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東照宮御実紀附録/巻九

目次
 
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東照宮御実紀附録 巻九
 
会津征伐

慶長五年会津の上杉御追討の儀仰出されし頃、大阪の奉行人等いづれも連署をもて御出馬を止め奉りけるは、近年東国打続き凶饑にして、兵食も乏しく、其上雪天にもさしかゝらば諸軍艱困すべし、当月はまづ思ひ止まらせ給へといへども聴かせ給はず、清正家康の出陣を諫む加藤主計頭清正も山岡道阿弥に就て諫め奉る条件には、第一、当時かしこくも内府の重任を御身に負はせ給ひながら、御親征に出立たせ給ふは、余り軽忽の御挙動と世の人思ふべし、第二には、今の御老体にて、長途の御旅行、いとゆゆしき御大事なり、第三には、御出陣ありし御跡にて、奉行人等景勝といひ合せ、東西より一時に起りなば、御進退頗る難儀なるべし、さらむより細川・福島・黒田・池田・藤堂等の人々に征討の事仰付けられ、それにてもいまだ御心危くおぼしめさば、伊達政宗・最上義光・堀久太郎など添へ給はゞ、いとたやすく軍功を奏すべし、御親征はとゞまらせ給へとなり、君聞し召し、清正が申す所はさる事ながら、われ弓馬の家に生れ、若年より戦場をもて家としぬるに、近年かゝる重任を受け、軍旅の事みな忘れ果てぬ、幸こたびの征討は、老後の思ひ出なれば、いさましく思ふなり、東西に敵起りたりとも、何程の事かあらむ、心安く思はるべし、清正には軍略智勇天下に其倫なし、こたび伏見に在りて禁闕を守護せしめたくは思へども、筑紫辺の事心許なく思へば、いそぎ帰国あつて其用意せられよと仰下されしかば、清正、某も諸将と共に、東国の御先鋒奉はらむとこひ奉れども御許しなし、遂に暇給はりて肥後国に下向しけるとぞ、〈明良洪範、〉

上杉御追討に立たせ給はむとて、大阪の西丸にて諸人謁見し奉りしに、渡辺半蔵守綱を召し、南蛮より舶来せし鳩胸の鎧に椎形の冑を賜ひ、汝年頃忠勤を尽せしにより、殊更の思召もてこれを賜はれば、この鎧着し一入若やぎて、こたびの御先仕れとありて、附属の足軽五十人増して百人になされ、御供命ぜられしとぞ、〈貞享書上、〉

鳥居元忠伏見城を守る会津御追伐として下らせ給ふとて、既に大阪を打立たせ給ひ、伏見の城に御とまりありけるも、六月十七日の夜の事にて、鳥居彦右衛門元忠御前にいでゝ、何事やオープンアクセス NDLJP:1-103らむ聞えあげゝる後に、今度当城の留守人数少にて、汝等一入苦労ならむと仰ありけるに、彦右衛門申上げゝるは、恐ながら今度会津御進発は大切の御事なれば、御人数一騎も多く召連れられてこそ然るべけれ、内藤弥次右衛門家長・松平主殿助家忠も御供命ぜられ、当城は本丸を某守り、外郭を松平五左衛門近正に守らしめ給はゞ、両人にて事足るべしと申せば、そはいかゞと仰ありければ、元忠重ねて申しけるは、今度御進発の御跡にて、今日の如く平穏ならむには、某に近正両人にて事足るべし、もし又世の変出来り、大軍に取囲まるゝに於ては、近国に後詰せむ味方はなし、たとへ此上五倍七倍の御人数を残し置かせ給ふとも、落城せむは疑なし、されば御用に立つべき御人数を無益に留守させ、戦死せしめむ事勿体なく存ずる故、かくは申上ぐるなりと申しければ、其後はとかうの仰もなく、そのかみ駿河の今川のもとに、人質として宮が崎におはしましける時、君は御十一、元忠は十三にて、艱苦を共になし給ひし事など仰出され、御物語に夜も更けたれば、明日は定めて早く御進発あるべし、短夜に候へばはや御寝遊ばされ候へと申しながら、先も申上げし如く、会津表御進発のあとにて、上方筋別儀もなく候はゞ重ねて見参すべし、もし又世の変も候はむには、これぞ今生の御暇乞にこそ候べけれとて、御前をまからむとせしが、老人長座して立ち兼ねし体を見そなはし、小姓に命じ、手を引いて退座せしめ給ひしが、其跡にて近臣等御側へ出て見奉れば、に御袖にて御泪をのごはせおはしましけるとなり、〈落穂集、〉

按に、関原軍記に、元忠は御落泪ましけるを見て、井伊直政に向ひ、我君は御齢やう長け給ひ、御心臆し給ふにや、御少壮より駿・遠・三の合戦に険阻艱難を尽させ給ひ、今天下分けめの御大事に至り、御家人の身命を惜むべき時にあらず、それを我々が命を捨てむ事をいたましく思召すは何事ぞや、われ如きが五百や千の命を捨てむ事、何のいたましき事あらむと、大に罵りたりとしるしぬ、さる事もありしにや、

伏見を御立ありて、京極宰相高次が大津の居城に立よらせ給ひ、高次昼の御膳を献ず、高次が内室〈崇源院殿御姉、〉松の丸殿に始めて御対面あり、又高次が家人黒田伊予・佐佐加賀・多賀越中・滝野図書・山田三左衛門・同大炊・赤尾伊豆・安養寺聞斎・今井掃部・岡村新兵等を召出され、夫々名謁し奉る、浅見藤兵衛其内に浅見藤兵衛といふ名は兼ねてオープンアクセス NDLJP:1-104聞召し知らせ給ひ、かれはしづが岳にてはなきやと宣へば、高次、仰の如く以前柴田が方へ仕へ候と申す、君、かれが事は年来聞及びし者なり、高次には元より士を愛せらるゝ故、名ある者多く持たれ、末頼もしき事かなと宣へば、かの家の郎等ども承り伝へて、我等が事までかく御心にとめらるゝは、かしこき御事なりと思ひ、後に東西軍起りて、高次籠城せし折も、諸人一入勇気を励ましけり、わづかの御一言にても、人心を興起し給ふ御事いとたうとし、〈落穂集、〉

長束正家の居城水口を過ぐ大津を立たせられて江州石部に宿らせ給ふ、水口の城主長束大蔵大輔正家父子御旅館まで出迎へ、明日己が城中に於て御茶を献るべし、願はくは御駕を停め給へと申す、君其志の程を謝せられ、御腰物を賜ひて正家をかへさる、其夜戌の刻ばかり密に告ぐる者のありて、俄に石部を御立ありて、水口をばまだ暁深く過ぎさせ給ひ、御跡より渡辺半蔵守綱を御使として水口に遣され、兼ねては其居城に立よらせ給はむあらましなりしが、とみの事出来ていそぎ出立たせ給ひぬ、いと残り多くおぼしめす由仰遣さる、正家大に驚き、即ち守綱と共に追付き奉り、井伊直政もて聊別心なき由を聞え上げしかば、御輿の側にめしてねもごろの仰あり、ただ急事によて違約に及びしなり、聊心にかくる事あるべからず、御帰陣の折は必ず立よらせ給ひ、めでたく御茶をもこはせ給ふべしなど、ねもごろに宣へば、正家もかしこみて犬山まで送り奉りしなり、この折しも石田三成は同国佐和山にありて、正家と牒し合せ、さま思ひまうけし事どもありしが、かく意表に出でゝ神速に通御ありしゆゑ、彼等が姦計はみな齟齬せしとなり、この時御供のもの、いづれも刀の下緒に火をくゝり附けて通れと命ぜられしが、水口の土人是を見て、関東勢の鉄炮の数はさて夥しき事よとて、皆驚懼せしとぞ、〈関原大成、武徳安民記、武功雑記、〉

此度下らせ給ふ頃の事なりしが、ある夜近臣等御側に伺公して御物語ありしに、此頃世上にて当家のうはさ何と申すぞと仰せられしかば、米沢清右衛門正勝、更に正体なしと申候、その故は世に知る如く、東西に敵をうけておはします事なれば、大阪の奉行等が人質を取固め、諸大名も引附け給ひ、伏見の城にも多くの御人数を籠められ候上にて、会津の御進発あるべきを、さる事もましまさで、たゞ御進発をいそがせ給ふは、更に御正体は候はぬと申すものと、我等も存じ奉ると、さも苦々しく御顔を犯し、思召にさはれかしと申上げゝれども、更にかはらせ給ふ御オープンアクセス NDLJP:1-105気色もなかりしとぞ、また東征の御道すがら、軍事には聊も御心をとめさせられず、朝夕たゞ鷹の手当のみを事とし給ふ、本多忠勝、かくては当家の破滅近きにありと申せば、いやとよ、わが此頃うつけたる様に見ゆるは、かくせでかなはざればなり、まて今に汝等もよき事あらむと仰せられしが、果して仰の如く符合せしこそありがたけれ、〈永日記、酒井家旧記、〉

中村一氏駿府の城過ぎさせ給ふに、城主中村式部少輔一氏はこの頃膈を煩ひてあれば、此度東征の御供にも、供奉かなはざる由申して在城しける故、村越茂助直吉をもて一氏が病体を尋ね給ふ、一氏頻に御立寄をこひ奉れば、城内に入らせ給ひ、城代横田内膳が宅にて昼の御膳を奉る、一氏は歩行もかなはざれば、人に負はれながらやう御前へゐざり出で見え奉る、はじめの程は一氏が病を申立て、御供を辞し申すかと疑はせ給ひしが、此体を見そなはして、実にも哀と思召し、一氏が手を取らせ給ひ、かくまでの事とは露しろしめさず、今さら驚き思召す由、懇の上意ありて御涙をそゝぎ給ふ、一氏も涙流し、この年頃御隣国をかためて毎度失儀に及びしは、全く主命のもだしがたき所、本意にあらず、こたび病あつしきにより御供にもるゝ事、老後の口をしさ是に過ぎず、愚息一学いまだ幼稚なれば、含弟彦右衛門一栄を御供に奉るよし申し、なからむまでの事を頼み奉る、今まで国境をかため抗衡の力を尽せしは、各其主のためにする所、聊御心にかけさせ給はず、一学が事は、我かくてあらむ程は、心安かるべしとの仰を蒙り、そが家臣新村加兵衛・大藪新八郎・小倉忠右衛門三人を御家人になし申したき由ねぎければ御許あり、後に三人とも江州蒲生郡にて采地を賜ふ、かくて一氏には備前長光の御刀を下され、それより三枚橋の城にて一栄夕の御膳を奉り、一氏が病体、とても出陣はかなふべからず、汝兄が陣代勤むべしとて、信国の御刀を給ひ、これより供奉に列せしとぞ、〈関原大成、東武談叢、〉

本願寺の光佐が先妻の腹に設けし嫡子を光寿といふ、後妻の生みし次子を光照といへり、光佐が死せし後豊臣太閤その後妻が美婦の誉高きを聞及ばれ、召寄せて寵眷せられたるより、光照をもて光佐が嗣とし、本願寺を継がしめ、光寿をば早く隠居せしめ、真常院とて子院の住職となさしむ、本願寺光寿の援助を辞す光寿も我身犯せる罪もあらで面目を失ひしを、君にも兼ねてさるまじき事とおぼしめしたり、さるに此度の戦オープンアクセス NDLJP:1-106の前に及び、光寿京を出で関東へ赴き、金川の御旅館にて見え奉り、愚僧が門徒の者ども美濃・近江の間にあまた候へば、此度彼等に一揆を起させ、御味方をなさしめむと申せば、君その心ばえは奇特に思召せども、一揆の事はまづ無用にいたされ、御僧は是より江戸に赴きて滞留せらるゝとも、又は上方へ帰らるゝとも、心まかせにせらるべしと仰せられたり、其頃黒田長政もまた、一向門徒をして上方に蜂起せしめむと勧め奉りしに、われ賊徒を誅するに、何とて法師の力をからむやとて聞かせ給はず、其後慶長七年、光寿が事不便に思召し、殊更の御執奏にて光寿を門跡になぞらへ、東西本願寺の分立別に東六条に伽藍を営建して、一刹を開かしめ給ひしかば、光寿は弥陀如来の弘慈も是には過ぎじと、世にかしこき事と思ひ、これより此宗東西両派に別るゝ事とはなりしなり、〈岩淵夜話、〉

下野国小山の駅に御陣をすゑられ、景勝追討の御計略をめぐらさるゝ所に、伏見を守りし鳥居彦右衛門元忠が許より注進しけるは、近日石田治部少輔三成、其居城佐和山を出で大阪に赴き、同意の諸大名を語らひあつめ、偏に当家を傾け参らせむ結構とおぼえたり、定めて近日此城に責め寄るべし、城中の御家人皆志を一致にして、堅固に拒ぎ守れば、御心安かるべしとなり、君聞召し驚き給ひ、急に御使をもてこたび従行の諸将を御本陣にめしよばれ、秀吉恩顧の諸将の態度決定井伊・本多の両人もてかの注進状を見せしめ給ひ、三成事、昨年以来の恥辱を雪がむとて、異図を企て諸大名を語らふと見えたり、景勝も定めて同意ならむ、この事彼が心中より出でしはいふまでもなけれど、秀頼が為とある上は、各も其命に背かむ事難し、ましていづれもの人質大坂にあれば、それを捨てゝ家康にくみせられむ事、我ながら心苦しく思ふなり、抑軍国の習にて、けふは味方と見えしも、あすは敵とならむ事めづらしからず、されば今人々大坂にかへられむとも、家康などか怨を挟むべき、速に是より引返して大坂へ赴かるべし、路次の煩いさゝかあるべからずと、辞を尽して仰せらる、その時何れもとかうの御答もせざる内に、福島左衛門太夫正則一人進み出で、内府の仰はさる事なれども、此度の事全く三成が計より出で、天下を乱さむとするにまがひなし、人々はいかにもあれ、正則に於ては内府の御味方して、かの兇徒を誅戮せむとありければ、黒田甲斐守長政傍より、左衛門太夫が申さるゝ如く某等も今更兇徒に与せむ所存かつて候はず、黒田長政の謀議たゞ存亡を御当家と共にすべしとオープンアクセス NDLJP:1-107申しければ、其外一座の面々、いづれもこの人々の如く、御旗下に従ひ奉らむ由、各誓書を奉りけり、此事のはじめ、密に長政を御陣に召して、御密議あらむとせしに、長政とくに正則が陣屋に行きて、さまいひこしらへて後、御陣に参り、かくと申上げゝれば、御気色殊にうるはしく、長政が忠誠にして且才略あるを感賞し給ひけり、かゝれば会議の時に及び、正則一番に御請申し、その外の人々も皆御味方に属せしなり、〈関原大成、藩翰譜、〉

秀康関東を守る上方の軍議已に一決しければ、景勝が押へには結城三河守秀康主を残さるべしとおぼして、松平玄蕃允家清御使として、その旨仰せ遣はされしに、秀康主大に怒られ、上方の戦を打捨て、此表に残りとゞまらむ事思ひも寄らず、たとひ父君の仰なりとも、此儀には従ひ奉りがたしとて、御家臣梶原美濃守・原隼人両人を玄蕃允に差添へて御本陣に参らせ給ひ、上方出陣の事御願あり、君かの両人を召し、三河守が年若き心には、さこそ思はれむも理なれ、御直に仰聞けらるべき旨あれば、いそぎ御本陣に参らせ給へとあつて、参らせ給へば、御対面の上にて仰せけるは、此度上方の敵は何十万騎ありとも、皆鳥合の勢にて何程の事かあらむ、抑上杉が家は謙信入道より已来、弓矢取つて天下に並ぶ者なし、景勝又幼弱の昔より軍の中に生長して、武名遠近に著し、今かれに向ひて容易く軍せむ者あるべからず、さるをおことがかたきにとらむは、此上なきめいぼくならずや、その上此度上方へ向ふ人々、又はその家人の人質みな江戸にとゞめつれば、もし関東の守かたからずば、諸人の心もおのづから堅からずして勇気振ふべからず、彼是につけても、おことをこの地にとゞめずしてはかなはざるなりと宣へば、守殿も終に領承し給ひければ、君も世に嬉しき御様にて御涙を流し給ひ、御みづから御きせなが一領取出し給ひ、扨此鎧は家康がまだ若かりし頃より身に附けて、一度も不覚を取りたる覚なし、父が佳例になぞらへ、今度奥方の大将承つて、名を天下に揚げたまへとて進らせ給へば、守殿も心解けて御心地よく御受し給ひしとぞ、この時本多佐渡守正信、守殿の御側に進みより、よくも殿は御受申させ給ひたり、大殿をして一統の功を立てさせ給ふも、此御受の御一言にて定まりぬ、天晴内府の御子にてましますぞとて、御膝をたゝき立て悦びしとぞ、さて後に守殿にも軍の機要を仰示されしは、景勝もし打つて上るとも、宇都宮の辺にて支へ給ふな、やり過して利根川を越したりオープンアクセス NDLJP:1-108と聞きなば、諸勢一度に押出し、その跡をつけしたはゞ、敵必ず取つて返すべし、其時諸勢を下知して、一戦に雌雄を決し給へと仰せられしとぞ、〈武徳大成記、藩翰譜、〉

津田秀政津田小平次秀政はじめ織田・豊臣両家に仕へ、この時君の御供して小山まで来りしが、上方の注進を聞かせ給ひ、御気色よからず、御側に伺候せし者も何といはむ様もなくて在りしに、秀政進み出で、やがて上方の逆徒も誅伐し、安国寺が調度を没収せられむに、かれが珍蔵せる肩衝の茶入を賜はらば、是をもて朝夕茶事を専らにし、太平を楽まむといひ出でしにより御気色直り、いかにも汝が願をかなへてとらせむと仰せられしが、後御勝利に属しければ、兼ねて御許の如く、かの茶入をば秀政に下されしとぞ、〈家譜、〉

小山の御道すがら近臣に向ひて、われ麾を忘れたり、あれなる竹林に入りて、串になるべき小竹を伐つてこよと命ぜらるれば切つて奉りしに、帖紙を取出で給ひ、御鞍の前輪に当て切裂き給ひ、竹に結ひ付けて二振三振打ふり給ひ、景勝を打麾けむはこれにて足りぬべしと仰せられ、後にまた還御のとき、彼竹林を見そなはし、上方の敵を破らむは、麾も無用なりとて打すて給ひけり、其折東西に大敵起りしかば、人心何となく恐れ憚かる様なれば、かゝる事仰せられて、人心を鎮圧し給ひしなるべし、〈常山紀談、〉

小山より還御の折、洪水にて利根川の舟橋推流しければ、代官等かけ直さむかと伺ひしに、舟橋は全く会津に向ふにより、諸軍の便よろしからしめむ為にかけしなり、上方へ向ふには無用なれば、改架に及ばずと仰ありて、小山と古河の間にある乙女川岸より御舟に召され、西葛西につかせられ、江戸へ御帰城ありしかば、人人その迅速なるに感じ奉りしとぞ、〈士談会稿、落穂集、〉

花房職之花房助兵衛職之といひしは、はじめ浮田黄門に仕へしが、かの家臣等が訴論の事により佐竹義宣に預けられ、此度佐竹が方を遁れ出で御陣に参りければ、君、こたび義宣石田にくみし、打つて出づべきやと問はせ給ふ、職之承り、義宣は極めて持重の人なれば、切つて出づる事あるべからずと申す、さらば義宣かならず出づまじといふ誓状を書いて奉れと宣へば、職之承り、父子の間といへども人心は計り難し、この儀は御許蒙らむとて書いて進らせず、君近臣に向はせられ、助兵衛は兼ねて聞及びし高名の者なるが、将器にあらずと仰せけるを、一座にあり合ふ者、何ゆオープンアクセス NDLJP:1-109ゑかゝる事仰せらるゝかとあやしみ思ひけり、其後職之生涯落魄して終りぬ、後に人に語りしは、かの誓状を奉れと仰せられしは、全く三軍の心を安からしめむ為なれば、書きて奉りし後に、もし佐竹が打つて出でたりとも何か苦しからむ、さるを我心をさなくて、あまりかたくなにいなみて、誓書を奉らざりしこそ今更遺憾なれ、名将の一言半句も疎かには承るまじき事なりといひて、いとくい思ふさまなりしとぞ、〈忠士清談、〉

按に、この職之後に大阪の役まで生ながらへ、松平左衛門督忠継が手に属し、肩輿に乗つて出で拝せしかば、御気色よく、さすが平日武辺をふむゆゑ、老かゞまりても出陣せしは、大剛の者といふべしと御感あり、また其子の池上本門寺に喝食となりて居しを召出され、榊原康政が一族に准らへ、榊原左衛門職直とて台徳院殿につけらる、一旦御気色に違ひけれども、其武功をば忘れ給はざる故なり、

佐野忠成伏見の籠城に、佐野肥後守忠成は、兼ねて後閤の女房たち阿茶の局など預り奉りて、本丸にありしが、大阪の奉行等より申す旨ありしかば、かの人々を伴ひて城を出で、大和路経て相知れる者の方に預け置き、引返して鳥居・内藤等と同じく討死す、此由聞召して、彼わが命をうけて女どもを預りたれば、それを守護してともかくも時宜に応じてよきに従ふべきを、いかなれば己が預りし者をば人手に渡し、そが任にもあらざる籠城して戦死せしは、忠が忠に立たず、惜しき事なりと仰せられけり、かゝる故にや、死後に其禄三千石を収公せられ、子の主馬成職に俸米五百俵賜はりけるとぞ、〈続明良洪範、家譜、〉

小山より江戸へ還御あると直に、上方へ御出馬あらむと一同思ひ居たりしに、御陣触ありし上にて、廿日余御滞留なり、されどその間御家人へ命ぜられしは、何時によらず俄に御出陣あるべきも計らざれば、いづれも檞怠なく相守り、御城の宿直に当りし節は、番所より直に御供せむ心組して上直せよと、その頭々よりいひ渡せしゆゑ、いづれも草鞋路銭まで腰に付けて宿直にいで、又二三日づゝ隔て番士を頭の宅へ呼寄せ、御供の用意油断なき様にいましめしとなり、其折は御玄関の前塀、重門の内には新に鎗立を作らしめ、虎の皮の御長柄・鎧を立ならべ、御書院の床の上には御馬印を立置かれ、即時にも御出陣あるべき様にてありしとなり、オープンアクセス NDLJP:1-110〈落穂集、〉

御出陣の前かた、増上寺存応和尚御前に出でゝ、この度御出馬により、御領内の寺社にて怨敵退散の御祈祷命ぜられむかと伺ひしに、いづれの寺社がよけむと仰せらる、鎌倉の八幡宮こそ第一なれと申す、此神はわが若年の頃より朝夕祈念すれば、家康鹿島明神及浅草観音に祈祷せしむ今改めて祈祷に及ばず、幸ひ霊武の神なれば、常陸の鹿島大明神、仏にては兼ねての祈願寺に申付けたれば、浅草の観世音然るべしとて、両所へわきて祈誠懇丹を抽づべきよし、宮司・別当等へ仰下されぬ、こは鎌倉右幕下平家追討の節の旧躅を遵行せられしなりとぞ、さて九月朔日より祈祷興行し、一七日満願により、両所より使もて符録を奉りけるが、十四日の夕方に岡山の御陣までも参りしに、その日は中村右馬の手の迫合にて御陣混擾しければ、明日奉らむとてひかへしが、十五日は早朝よりの大戦にて其暇なし、十六日の晩方、藤川の台の御陣へ参りて捧げければ、御けしき大方ならず、已に御勝利の上は、両人とも馳せ帰り、此後は怨敵退散の祈を止め、天下安全の精誠を抽づべしと仰下されしとぞ、〈天元実記、落穂集、〉

家康福島正則を疑ふ先鋒の諸将海道打つて馳上る内に、黒田長政には仰聞けらるべき事のあれば立帰るべしと、奥平藤兵衛貞治もて仰遣はされ、藤沢のこなた厚木といふ所にて、藤兵衛追つき其由申せば、長政引返し、其夜御前に出でしに、福島左衛門が心なほ計り難しと宣へば、長政承り、かれ元より石田治部と不和なれば、更に御疑あるべからず、もし別心も候はむには、長政いかにも異見を加へ、御敵にはなし申すまじ、其上にも聞かざらむには、某彼と刺違へむのみ、ともかうも正則が事は長政に任せ給へと申せば、御けしきうるはしくて、長久手の戦に召されし歯朶の御冑に、鞍置ける馬を長政に賜はりけりとぞ、〈校合雑記、〉

岐阜の城攻の検点として、安藤治右衛門定次を遣され、戦訖りて定次江戸へ参り、上方の諸将岐阜を攻落し、合渡の戦にも打克ちしと申上げしかば、合渡より呂久川までの間に討たれし敵の死骸は、いづれの方へ向ひてありしと尋ね給ふ、皆大垣の方に向ひて臥したりといふを聞かせられ、さては味方追討せしに疑なしと仰せられて、御けしきうるはしかりしとなり、〈古事談〉

此巻は会津御追討に下らせ給ひ、下野小山より江戸に還御ありしまでの事を記す、

 
 

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