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Page:成吉思汗実録.pdf/349

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(南朝 卽 宋)合申(河西 卽 夏)三國の界なり」と云へども、三國の界に非ず、金夏 二國の界なりき。

淸水縣

淸水縣は、金の鳳翔路 秦州の屬縣、今の甘肅 秦州の屬縣にして、隆︀德縣の南隣なり。西江は、地圖に見えざる小河なり。六盤山を遠くは離れざるべし、金史 愛申の傳に「正大四年春、大兵西來、擬德順生夏之所」とあるは、六盤山に暑︀を避けんとするを云ふ。按竺邇の傳に「駐兵秦川」とあるは、西江に駐まれるを云ふ。

薩里川 哈老徒の行宮

薩里川は、卷四 以來 屢 見えたる撒阿里 客額兒なり。哈老徒は、今の噶老台にして、內府 興圖に噶老台 嶺、噶老台 河、噶老台 泊あり。行宮のありしは、噶老台 泊の邊ならん。行宮は、斡兒朶の譯語にして、行幸さきの宮殿にあらず、行動 自在の宮殿なり。集史(別咧津の譯せる)に

集史の記事

「狗の年の春、昂坤塔郞忽禿克の地に至り、病に罹り、夢を見て、死期 近づけるを知れり」とあるを、洪鈞は「果有此夢、必是猪︀年而非狗年」と云へり。次に「この時 諸︀子の內、側に居たるは、也松格 兄(拙赤 合撒兒の子)のみなりき。「斡歌台 禿里は、いづくにか居る。遠ざかれるか」と問へば、「只 二三里 離れたり」と申しき。呼び寄せて、次の朝 諸︀將 侍從を退けて、諸︀子に向ひ「我が命 終らんとする時 至れり。われ、汝等の爲にこの大業を肇め、東西にても南北にても、はてよりはてまで一年の路程あり。我が遺言は、たゞ汝等 敵を禦ぎ民を保ちて永く祚を享けんには、必ず眾人の心を一つに合はせよとなり。我が死にたる後は、汝等 斡歌台を君に戴け。」また「汝等は、各 歸りて事を治むべし。われ、この大名を享けたれば、死ぬとも憾なし。われは、故土に歸らん(葬られん)ことを望む。察合台は、側に居ざれども、我が遺言に背きて亂を起すには至るまじ」と云へり。」額兒篤曼は、太祖︀の遺言として、眾人一心の譬に、束箭の談と多頭蛇の談とを引けり。束箭の談は、祕史の阿闌 豁阿の敎訓に同じ。

元史 姚天福︀の傳に古諺を引きて一蛇九尾 首動尾隨 一蛇二首 不能寸進とあり

多頭蛇の談は、「ある寒き夜、穴を索めたるに、多頭蛇の頭ども、互に爭ひて遂に凍え死に、一頭多尾の蛇は、安らかに穴に隱れき」と云へるなり。集史の續きに「遺言 畢りて、諸︀子を出し遣り、自ら兵を率ゐて南乞牙思(南朝)に入りたれば、至る所 皆 迎へ降れり」とあり。この年、蒙古の遊兵は、金の鳳翔 京兆に入り、又 南は關外の諸︀隘を破りて、宋の武州 階州に入りたれども、太祖︀ 自ら宋の地を踏みたることなし。又 續きに「六盤山に至れば、主兒只 聞きて使を遣り、眞珠を山盛にして贈︀れり」と云へるは、金史 元史の議和使 完顏 合周 等にして、この年 六月の事なり。また「失迭兒古は、力竭きて、使を以て降服を願ひたれば、成吉思 汗は、その請を允し、また貢物を備へ民戶を遷さんが爲に、一月の猶豫を得て、自ら來朝せんと云へるをも允し、かつ「今われ病あれば、暫くくるな」と吿げて、脫侖 扯兒必を遣りて、失迭兒古を慰撫せり。成吉思 汗は、これより病 日日に重く、今はの きは に大臣に吿ぐるに「われ死なば、喪を發せず、敵に知れざらしめ、合申の君のこんを待ちて殺︀せ」と云ひ、八月十五日に死にたり。諸︀將は、遺命に遵ひて喪を祕し、合申の君 朝謁︀に來つるを執へ殺︀し、密に柩を奉じて老營に歸り、然る後に喪を發せり」と云へり。脫侖 扯兒必の役目は、祕史と稍 異なり。又 察罕の傳に「還次六盤。夏主堅守中興。帝遣察罕入城、諭以禍︀福︀。眾方議降、會帝崩、諸︀將擒夏主殺︀之。復議中興、察罕 力諫止之、馳入安集遺民」とあるは、祕史とも集史とも事情 異なり。察罕を褒め過ぎたるに似たり。

太祖︀の崩じたる地

太祖︀の崩じたる地は、陳桱の通鑑 續編に六盤山とし、集史と察罕の傳とに合へり。蒙古 源流に「靑吉斯 汗、以丁亥年七月十二日歿於 圖爾墨︀格依 城、年六十六」とある七月十二日は、卽 元史の己丑、圖爾墨︀格依は、卽 祕史の朶兒篾該、卽 靈州なり。靈州としても秦州としても、つまり六盤山より