あり。
又 太宗紀「金遣㆓阿忽帶㆒來歸㆓太祖︀之賵㆒。帝曰「汝主久不㆑降、使㆔先帝老㆓于兵閒㆒、吾豈能忘也。賵何爲哉。」却㆑之。遂議㆑伐㆑金。」阿忽帶は、天興 元年(太宗 四年)に講和使となれる諫議 大夫(後に御史 大夫)裴滿 阿虎帶なり。金史に據れば、この年 蒙古に使したるは、阿虎帶に非ずして、完顏 奴申なり。哀宗紀に、正大 五年 十二月「壬子、完顏 訥申 改㆓侍講學士㆒、充㆓國信使㆒。」奴申の傳に「正大五年九月、改㆓侍講學士㆒、以㆓御史大夫㆒奉㆓使大元㆒、至㆓龍駒 河㆒、朝㆓見太宗皇帝㆒、十二月還。明年(太宗 元年)六月、遷㆓吏部尙書㆒、復往、八年春還」とあり。奴申は、講和の使にして弔慰の使にあらざれば、太祖︀の賵を歸れるは、奴申の前に使したる完顏 麻斤出なるべし。)
察阿歹 兄チヤアダイ イロセは、斡歌歹 合罕オゴダイ カガンを弟イロトを罕カンに戴イタヾきて、成吉思 合罕 額赤格チンギス カガン エチゲの金コガネの命イノチ 守マモり居ヰたる宿衞シユクヱイ 箭筒士セントウシ 八千ハツセンの侍衞ジヱイ、[卽スナハチ]我ワが皇考スメラミオヤの身ミに親チカく行ユき居ヰたる內臣ナイシン、彼カの萬マンの番士バンシを、察阿歹 兄チヤアダイ イロセ 拖雷トルイ 二人フタリは、斡歌歹 合罕オゴダイ カガンに交ワタせり。內地ナイチの國民クニタミをもその道理ダウリに依ヨり交ワタせり。
§270(12:15:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
斡歌歹 合罕オゴダイ カガンは、己オノレを罕カンに戴イタヾかしめて、內裏ダイリに行ユく萬マンの番士バンシを、內地ナイチの國民クニタミを己オノレの物モノに爲ナさしめ畢ヲへて、まづ察阿歹 兄チヤアダイ イロセの處トコロに謀ハカりて、成吉思 合罕 額赤格チンギス カガン エチゲの爲掛シカけ置オきたる民タミなる巴黑塔惕バクタトの民タミの合里伯 莎勒壇カリベ シヨルタンの處トコロに出征シユツセイしたる綽兒馬罕 豁兒赤チヨルマカン ゴルチ〈[#ルビの「チヨルマカン ゴルチ」は底本では「チヨルハカン ゴルチ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉(前卷の搠兒馬罕 豁兒赤)の後援ゴヱンに、斡豁禿兒オゴトル 蒙格禿モンゲト 二人フタリを出征シユツセイせさせたり。(斡豁禿兒は、外に見えず。蒙格禿は、卽 篾格禿、八十八功臣の第六十二なり。親征錄に、太宗と拖雷と「共議㆔搠力蠻 復征㆓西域㆒」とあるは、この事を云へるなり。)
また先サキに速別額台 巴阿禿兒スベエタイ バアトルを、康鄰カングリン 乞卜察兀惕キブチヤウト 巴只吉惕バヂギト 斡魯速惕オルスト 阿速惕アスト 薛速惕セスト(前卷の撒速惕)馬札兒マヂヤル(前卷の馬札喇)客失米兒ケシミル 薛兒格速惕セルゲスト(前卷の薛兒客速惕)不剌兒ブラル(前卷にも後文にも孛剌兒とあり。こゝの原文に不合兒とあれども、寫し誤りならんこと疑ひなければ、改めたり。)客咧勒ケレル(前卷 誤りて喇喇勒)の民タミの處トコロに到イタるまで、阿的勒アヂル(前卷の亦的勒)札牙黑ヂヤヤクなる水ミヅある河カハを渡ワタり、