀銳」とあり。

縉山の戰

そこに​者︀別​​ヂエベ​ ​言​​イハ​く「​彼等​​カレラ​を​誘​​イザナ​ひて​動​​ウゴ​かして​來​​コ​させんとそこに​試​​コヽロ​みん」と​云​​イ​ひて​回​​カヘ​りぬ。​回​​カヘ​られて、​乞塔惕​​キタト​の​軍士​​イクサビト​ども​追​​オ​はんとて、​河​​カハ​ ​山​​ヤマ​に​滿​​ミ​つるまで​追​​オ​ひて​來​​キ​ぬ。​宣德府​​セントクフ​の​觜​​クチバシ​(山の鼻)に​至​​イタ​りて、​者︀別​​ヂエベ​ ​後向​​ウシロム​き​飜​​カヘ​れり。​奮​​フル​ひて​衝​​ツ​きて、​續​​ツヾ​きて​來​​ク​る​敵​​テキ​を​敗​​ヤブ​れり。​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​中軍​​チウグン​ ​續​​ツヾ​きて、​乞塔惕​​キタト​を​動​​ウゴ​かして、​合喇 乞荅惕​​カラ キダト​(契丹 卽 合喇 乞丹の複稱)、​主兒扯惕​​ヂユルチエト​(女眞 卽 主兒臣の複稱)、​主因​​ヂユイン​(卷一に見えたる種族)の​雄雄​​ヲヲ​しく​猛​​タケ​き​軍​​イクサ​を​敗​​ヤブ​りて、​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​