成吉思 汗 實錄チンギス カン ジツロク 卷マキの十一ジフイチ。(明譯本の原の名は元朝 秘史 續集 卷一。次の卷も、これに準ふ。)
元 太宗十二年ゲンノ タイソウジフニネン、漠北文臣バクホクノブンシン 無名氏ムメイシ、以モテ㆓蒙古文モウコブン委兀字ウイウモジヲ㆒續撰ゾクセンス。
明 洪武十五年ミンノ コウブジフゴネン、翰待講カンリンジコウ火原潔クワゲンケツ等ラ、漢︀字カンジニテ 音譯オンヤクシ 俗語ゾクゴニテ 旁譯ハウヤクス。
日本明治三十九年ニツポンメイジサンジフクネン、盛岡モリオカノ那珂通世ナカミチヨ、以モテ㆓和文ワブンヲ㆒直譯チヨクヤクシ 附フス㆓校注カウチウヲ㆒。
§247(11:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
その後ノチ 成吉思 合罕チンギス カガンは、羊ヒツジの年トシ(我が順德 天皇 建曆 元年 辛未、宋の寧宗 嘉定 四年、金帝(衞の紹王)永濟 大安 三年、元の太祖︀ 六年、西紀 一二一一年、太祖︀ 五十歲の時なり。)乞塔惕キタトの民タミの處トコロに出征シユツセイせり。撫州ブシウを取トりて、(
撫州は、金の西京路の一州にして、張家口の外、今の鑲黃旗 等 四旗の牧廠の西南 二十 淸里にありき。金國 征伐の始まりの事は、元史 太祖︀紀に元年 丙寅「帝始議㆑伐㆑金。初金殺︀㆓帝宗親 咸補海︀ 罕㆒、帝欲㆑復㆑讎。會金降俘等、具言㆔金主璟肆行㆓暴虐㆒、帝乃定㆑議致㆑討、然未㆓敢輕動㆒也。」木華黎の傳に「金之降者︀、皆言㆘其主璟殺︀㆓戮宗親㆒、荒淫日恣㆖。帝曰「朕出㆑師有㆑名矣。」」又 太祖︀紀に「五年庚午春、金謀㆓來伐㆒、築㆓烏沙 堡㆒。帝遣㆓遮別㆒襲㆓殺︀其眾㆒、遂略㆑地而東。初帝貢㆓歲幣于金㆒、金主使㆔衞王允濟受㆓貢於靜州㆒。帝見㆓允濟㆒、不㆑爲㆑禮。允濟歸、欲㆓請㆑兵攻㆒㆑之。會金主璟殂、允濟嗣㆑位、有㆑詔至㆑國、傳言㆑當㆓拜受㆒。帝問㆓金使㆒曰「新君爲㆑誰。」金使曰「衞王也」帝遽南面睡曰「我謂㆓中原