至㆓寧夏府南㆒、」耶律 希亮の傳に「自㆓靈武㆒過㆓應吉里 城㆒、至㆓西涼甘州㆒」とある應吉里も、卽 應理なり。應理は、夏の時 縣なりしが、元の世に州となり、明は陝西 寧夏 中衞となり、今は甘肅 甯夏府 中衞縣となれり。靈州は、卽 朶兒篾該、前に注せり。靈州を下せる時、諸︀將は子女 金帛を貪れる中に、耶律 楚材は藥材を收めて、後に士卒の疫を愈やしたること、楚材の碑と傳とに見ゆ。
鹽州は、唐 以來の州にして、元 廢せり。故城は、今の靈州の東南に在り。鹽州川とは、淸水河の河邊を云ふ。夏王城は、卽 中興府、今の甯夏なり。
積石州は、金史 地理志 臨洮路の下にあり、「本宋積石軍 溪哥 城、大定 二十二年 爲㆑州」と云ひ、河源 附錄に、上流より下りて「至㆓貴德州㆒、地名㆓必赤里㆒、始有㆓州治官府㆒、又四五日至㆓積石州㆒、卽萬貢積石。五日至㆓河州安鄕關㆒」と云へり。故城は、今の甘肅 蘭州府 河州の西に在り。これより下 太祖︀の過ぎたる所は、大抵 金の地なり。
臨洮府は、宋の熙州、金 元 明の臨洮府、今の甘肅 蘭州府 秋道州なり。
洮 河 西寧は、二州にあらず、三州なり。皆 金の臨洮路にして、今は甘肅の地なり。洮州の故城は、今の鞏昌府 洮州廳の西南 七十 淸里に在り。河州は、今 蘭州府に屬せり。西寧州は、今 西甯府となれり。
龍德は、卽 金の鳳翔路 德順州 隆︀德縣、今は甘肅 平涼府の屬縣なり。
德順州の故城は、平涼府 靜甯州の東に在り。積石 河州 臨洮 德順にて按竺邇の功ありしこと、按竺邇の傳に見ゆ。臨洮 德順の戰は、金史 哀宗紀 正大 四年「三月、大元兵平㆓德順府㆒、節︀度使 愛申、攝府判馬肩龍死㆑之。夏五月、大元兵平㆓臨洮府㆒、總管 陀滿 胡土門 死㆑之」とありて、德順の拔けたるは前にあり、臨洮の破れたるは後にあり。陀滿 胡土門 愛申 馬肩龍の事は、金史 忠義傳に詳かなり。太祖︀紀 二十二年の末に「是歲、皇子 窩閣台 及 察罕 之師圍㆓金南京㆒。遺㆓唐慶㆒責㆓歲幣子金㆒」とあるは、全く贅文なり。
この年 南京の圍まれたることは、金史 本紀にも見えず。窩闊台 察罕は、この時 太祖︀に從ひて、遠く離れたること無ければ、太宗紀にも察罕の傳にも更にこの事なし。これは、太宗 二年 自ら金を伐ち察罕 從へるをこゝに誤り記したるか。又 唐慶の使せることは、翌年 五月にあり。唐慶の傳にも「歲丁亥、賜㆓虎符㆒、授㆓龍虎衞上將軍㆒使㆑金」とありて、甲戌に使せることなし。これは、元史の持病なる例の重複なり。
喇失惕 曰く「蒙古の軍 唐古惕に入り、咯米出 昔出 喀出 額哩喀を取り、迭兒薛孩を圍みたる時、合申の君 失迭兒古は、五十營の兵を率ゐて援ひに來ぬ。成吉思 汗は、軍を移して往き迎へ、黃河の支流の冰の上に戰ひ、矢に虛發なく、合申の兵 夥しく死し、失迭兒古は都︀に逃げ歸れり。成吉思 汗は、かれの弱れるを見て、その都︀を過ぎ去りて、他の城城を攻め下し、遂に乞台の地に入りき。」喀出は、瓜州にして、肅州と沙州との閒にあり。瓜州は、今の甘肅 安西州治、沙州は、安西州 敦煌縣なり。靈州の戰に李睍 自 出でたるは、元史の嵬名 令公と說 異なり。又 察罕の傳に「進攻㆓靈州㆒、夏人以㆓十萬眾㆒赴援。帝親與戰、大敗㆑之」とあるは、兵數の多きこと集史に似たり。乞台の地に入るは、臨洮路の諸︀城を取れることを云へるなり。)
そこに不兒罕ブルカン 見マミゆるに、黃金コガネの佛ホトケを首ハジメとして、金コガネ 銀シロカネの器︀皿キベイ 九コヽノつ九コヽノつ、男兒ヲノコ 女兒メノコ 九コヽノつ九コヽノつ、騸馬センバ 駱駝ラクダ 九コヽノつ九コヽノつ、種種クサグサにて九コヽノつ九コヽノつを表アラハして見マミゆる時トキ、不兒罕ブルカンを門カド 暗クラく(門をあけずして)見マミえさせたり。(明譯令シム㆓