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Page:成吉思汗実録.pdf/258

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​聞​​キ​きて​甚​​ハナハダ​ ​歡​​ヨロコ​べり。

金帶之星裝 袞衣之餘縷

​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​恩賜​​オンシ​せば、​金​​コガネ​​阿勒壇​の​帶​​オビ​​不薛​の​締金​​シメガネ​​豁兒吉​より​大紅衣​​アケノオホミゾ​​阿勒迭額勒​の​帛片​​キヌギレ​​忽兒帖孫​より​得​​エ​ば(分與せられば)、​爾​​ナガミコト​の​第五​​ダイゴ​の​子​​コ​となりて​力​​チカラ​を​與​​アタ​へん」と​奏​​マウ​して​遣​​ヤ​りき。(親征錄は、この辭を二章に分けて、辭句を增し加へ、前章は、亦都︀護の始めて二使を遣りたる時の辭とし、後章は太祖︀ 六年に亦都︀護の入朝したる時の辭とせり。その前章は「臣國聞皇帝威名、故棄契丹舊好、方將使來通誠意、躬自效順。豈料遠辱天使、降臨下國。譬雲開見日、冰泮得水、喜不勝矣。而今而後、盡率部眾、爲僕爲子、竭犬馬之勞也」と云ひ、その後章は「陛下若恩賜臣、使遠者︀悉聞、近者︀悉見、綴袞衣之餘縷、摘金帶之星裝、誠願在陛下四子之亞、竭其力也」と云へり。喇失暢も、殆ど之に同じ。

​亦都︀兀惕​​イドウト​の來朝 貢獻

その​言​​コトバ​につき、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​恩賜​​オンシ​して​答​​コタ​へ​宣​​ノリタマ​ひて​遣​​ヤ​るには「​女​​ムスメ​をも​與​​アタ​へん。​第五​​ダイゴ​の​子​​コ​となれ。​金​​コガネ​ ​銀​​シロカネ​ ​眞珠​​シラタマ​ ​東珠​​オホタマ​ ​金襴​​キンラン​ ​總金襴​​ソウキンラン​ ​段匹​​オリモノ​を​持​​モ​ちて​亦都︀兀惕​​イドウト​ ​來​​コ​よ」と​宣​​ノリタマ​ひて​遣​​ヤ​れば​亦都︀兀惕​​イドウト​は、​恩賜​​オンシ​せられたりとて​喜​​ヨロコ​びて、​金​​コガネ​ ​銀​​シロカネ​ ​眞珠​​シラタマ​ ​東珠​​オホタマ​ ​段匹​​オリモノ​ ​金襴​​キンラン​ ​總金襴​​ソウキンラン​ ​緞子​​ドンス​を​持​​モ​ちて、​亦都︀兀惕​​イドウト​〈[#「亦都︀兀惕」は底本では「都︀兀兀惕」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉 ​來​​キ​て、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​見​​マミ​えたり。(〈[#底本では直前の「開き括弧」なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉親征錄は、「寶を持ち來よ」と太祖︀ 云へりとは云はず、太祖︀の使 二たび往きたる時、亦都︀護の使 復 至りて珍寶 方物を奉れりとあり。かくてそれより二年を歷て、辛未(太祖︀ 六年)の春、哈剌魯 部 主 阿昔蘭 可汗の來朝と同じ時に、亦都︀護 來朝して、彼の袞衣 金帶の辭を陳べたれば、「上說其言、使公主、仍序第五」とあり。)​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、

​阿勒 阿勒屯​​アル アルトン​の下嫁

​亦都︀兀惕​​イドウト​に​恩賜​​オンシ​して​阿勒 阿勒屯​​アル アルトン​を​與​​アタ​へたり。(元史 巴而朮 阿而忒の傳は、全く親征錄に本づきたれども、巳の年の使者︀の辭より「雲開見日、冰泮得水」の語を略き、また「辛未、朝帝亍 怯綠連 河、奏曰「陛下若恩顧臣、使臣得陛下四子之末、庶幾竭其犬馬之力。」帝感其言、使公主 也立 安敦、且得於諸︀子」とありて、袞衣 金帶の語を略きたれば、亦都︀兀惕の辭命として祕史に載せられたる面白き韻文は、骨拔泥鰌となれり。公主表 高昌 公主 位の處に「也立 可敦 公主、太祖︀ 女、適亦都︀護 巴而述 阿兒忒 的斤」とあり。可敦は、安敦の誤、也立 安敦は、卽ち阿勒 阿勒屯なり。喇失惕は、正后の出にあらずと云へり。


§239(10:14:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​拙赤​​ヂユチ​の北征

 ​兔​​ウサギ​の​年​​トシ​(我が土御門 天皇 承元 元年 丁卯、宋の開禧 三年、金の泰和 七年、元の太祖︀ 二年、西紀 一二〇七年、太祖︀ 四十六歲の時)、​拙赤​​ヂユチ​を​右​​ミギ​の​手​​テ​の​軍​​イクサ​にて​林​​ハヤシ​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​に​出征​​シユツセイ​せしめたり。​不合​​ブカ​