Page:成吉思汗実録.pdf/255

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ざりきとて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​阿兒思闌​​アルスラン​を​恩賞​​オンシヤウ​して、「​女​​ムスメ​を​與​​アタ​へん」と​勅​​ミコト​ありき。(合兒魯兀惕は、合兒魯黑の複稱、唐書の葛邏祿なり。葛邏祿は、鐵勒 諸︀部の一にして、唐の世に北庭の西北金山の西に居り、その盛なる時は碎葉 但邏斯の諸︀城をも有ちしが、宋の世に至りて國 衰へ、西遼の屬國となれり。

​合兒魯黑​​カルルク​の異文

烏古孫 仲端の北使記 元史 鐵邁赤の傳に合魯、親征錄 太祖︀紀 沙全の傳 儒學 伯顏の傳に哈剌魯、哈剌䚟の傳に哈魯、也罕 的斤の傳に匣剌魯とあり。輟耕錄の色目 三十一種の中には哈剌魯とも匣剌魯とも書けり。珀兒沙の亦思塔黑哩の書には喀兒列怯、普剌諾 喀兒闢尼の紀行には科囉剌と云へり。元史 地理志の西北地 附錄には柯耳魯とありて、經世 大典の圖に、柯耳魯は阿力麻里 卽ち阿勒馬里克(今の伊犂)の西北に載せたり。親征錄に「辛未 春、上居怯綠連 河時、西域 哈剌魯 部主 阿昔蘭 可汗 來歸、因忽必來 那顏上」とあり。元史も、太祖︀ 六年 辛未の條にこの事を記せり。

​喀牙里克​​カヤリク​の君を兼ぬる​合兒魯黑 罕​​カルルク カン​

多遜は、主吠尼の史を譯して「突︀兒克 喀兒魯克の酋長にして喀牙里克の君なる阿兒思闌 汗、阿勒馬里克の君なる斡匝兒、二人ともに合喇乞台の古兒汗の臣なりしが、一二一一年 來て成吉思 汗に從ひ、成吉思 汗は、阿兒思闌に宗女を與へたり」と云へり。喇失惕の記載は、祕史に同じくして、只 皇女をば主吠尼と同じく宗女とし、「阿兒思闌 汗の號 存すべからざるに依り、撒兒惕の號を賜へり」と云へり。合兒魯兀惕の罕は喀牙里克の君を兼ぬとあれば、その國は、喀牙里克の邊、卽ち巴勒喀什 湖の東南にあるべし。喀牙里克は、嚕卜嚕克の紀行に喀亦剌克と云ひ、元史 憲宗紀「二年夏、分遷諸︀王於各所」の條に「海︀都︀ 於海︀押立 地」とありて、太宗の孫なる海︀都︀の分地となり、海︀都︀の亂に世祖︀の兵は阿勒馬里克に進み、阿剌套 山を隔てて相 對し居たり。大佐 裕勒は「その地は、今の闊帕勒に近し」と云へり。一八五七年、ある塔塔兒 人は、闊帕勒の古墳より古き金環を寶石と共に發見し、その金環に突︀兒克 字にて阿兒思闌と刻みてありしは、珍らしき堀出物なりき(露西亞の地學 協會の報吿、一八六七年 第一編 第 二百九十ぺーぢ)。

世世 元の駙馬

諸︀公主表に「脫烈 公主、適阿爾思蘭子 也先 不花 駙馬」とありて、皇女とも宗女とも云はず。又 表には阿兒思闌を駙馬と云はざれども、諸︀書みな阿兒思闌に妻せたりとあれば、これも先に阿兒思闌に配し、後にその子に配したるを、公主表は諱みて後の駙馬のみを擧げたるならん。又 脫烈 公主の次に「八八公主、適也先 不花子 忽納荅兒 駙馬。某 公主、適忽納荅兒 子 剌海︀涯里那 駙馬」とあれば、阿兒思闌の後は、曾孫までも世世 元の駙馬となりしなり。


§236(10:11:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​篾兒乞惕​​メルキト​の​遺孽​​ヰゲツ​の​𠞰滅​​サウメツ​

 ​速別額台 巴阿禿兒​​スベエタイ バアトル​は、​鐵​​クロガネ​の​車​​クルマ​にて、​篾兒乞惕​​メルキト​の​脫黑脫阿​​トクトア​の​忽禿​​クト​ ​赤剌溫​​チラウン​ ​等​​ラ​なる​子​​コ​どもを​追​​オ​ひに​出征​​シユツセイ​して、​垂 河​​チユイ ガハ​に​追詰​​オヒツ​めて​窮​​キハ​めて​來​​キ​ぬ。(親征錄に曰く「辛未、遣將 脫忽察兒、率騎二千、出哨西邊戎。丁丑、上遣大將 速不台拔都︀、以鐵裹車輪、征蔑兒乞 部、與先遣征西前鋒 脫忽察兒 二千騎合、至嶄河、遇其長大戰、盡滅蔑兒乞還」と云ひ、

丁丑の年なる嶄河の戰

喇失惕も、この戰を記して牛の年の事とし、嶄河を眞河と書けり。元史 本紀は、三年 戊辰の也兒的石 河の戰に「討蔑里乞 部之」と書きて、十二年 丁丑には速不台の征戰を載せず。速不台の傳に曰く「滅里吉 部强盛不附。丙子、帝