Page:成吉思汗実録.pdf/259

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は、​嚮導​​ミチビキ​して​往​​ユ​きたり。(親征錄には、この年「遣案彈 不兀剌 二人、使乞力吉思 部」とありて、拙赤 北征の事なし。拙赤 北征の事は、この年より十一年後なる戊寅の年(太祖︀ 十三年)、哲別の曲出律を滅したる次に記し、「先 吐麻 部 叛、上遣徵兵 乞兒乞思 部、不從亦叛去、遂先命大太子往討之、以不花前鋒」とあり。集史もほゞ同じ。不花は卽ち不合、八十八 功臣の中なる不合 駙馬なり。

​忽都︀合 別乞​​クドカ ベキ​の降附

​斡亦喇惕​​オイラト​の​忽都︀合 別乞​​クドカ ベキ​(前に十一部の亂に加はりたる人)は、​禿綿​​トメン​(萬の)​斡亦喇惕​​オイラト​の​前​​マヘ​に​降​​クダ​り​入​​イ​りて​來​​キ​ぬ。​來​​キ​て​拙赤​​ヂユチ​を​引​​ヒ​きて、​禿綿 斡亦喇惕​​トメン オイラト​の​處​​トコロ​に​導​​ミチビ​きて、​失黑失惕​​シクシト​に​入​​イ​らしめたり。(親征錄には、丁卯の年、乞力吉思 部 降附し、その翌年 戊辰の冬、二たび脫脫 曲出律を征する時「斡亦剌 部 長 忽都︀花 別吉 等、遇我 前鋒、不戰而降。因用爲鄕導、至也兒的石 河云云」とありて、拙赤に降れる忽都︀合を脫黑脫阿 征伐の軍に降れりとせり。喇失惕も同じ。洪鈞の朮赤 補傳の自注に曰く「本紀、斡亦剌 之降在三年、而 乞力吉思 之附在二年。考之西圖、應祕史。先定斡亦剌、由東而西、軍程乃合」と云へり。)​拙赤​​ヂユチ​は、

​斡亦喇惕​​オイラト​ ​不哩牙惕​​ブリヤト​ 諸︀部の降附

​斡亦喇惕​​オイラト​ ​不哩牙惕​​ブリヤト​ ​巴兒渾​​バルクン​ ​兀兒速惕​​ウルスト​ ​合卜合納思​​カブカナス​ ​康合思​​カンカス​ ​禿巴思​​トバス​を​降​​クダ​して、(喇失惕の書に「客姆 河の上流に八河ありて、斡亦喇惕は、その左に居り、その近き東に兀喇速惕 帖連郭惕 客思的米なる林の民は、拜喀勒 湖の西に居りて、斡亦喇惕 乞兒吉思と鄰り合へり、」また「拜喀勒 湖の東に庫哩 禿剌思 不哩牙惕 禿馬惕 四部あり、都︀て巴兒古惕と云ふ」と云へり。巴兒渾は、卽ち巴兒古惕にて、卷一にその部の人 巴兒忽歹 篾兒干あり。太祖︀紀に八剌忽とあるも、巴兒古惕なり。喇失惕は、四部の總名とすれども、こゝに不哩牙惕と並べ擧げたれば、一部の名にも用ひたるなり。兀兒速惕は、卽ち兀喇速惕なり。合卜合納思は、元史 類︀編なる朮赤の傳に大方 通鑑を引きて憾哈納思とあり。親征錄に憾哈思とあるは、納の字を脫せるなり。元史 地理志には撼合納、劉 哈剌 拔都︀魯の傳には憨哈納思と書けり。その地の事は、元史 譯文 證補の地理志 西北地 附錄 釋地の下に詳なり。康合思 禿巴思は、知らず。

​乞兒吉速惕​​キルギスト​の降附

​禿綿 乞兒吉速惕​​トメン キルギスト​の​處​​トコロ​に​到​​イタ​れば、(乞兒吉速惕は、乞兒吉思の複稱なり。多遜 曰く「乞兒吉思の住める地は甚 廣く、安噶喇 河の西、阿勒台 山の北の東よりに居り、乃蠻はその南東にあり、客姆 河、客姆 客姆主惕は、その境內にあり。俗は遊牧なれども、城郭もあり」と云へり。)​乞兒吉速惕​​キルギスト​の​官人​​クワンニン​ ​也迪 亦納勒​​エデ イナル​、​阿勒迪額兒​​アルデエル​、​斡列別克 的斤​​オレベク チギン​なる​乞兒吉速惕​​キルギスト​の​官人​​クワンニン​ども​降​​クダ​り​入​​イ​りて、​白​​シロ​き​海︀靑​​カイセイ​ども​白​​シロ​き​騸馬​​センバ​ども​黑​​クロ​き​貂鼠​​テウソ​どもを​持​​モ​ち​來​​キ​て、​拙赤​​ヂユチ​に​見​​マミ​えたり。(〈[#底本では直前の「開き括弧」なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉親征錄には「遣案彈 不兀剌 二人、使乞力吉思 部。其長 斡羅思 亦難︀ 及 阿忒里剌 二人、偕我使來、獻白 海︀靑、名鷹也」太祖︀紀には「野牒 亦納里 部、阿里替也兒 部、皆遣