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Page:成吉思汗実録.pdf/257

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哲伯 令曷思麥里、持曲出律 首、往徇其地。若可失哈兒 押兒牽 斡端 諸︀城、皆臨風降附」とあり。谷則 斡兒朶は、大城の義にして、垂河(今の楚河)の濱に在りし西遼の都︀なり。遼史 天祚紀に虎思 斡耳朶、金史 粘割 韓奴の傳に骨斯 訛魯朶、耶律 楚材の西游錄に虎司 窩魯朶と書けり。或は古思を略きて斡兒朶とのみも云へり。元好問の大丞相 劉氏 先瑩の碑、元史 郭寶玉の傳に、訛夷朶とあるは、兒を夷と誤りたるなり。闊兒罕は、祕史 卷五の古兒 罕、親征錄の菊律 可汗なり。遼史に記せる如く、大石 林牙 卽位して葛兒罕と號してより、子孫みなその號を襲ぎたるなり。可散は、西游錄に可傘と書き、經世 大典の圖には柯散と書きて、察赤(今の塔什干)の東南に在り。露西亞の地圖には、塔什干の東南に今も喀散 城あり。曷思麥里は、者︀別に降れるにて、この時 太祖︀は未だ親征せざれば、傳に太祖︀ 西征とあるは誤れり。可失哈兒は今の喀什噶爾、押兒牽は今の葉爾羌、斡端は今の和闐なり。


§238(10:12:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​委兀惕​​ウイウト​ 降附の使

 ​委兀惕​​ウイウト​の​亦都︀兀惕​​イドウト​は、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​使​​ツカヒ​を​遣​​ヤ​りき。(この事は、親征錄 集史 元史、みな祕史より委し。親征錄にまづ「己巳(太祖︀ 四年)春、畏吾兒 國主 亦都︀護、聞上威名、遂殺︀契丹 主所置監國 沙監」とあり。亦都︀護は、卽ち亦都︀兀惕、委兀惕の王號にして、集史には亦的庫惕と云へり。この亦都︀兀惕の名は、巴而朮 阿而忒 的斤と云ひ、元史に傳あり。哈剌亦 哈赤北魯の傳には、八兒出 阿兒忒 亦都︀護とあり。契丹は、合喇 乞塔惕、卽ち西遼にして、岳璘 帖穆爾の傳には西契丹とあり。西遼の畏兀を威制したること、畏兀の叛きてその監國を殺︀したる事情は、哈剌亦 哈赤北魯、岳璘 帖穆爾 二人の傳に見ゆ。

親征錄なる​亦都︀護​​イドゴ​ 降附の始末

さて親征錄に、監國を殺︀したる處へ、太祖︀の使 二人 至りたれば、亦都︀護 喜びて、使 二人を遣り降附の意を奏さしめき。この時 蔑里乞の脫脫より使 至りたるを、亦都︀護はその使を殺︀し、又 脫脫の子 四人は、父を失ひ、也兒的石 河を渉りて至りたるを嶄河にて禦ぎ戰へり。この戰は、祕史 卷八の初にある不黑都︀兒麻の戰に續きて、額兒的失 河にて多數 溺れてより西に奔るまでの間にありし事なり。嶄河は、巴兒朮の傳に襜河とあり、古の昌八里に傍ひて流るゝ昌河、卽ち今の昌吉 河にして、委兀惕の都︀城の西にあり。太祖︀ 十二年 丁丑に速不台の戰へる薪河、速不台の傳に蟾河とあるものとは、名 同じくして實は異なり。この戰の後、亦都︀護は使 四人を遣り蔑里乞の事を吿げたれば、太祖︀は又 前の使 二人を遣り、亦都︀護は復使を遣り珍寶 方物を奉れりとあり。これらの事を皆 太祖︀ 四年の事とせり。)​阿惕乞喇黑​​アトキラク​(親征錄に乞力吉思の二使の一人を阿忒黑剌と云ひ、喇失傷も乞兒吉思の二使の一人を阿惕黑剌黑と云へば、修正 祕史は、委兀惕の使を乞兒吉思の使と改めたるに似たり。)​荅兒伯​​ダルベ​(喇失惕は、太祖︀の二使の一人を迭兒拜と云へり。親征錄 初に荅拜とあるは、兒の字を落せるなり。後に荅兒班とあるは、拜を班と誤れるなり。これも委兀惕の使を太祖︀の使に混らしたるなり。)​二人​​フタリ​を​使​​ツカヒ​とし​奏​​マウ​して​遣​​ヤ​るには

譬 雲開見日 冰泮得水

「​雲​​クモ​​額兀速​ ​霽​​ハ​れて​母​​ハヽ​​額客​なる​日​​ヒ​(母の如き太陽)を​見​​ミ​たるが​如​​ゴト​く、​冰​​コホリ​​抹勒孫​ ​解​​ト​けて​河​​カハ​​木嗹​の​水​​ミヅ​を​得​​エ​たるが​如​​ゴト​く、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​名​​ナ​と​聲​​コヱ​とを