Page:成吉思汗実録.pdf/206

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き​動​​ウゴ​きて、​追驅​​オヒカ​けらるゝ​時​​トキ​、​塔米兒 河​​タミル ガハ​に​駐營​​チウエイ​しけり。その​團營​​ダンエイ​を​立​​タ​てかねて、​動​​ウゴ​きて​走​​ハシ​りて​出​​イ​でて​去​​サ​れり。​乃蠻​​ナイマン​の​民​​タミ​の​部落​​ブラク​を​阿勒台 山​​アルタイ ザン​の​前​​マヘ​に​窮​​キハ​めて​收​​ヲサ​めたり。​札木合​​ヂヤムカ​と​居​​ヰ​たる​札荅㘓​​ヂヤダラン​、​合塔斤​​カタギン​、​撒勒只兀惕​​サルヂウト​、​朶兒邊​​ドルベン​、​泰赤兀惕​​タイチウト​、​翁吉喇惕​​オンギラト​ ​等​​ラ​、そこに​又​​マタ​ ​降​​クダ​れり。(元史は火力 速八赤の言を叙べたる次に「太陽 罕 怒、卽躍馬索戰。帝以哈撒兒中軍。時 札木合 從太陽 罕來、見帝軍容整肅、謂左右云云、遂引所部兵遁去。是日帝與乃蠻 軍大戰、至晡禽殺︀ 太陽 罕。諸︀部軍一時皆潰、夜走絕險、墜崖死者︀、不勝計。明日、餘眾悉降。於是 朶魯班 塔塔兒 哈荅斤 散只兀 四部、亦來降」と云へり。これは、太祖︀ 實錄と親征錄 卽ち聖武 開天記とに本づきて、修飾を加へたるものにて、文は甚だ雅健なれども、事實は原本 祕史と稍 違へり。來降の部落の名にも誤りあり。塔塔兒の諸︀部は、前に已に殲滅せられたれば、この中に加はらざる方 事實なるべし。

​古兒別速​​グルベス​の召され

​塔陽​​タヤン​の​母​​ハヽ​ ​古兒別速​​グルベス​を​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​伴​​ツ​れ​來​​コ​させて​言​​イ​はく「​汝​​ナンヂ​は、​忙豁勒​​モンゴル​の​氣息​​キソク​ ​惡​​ア​しと​云​​イ​ひて​居​​ヲ​らざりしか。​今​​イマ​いかで​來​​キ​ぬる、​汝​​ナンヂ​」と​云​​イ​ひて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は​娶​​メド​りけり。


§197(07:45:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​篾兒乞惕​​メルキト​の​𠞰討​​サウタウ​

 その​鼠​​ネズミ​の​年​​トシ​ ​秋​​アキ​、​合喇荅勒 忽札兀兒​​カラダル クジヤウル​〈[#「合喇荅勒 忽札兀兒」は底本では「合喇 荅勒 忽札兀兒」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§197(07:45:02)の漢︀字音訳「合喇荅勒-忽札兀舌剌」に倣い二語に結合]〉合喇荅勒の源。親征錄​迭兒惡 河源​​デルオ ガハノミナモト​別咧津塔兒 河)に​篾兒乞惕​​メルキト​(親征錄 蔑兒乞 部、元史 蔑里乞 部)の​脫黑脫阿 別乞​​トクトア ベキ​(親征錄 元史 脫脫)と​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​對陣​​タイヂン​して、​脫黑脫阿​​トクトア​を​動​​ウゴ​かして、​撒阿哩 客額兒​​サアリ ケエル​に​彼​​カレ​の​人民​​ジンミン​ ​住具​​ヂウグ​ ​部落​​ブラク​を​虜︀​​トラ​へたり。(この撒阿哩 原は、蒙古の舊庭の地と異なるに似たり。塞北には同名の地 甚だ多し。親征錄には迭兒惡 河 源 不剌納矮胡 之 地とあり。)​脫黑脫阿​​トクトア​は、​忽都︀​​クド​ ​赤剌溫​​チラウン​なる​子​​コ​どもと、​僅​​ワヅカ​の​人​​ヒト​にて、​身​​ミ​を​以​​モテ​て​逃​​ノガ​れて​出​​イ​でたり。かく​篾兒乞惕​​メルキト​の​民​​タミ​ ​虜︀​​トラ​へらるゝ​時​​トキ​、

​荅亦兒 兀孫​​ダイル ウスン​の​女​​ムスメ​ ​忽闌 合屯​​クラン カトン​の拜謁︀

​豁阿思 篾兒乞惕​​ゴアス メルキト​(卷二 卷三の兀洼思 篾兒乞惕、親征錄 兀花思 蔑兒乞 部)の​荅亦兒 兀孫​​ダイル ウスン​(親征錄 元史​帶兒 兀孫​​ダイル ウスン​)は、​息女​​ムスメ​ ​忽闌 合屯​​クラン カトン​(親征錄 忽蘭 哈敦、元史 后妃表 忽蘭 皇后)を​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​見​​ミ​せまつらんとて​伴​​ツ​れ