のなめしき言コトバの處トコロに來キて、長生トコヨの上帝アマツカミに力チカラを添ソへられて、手テに入イれて、怨ウラミを報ムクいたるぞ、我等ワレラ。亦魯忽イルクの此コの持モち來キつる、起タてたる行宮カリヤは、器︀皿キベイごめに脫侖トルン 取トれ」と勅ミコトありき。(亦魯忽は、李睍の國語の名にして、安全の國語の名に同じ。蒙古にも色目にも、同じ名の人多し。
失都︀兒忽は、蒙語 正直の義なり。唐古惕 人の正直ならざるを辱めんが爲に、わざと正直と云ふ名を賜へるなるべし。喇失惕の(額兒篤曼の譯せる)失迭兒古、蒙古 源流の錫都︀爾郭は、皆この賜はれる名を以て記したるなり。親征錄に李安全を失都︀兒忽と書けるは、安全の國語の名 亦魯忽は李睍と同じきを、失都︀兒忽の名同じと思ひ誤れるならん。)
§268(12:12:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
唐兀惕タングトの民タミを虜︀トラへて、亦魯忽 不兒罕イルク ブルカンを失都︀兒忽シドルクとなして、彼カレを片附カタヅけて、唐兀惕タングトの民タミの母ハヽ 父チヽを子孫シソンの子孫シソンに至イタるまで木忽里 木思忽里ムクリ ムスクリを無ナくなし、「食物クヒモノを食クふ閒アヒダに、「木忽里 木思忽里ムクリ ムスクリ 無ナし」とて、「死シなしめ滅ホロボせり」と言イひ居ヲれ」と勅ミコトありき。(木忽里 木思忽里 無しは子遺 無しなど云ふ意ならんと思はるれども、譯すること能はず。)唐兀惕タングトの民タミは言コトバを言イひて、言コトバに遵シタガはざる故ユヱに、唐兀惕タングトの民タミの處トコロに成吉思 合罕チンギス カガンは二フタたび出征シユツセイして、唐兀惕タングトの民タミを窮キハめて來キて、猪︀ヰの年トシ(後堀河 天皇 安貞 元年 丁亥、宋の理宗 寶慶 三年、金の哀宗 正大 四年、元の太祖︀ 二十二年、西紀 一二二七年、太祖︀ 六十六歲の時)
成吉思 合罕チンギス カガンは、上天タカマノハラに昇ノボり給タマひぬ。昇ノボり給タマへる後ノチ、也遂 合敦エスイ カトンに唐兀惕タングトの民タミより[分民ブンミンを]多オホく與アタへたり。(親征錄は、甚 簡略にして乙酉 歸國の年「是夏避㆑暑︀、秋復總㆑兵征㆓西夏㆒、丙戌春至㆓西夏㆒、一歲閒盡克㆓其城㆒、時上年六十五矣。丁亥滅㆓其國㆒以還」と云へるのみなり。元史には、二十二年 丁亥 四月 德順の戰の次に「五月、遣㆓唐慶等㆒使㆑金。閏月、避㆓暑︀六盤山㆒。六月、金遣㆓完顏 合周 奧屯 阿虎㆒來請和。帝謂㆓羣臣㆒曰「朕自㆓去冬五星聚時㆒、已嘗許㆑不㆓殺︀掠㆒。遽忘㆑下㆑詔耶。今可㆕布㆘吿中外㆖、令㆔彼行人亦知㆓朕意㆒。」是月、夏主李睍降。帝次㆓淸水縣西江㆒。秋七月壬午不豫、己丑崩㆓于 薩里川 哈老徒 之行宮㆒」とあり。
六盤山は、甘肅 平涼府 隆︀德縣の東 二十 淸里、平涼府 固原州の西南 三十 淸里に在り。方興 紀要に「曲折險峻、盤旋有㆑六」が故に名づくと云ひ、その上に六盤關ありて、隆︀德と固原との界をなせり。喇失惕は「主兒只(女直 卽 金)南乞牙思