弟オトヽだちあるに、合罕 兄カガン イロセを爾ナガミコトを騸馬センバの如ゴトく選エバびて、羯羊カツヤウの如ゴトく揣ハカりて、大オホき位ミクラヰに爾ナが身ミを名指ナザして、多オホき國民クニタミを爾ナが上ウヘに擔ニナはせて與アタへたるぞ。我ワレをこそは、合罕 兄カガン イロセの御前ミマヘに居ヰて、忘ワス兀馬兒塔黑散れたるを心附コヽロヅけて、睡ネム穩塔喇黑散りたるを喚覺ヨビサマして行ユけと仰オホせられたりき。今イマ 合罕 兄カガン イロセを爾ナガミコトを失ウシナはば、我ワレは、誰タレの忘ワスれたるを心附コヽロヅけ、誰カレの睡ネムりたるを喚覺ヨビサマさん。實マコトに亦マタ 合罕 兄カガン イロセ 吉ヨからずならば、多オホ斡欒き忙豁勒モンゴルの國民クニタミは孤兒ミナシゴ斡捏亦咧坤とならん。乞塔惕キタトの民タミは喜ヨロコ乞卜慷渾ばん。合罕 兄カガン イロセの代カハリに我ワレ 爲ナらん。禿魯トル(魚の名)の脊セを我ワレ 割サ禿勒巴勒きたり。乞列篾キレメ(魚の名)の脊セを我ワレ 斷タ輕古勒ちたり。面オモテ亦列を我ワレ 打ウ亦剌黑てり。外面ソトモ合荅を我ワレ 刺サ合惕忽せり。(この四句を明譯は節︀約して有的アラユル 罪業ツミハ、都︀スベテ 是ナリ㆓我ワガ 造來ツクレル㆒。)顏カホ你兀兒 美ウツクしく脊セ你嚕溫 長ナガく我ワレもあるぞ、(明譯我ワレ 又マタ 生得ウマレツキ 好カホヨク、可ベシ㆓以事ツカヘマツル㆒㆑神︀カミニ。尙書の金縢に、武王 疾ありて周公 身を以て代らんことを祈︀れる辭に「予仁若㆑考、能多㆑材多㆑藝、能事㆓鬼神︀㆒」と云へるも、この意に同じ。)師巫カンナギ 呪マジナへ詛ノロへ」と云イひて、師巫カンナギ 詛ノロへば、詛ノロヘる水ミヅを拖雷トルイの王ミコ 飮ノめり。暫シバラく坐スワりて言イハく「醉ヱひたり、我ワレ。我ワが醉ヱヒを覺サマせる內ウチに(我が醉のまはらぬ閒に)、孤兒ミナシゴども幼兒ヲサナゴども弟オトヽども寡ヤモメなる婦ヨメ 別嚕迭 斡因ベルデ オインに(譯語を知らず)至イタるまで養ヤシナふことを合罕 兄カガン イロセ 知シロしめせ。」その言コトバを言イひ畢ヲへ、「我ワレ 醉ヱひたり」と云イひて、出イでて去サりて、吉ヨからず爲ナれる理由リイウかくあり。(元史 太宗紀 に據れば、拖雷の薨じたるは、太宗 四年 九月なり。
睿宗の傳に、三峯山 鈞州 許州の戰の後に「遂從㆓太宗㆒、收㆓定河南諸︀郡㆒。四月、由㆓半渡㆒、入㆓眞定㆒、過㆓中都︀㆒、出㆓北口㆒、住㆓夏于官山㆒。五月、太宗不豫、六月疾甚。拖雷禱㆓于天地㆒、請㆓以㆑身代㆒㆑之、又取㆓巫覡祓除釁滌之水㆒飮焉。居數日、太宗疾愈、拖雷從㆑之北還、至㆓阿剌合的思 之地㆒、遇㆑疾而薨。壽四十有□。」喇失惕の史に四十歲と云