成吉思 可罕チンギス カガンは動ウゴきて、額迭兒 阿勒台エデル アルタイの汭カハマタ(卽ち落合)にて渡ワタりて(親征錄也迭而 案臺 河エデル アンタイ ガハ。この河の名は、阿爾泰 山の東北幹山なる唐努 嶺の東麓より出づる伊第爾 河 また額德爾 河に同じく、その河股は、額德爾 河と齊拉圖 河との落合を指せるに似たり。されども色楞格 河の上流の地は、この時 乃蠻の塔陽 罕に屬して、その勢 未だ衰へざれば、蒙古の兵そこを通るに由なし。又その地は、拜達里克 河の河股の北 三度ほどにあれば、拜達里克 河より土拉 河の方に向はんとする時、道を曲げてそこを通るべき筈なし。されば名の同じきは偶然の事にして、成吉思 汗の渡れる河は、他の處にあるべし。)その動ウゴきたるに依ヨり動ウゴきて、撒阿哩 客額兒サアリ ケエル〈[#ルビの「サアリ ケエル」は底本では「サアリ エケル」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉に下馬ゲバせり。(親征錄撒里 川サリ セン。客額兒は原にて、川も河を中にせる原なり。元史に薩里 河と書きたるは、非なり。) それより成吉思 合罕チンギス カガン 合撒兒カツサル 二人フタリは、乃蠻ナイマンの大槩タイガイを視︀ミて人ヒトと算カゾへざりき。
§162(05:32:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
可克薛兀 撒卜喇黑コクセウ サブラクに王罕ワンカンの襲はれ
可克薛兀 撒卜喇黑コクセウ サブラクは、王罕ワンカンの後シリヘより襲オソひて、桑昆サングンの妻子ツマコ 人民ジンミンを住具ヂウグごめに虜︀トラへて率ヒキゐて、王罕ワンカンの帖列格禿 阿馬撒兒テレゲト アマサル(帖列格禿の口)にある一半イツパンの人民ジンミン 馬羣バグン 糧食リヤウシヨクを虜︀トラへて率ヒキゐて回カヘりき。(帖列格禿の口は、卷四なる撒察 泰出の拏へられたる處と名同じ。されども彼の地は、蒙古の南に在り、此の地は、客咧亦惕の西に在れば、同名の異地なるべし。すべて蒙古 地方には、同名の地 甚だ多し。帖列格禿の口も、この二處に限らず。露西亞の地圖に、科布多 城の西に帖列克特 山あり。その山の北に帖列克特 山口と云ふ所あり。これも阿馬撒兒なるべし。されどもその地は、古出兀惕 乃蠻の腹地に在りて、客咧亦惕の民の居るべき所に非ざれば、本文なる隘口は、今 考ふべからず。)その戰タヽカヒの中ウチに、篾兒乞惕メルキトの脫黑脫阿トクトアの忽圖クト 赤剌溫チラウンなる二人フタリの子コそこに居ヲり、その民タミを率ヒキゐて離ハナれて、その父チヽに合アはんと、薛涼格 河セレンゲ ガハに沿シタガひ動ウゴきけり。
§163(05:33:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
王罕ワンカン 桑昆サングンを救へる四傑シケツ
可克薛古 撒卜喇黑コクセグ サブラク(前の可克薛兀 撒卜喇黑)に掠カスめられて、王罕ワンカンは、成吉思 合罕チンギス カガンに使ツカヒを遣ヤりき。使ツカヒを遣ヤるに「乃蠻ナイマンに人民ジンミン 住具ヂウグを妻子ツマコを虜︀トラへられたり、我ワレ。子コ[なる汝ナンヂ]より汝ナンヂの