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Page:成吉思汗実録.pdf/355

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​篾客禿​​メケト​(

​篾客禿​​メケト​の城

後文に蔑格惕の城、憲宗 本紀 昔里鈐部の傳に阿速の蔑怯思 城、土土哈の傳に、麥住斯、拔都︀兒の傳に麥各思 城とあり。そのありかは確ならず。阿卜勒弗荅は、亦奔 賽篤を引きて「阿闌の主要なる寨は、世界の堅城の一なり」と云ひ、馬速的も、この寨を「阿闌の國と喀卜克(高喀速 山)との閒にて大河の畔にあり」と云ひたれども、寨の名を云はず。卜咧惕施乃迭兒 曰く「この城は、蓋 帖咧克 河の上游にて喀自別克 山に近き名高き荅哩額勒の峽にありて、抹哈篾惕 敎徒の地理家の巴必 阿勒闌(阿闌の門)、古史の玻兒塔 高喀昔亞ならん」と云へり。)​綿客兒綿​​メンケルメン​ ​客亦別​​ケイベ​(前卷の乞瓦 綿 客兒綿)を​首​​ハジメ​とせる​城​​シロ​どもの​處​​トコロ​に​出征​​シユツセイ​したる(出征せしめたるに、)​速別額台 巴阿禿兒​​スベエタイ バアトル​は、それらの​民​​タミ​に​艱​​ナヤ​まされて、​速別額台​​スベエタイ​の​後援​​ゴヱン​に​巴禿​​バト​、​不哩​​ブリ​(

​不哩​​ブリ​

多遜の世系表に、察合台の長子 木阿禿干の子とあれども、普剌諾 合兒闢尼は、「察阿歹の子 不𡂰」と云へり。元史 憲宗紀 元年 卽位の條に不里と書きて、察合台の子なる也速忙可と竝べ擧げたり。下文なる長子 出征の語に據るに察阿歹の長子なること明なり。不哩の兄 木阿禿干は、太祖︀の西征に從ひ、巴米安 城攻の時に戰死したれば、不哩は今 生存せる諸︀子の長兄となれり。)​古余克​​グユク​(

定宗 ​古余克​​グユク​

太宗の長子 貴由。蒙古 源流 庫裕克、多遜も同じ。太宗紀 八年の處には、古與と書けり。太宗 崩じて後 合罕に立てられ、元史に本紀あり。「定宗𥳑平皇帝、諱 貴由、太宗長子也。母曰六皇后乃 馬眞 氏、以丙寅年帝」とあれば、太宗 八年 丙申の歲 歐囉巴 征伐に出陣したるは、三十一歲の時なり。)​蒙格​​モンゲ​を(

憲宗 ​蒙格​​モンゲ​

拖雷の長子にして、定宗 崩じて後 合罕となれり。蒙古 源流、拖雷 額氈の子​蒙客​​モンケ​。元史 本紀に「憲宗桓肅皇帝、諱 蒙哥。睿宗 拖雷 之長子也。母曰莊獻太后 怯烈 氏、諱 唆魯禾帖尼、歲戊辰十二月三日生帝。時有黃忽荅 部知天象者︀、言帝後必大貴、故以蒙哥名」とありて、原注に「蒙哥、華言長生也」と云へれば、蒙哥のモンゲと讀むべきことは甚 確なり。普剌諾 合兒闢尼のメングと云ひ、喇失惕 以下 西人の蒙古史にマングとあるは、皆 音 訛れり。蒙格は、この出征の時 二十九歲なりき。)​首​​ハジメ​としてあまたの​諸︀王​​ミコダチ​を​出征​​シユツセイ​せさせたり。(この文、やゝ事實に違へり。速別額台の者︀別と共に乞卜察克 斡嚕思 諸︀國を征して苦戰したるは事實なれども、その苦戰を救はんが爲に巴禿 等 諸︀王の出征したるに非ず。速別額台は諸︀國を擊ち破りて還りたれども、その地いまだ平定せざりし故に、太宗は更にその地を悉く征服せんが爲に巴禿 等 諸︀王を遣し、速別額台を參謀として、再征を企てたるなり。委しくは下の注に述ぶべし。

長子出征の定め

この​出征​​シユツセイ​したる​諸︀​​モロの​王等​​ミコダチ​に​巴禿​​バト​ ​長​​ヲサ​となれと​勅​​ミコト​ありき。​內地​​ナイチ​より​出​​イ​でたるものには​古余克​​グユク​ ​長​​ヲサ​となれと​勅​​ミコト​ありき。「この​出征​​シユツセイ​する​部眾​​ブシウ​を​統​​ス​ぶる​諸︀王​​ミコダチ​は、その​子​​コ​どもも​大子​​オホイコ​に​出征​​シユツセイ​せさせよ。​部眾​​ブシウ​を