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Page:成吉思汗実録.pdf/346

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寧夏府南、」耶律 希亮の傳に「自靈武應吉里 城、至西涼甘州」とある應吉里も、卽 應理なり。應理は、夏の時 縣なりしが、元の世に州となり、明は陝西 寧夏 中衞となり、今は甘肅 甯夏府 中衞縣となれり。靈州は、卽 朶兒篾該、前に注せり。靈州を下せる時、諸︀將は子女 金帛を貪れる中に、耶律 楚材は藥材を收めて、後に士卒の疫を愈やしたること、楚材の碑と傳とに見ゆ。

鹽州

鹽州は、唐 以來の州にして、元 廢せり。故城は、今の靈州の東南に在り。鹽州川とは、淸水河の河邊を云ふ。夏王城は、卽 中興府、今の甯夏なり。

積石州

積石州は、金史 地理志 臨洮路の下にあり、「本宋積石軍 溪哥 城、大定 二十二年 爲州」と云ひ、河源 附錄に、上流より下りて「至貴德州、地名必赤里、始有州治官府、又四五日至積石州、卽萬貢積石。五日至河州安鄕關」と云へり。故城は、今の甘肅 蘭州府 河州の西に在り。これより下 太祖︀の過ぎたる所は、大抵 金の地なり。

臨洮府

臨洮府は、宋の熙州、金 元 明の臨洮府、今の甘肅 蘭州府 秋道州なり。

洮 河 西寧 三州

洮 河 西寧は、二州にあらず、三州なり。皆 金の臨洮路にして、今は甘肅の地なり。洮州の故城は、今の鞏昌府 洮州廳の西南 七十 淸里に在り。河州は、今 蘭州府に屬せり。西寧州は、今 西甯府となれり。

隆︀德縣

龍德は、卽 金の鳳翔路 德順州 隆︀德縣、今は甘肅 平涼府の屬縣なり。

德順州

德順州の故城は、平涼府 靜甯州の東に在り。積石 河州 臨洮 德順にて按竺邇の功ありしこと、按竺邇の傳に見ゆ。臨洮 德順の戰は、金史 哀宗紀 正大 四年「三月、大元兵平德順府、節︀度使 愛申、攝府判馬肩龍死之。夏五月、大元兵平臨洮府、總管 陀滿 胡土門 死之」とありて、德順の拔けたるは前にあり、臨洮の破れたるは後にあり。陀滿 胡土門 愛申 馬肩龍の事は、金史 忠義傳に詳かなり。太祖︀紀 二十二年の末に「是歲、皇子 窩閣台 及 察罕 之師圍金南京。遺唐慶歲幣子金」とあるは、全く贅文なり。

南京の圍 唐慶の使の誤

この年 南京の圍まれたることは、金史 本紀にも見えず。窩闊台 察罕は、この時 太祖︀に從ひて、遠く離れたること無ければ、太宗紀にも察罕の傳にも更にこの事なし。これは、太宗 二年 自ら金を伐ち察罕 從へるをこゝに誤り記したるか。又 唐慶の使せることは、翌年 五月にあり。唐慶の傳にも「歲丁亥、賜虎符、授龍虎衞上將軍使金」とありて、甲戌に使せることなし。これは、元史の持病なる例の重複なり。

集史の記事

喇失惕 曰く「蒙古の軍 唐古惕に入り、咯米出 昔出 喀出 額哩喀を取り、迭兒薛孩を圍みたる時、合申の君 失迭兒古は、五十營の兵を率ゐて援ひに來ぬ。成吉思 汗は、軍を移して往き迎へ、黃河の支流の冰の上に戰ひ、矢に虛發なく、合申の兵 夥しく死し、失迭兒古は都︀に逃げ歸れり。成吉思 汗は、かれの弱れるを見て、その都︀を過ぎ去りて、他の城城を攻め下し、遂に乞台の地に入りき。」喀出は、瓜州にして、肅州と沙州との閒にあり。瓜州は、今の甘肅 安西州治、沙州は、安西州 敦煌縣なり。靈州の戰に李睍 自 出でたるは、元史の嵬名 令公と說 異なり。又 察罕の傳に「進攻靈州、夏人以十萬眾赴援。帝親與戰、大敗之」とあるは、兵數の多きこと集史に似たり。乞台の地に入るは、臨洮路の諸︀城を取れることを云へるなり。

​不兒罕​​ブルカン​の獻上物

そこに​不兒罕​​ブルカン​ ​見​​マミ​ゆるに、​黃金​​コガネ​の​佛​​ホトケ​を​首​​ハジメ​として、​金​​コガネ​ ​銀​​シロカネ​の​器︀皿​​キベイ​ ​九​​コヽノ​つ​九​​コヽノ​つ、​男兒​​ヲノコ​ ​女兒​​メノコ​ ​九​​コヽノ​つ​九​​コヽノ​つ、​騸馬​​センバ​ ​駱駝​​ラクダ​ ​九​​コヽノ​つ​九​​コヽノ​つ、​種種​​クサグサ​にて​九​​コヽノ​つ​九​​コヽノ​つを​表​​アラハ​して​見​​マミ​ゆる​時​​トキ​、​不兒罕​​ブルカン​を​門​​カド​ ​暗​​クラ​く(門をあけずして)​見​​マミ​えさせたり。(明譯​令​​シム​