東照宮御実紀附録/巻七

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東照宮御実紀附録 巻七
 
聚楽の亭にて申楽興行ありしに、主の関白をはじめ、織田常真有楽なども皆つぎつぎかなで、殊に常真は龍田の舞に妙を得て、見る者感に堪へたり、君は舟弁慶の義経にならせ給ひしが、元より肥え太りておはしますに、進退舞曲の節々にさまで御心を用ゐ給はざれば、あながち義経とも見えずとて、諸人どよみ咲ひしとぞ、後に関白此事を聞かれて、常真が如く家国を失ひ、能ばかりよくしても何の益かあらむ、うつけものといふべし、徳川殿は雑技に心を用ゐられざる故、当時弓矢取りてその上に出づる者なし、秀吉家康を評す汝等小事に心付きて大事にくらきは、是れ又うつけものといふしべと、いたく戒めらる、又秀吉夜話の折、近臣等、徳川殿程をかしき人はなし、下ばらふくれておはするゆゑ、親ら下帯しむる事かなはず、侍女共に打まかせて結ばしめらる、この類さまにて、すべて言立つれば応揚すぎたる大名なりといふ、関白、さらば汝等がかしこしと思ふは何事ぞ、武道衆に勝れ、国郡をひろく保ち、金銀のゆたかなるをかしこしとは申すべけれといふ、其時関白、汝等がをかしといふかの人は、第一武略世に並ぶ者なく、その上関八州の主として、金貨も我より多く貯へ置かる、かゝれば汝がをかしと思へるは即ち賢きにて、並々の者の測り知るべきならずといはれしとぞ、〈十談会稿、岩淵夜話、〉

按に、醍醐花見の折、関白が近侍の輩、君の御事いひ出で笑ひ種にせしを聞かれ、家康が芸は三つあり、常人の及ぶ所にあらず、第一は武略衆に勝れ、第二は思慮のよき、第三は金銀を多くもてり、此三つは人に咲はるまじき大芸なり、汝等何を咲ふといはれしかば、近臣ども、徳川殿はなにがよければ、いつも殿下の贔負せらるゝぞといひしとぞ、これも本文と同じ様の事をさまに伝へしなり、

前田利家織田秀信の座次を争う文禄元年正月二日、聚楽の邸にて謡初の式行はる、着座の次第は第一秀次、第二岐阜中納言秀信と定めらる、加賀亜相利家云はく、秀信は正しく織田殿の孫なれば第一たるべし、今日の儀注はたが書きしといへば、石田三成、某殿下の仰を奉りてかきしといふ、よて利家秀吉へその由をいふ、秀吉そは理ながら、秀次は我甥にしてゆくは養子にして家継がせむと思へば、第一座に定めしなりとて聴入れオープンアクセス NDLJP:1-83ざれば、利家は心地あしとて座を起たむとす、君その様御覧じ、利家しばし待たれよとありて、秀吉へ宣ひしは、殿下そのはじめ仮にも秀信の後見せらるゝとありしをもて、織田家の旧臣もみな帰服せしなり、今利家が秀信を上座に立てむといふも旧義を忘れざる心より出で、あながち秀信に左袒するにもあらず、かゝらば秀信をば別に奥方にて礼拝盃酌の儀を済ませられ、表様にては秀次を一座につけ給はゞ、人心・事体に於て両ながらその宜を得むかと仰せられしかば、太閤もその允当の御処置に感じ、仰の如くせられて、謡初の式事故なく遂げ行はれしとぞ、

〈武辺咄聞書、〉

関白ある時、君をはじめ毛利・宇喜多等の諸大名を会集せし時、わが宝とする所のものは虚堂の墨蹟・粟田口の太刀などはじめ種々かぞへ立て、さて各にも大切に思はるゝ宝は何々ぞと問はれしかば、毛利・宇喜多等所持の品々を申しけるに、君ひとり黙しておはしければ、徳川殿には何の宝をか持たせらるゝといへば、君、某はしらせらるゝ如く、三河の片田舎に生立ちぬれば、何もめづらかなる書画調度を蓄へし事も候はず、さりながら某がためには、水火の中に入りても命を惜まざるもの、五百騎ばかりも侍らむ、家康の宝物これをこそ家康が身に於て第一の宝とは存ずるなりと宣へば、関白いさゝか恥ぢらふ様にて、かゝる宝はわれもほしきものなりといはれしとぞ、また秀吉ある時君に尋ね進らせしは、応仁このかた乱れ果てたる世の中を大方伐ち従へつれど、未だ諸大名己がじゝ心異にして、一致せざるをいかゞせむとあれば、君、おほよそ万の事、皆をはりはじめ相違なきをもてよしとす、義理の当る所は、なべて人の従ふものなりと御答ありしとぞ、〈寛元聞書、武野燭談、〉

細川忠興入道三斎が年老いて後、大猷院殿の御前にて、昔今の物語ども聞え上げし中に、そのかみ入道伏見の城にてあやうき事の限を見侍りしといへば、いかなる事と宣ふに、いつの年にかありけむ、豊臣殿下の前にて、東照宮をはじめ諸大名列席せし時、殿下の宣ふは、われ昔より今まで、弓箭の道に於て、一度も不覚を取りし事なしと広言いはれしに、誰か殿下の御威光に服せざるもの候べき、いづれも上意の通と感称してあり、其時君ひとり御けしきかはり、殿下の仰なりとも事にこそよれ、家康秀吉の威を挫く武道に於ては某を御前にさし置かれて、かゝる御言葉承るべくも候はず、小牧の事は忘れさせ給ふかとて立あがりて宣へば、一座の者みな手に汗を握オープンアクセス NDLJP:1-84り、すはや事こそ起れとあやぶみしに、関白何ともいばず座を立ちて内に入りぬ、さてありあふ人々、只今殿下の仰は実に一時の戯言にて侍れば、徳川殿さまで御心にとめ給ふべからずといへば、いや武道の事は、いかに殿下なりとも、そのまゝ捨置くべきにあらず、今日より殿下の仰に違ひ御勘事蒙るとも、いさゝかくゆる事なしと宣ふ、とかうして関白また出座せられ、重ねて物語どもありて、さきの事いさゝか詞色にもかけざる様なれば、いづれも安堵してまかでしなり、その頃入道もまだ年若き程の事にて、今に思出づれば、何となく胸さわぎせられ侍るといへり、こは秀吉、君の御様試みむとて、わざとかゝる広言いはれしに、君たゞ余人の如く敬諾のみしておはせば、かへりて関白のたのみがたなき人と思ひ給はむとおぼして、武道の事には不測の禍をもかへりみず、たれなりともその下に立つべからざる御実意をしらしめ給はむとて、御気色までもかはらせ給ひしならむ、魏の曹操が劉備に向ひ、天下の英雄は只御辺とわれなりといひしに、劉備が飯くひてありしが、持ちし箸を落せしと同じ様の事にて、姦雄の伎倆も天授の明主にあうては、其術を施す事を得ざるにぞ、〈紳書、〉

関白伏見にて古今の名将の上の事をとり評論せしに、金吾秀秋、昔よりいひはやす如く、源義経・楠正成などこそ誠の名将とこそいふべけれといへば、関白、正成は戦の利なきを知りながら、一命を抛ちて湊川にて討死せしは忠臣といへども、己が諫の聴かれざりしをふづくみて、死をいそぎしに似たり、義経は梶原が姦悪をしらば、早く切つても捨つべきに、すて置きて後害を蒙りしは智といふべからず、昔は知らず今の世にては、義経正成以上の名将家康に過ぎたる名将はあらじといはれしとぞ、また関白諸大将の刀をとりよせ、われ其刀の主をあてゝ見むとて、彼よ是よと名ざゝれしが、一つも違ふ事なし、諸将の性格前田玄以法印大に驚き、何をもてかく御覧じ分けられ候にやといへば、関白、別にかはれるに術もなし、先づ秀家は美麗を好む性質なれば、金装の刀はその品としらる、景勝は長きを好めば、寸の延びたる刀これならむ、利家は卑賤より起り、数度の武功を重ねて大国の主となりし人なれば、古へを忘れずして革柄を用ゐるならん、輝元は数奇人なれば、こと様の装せし品、其差料ならむ、江戸の亜相は器宇寛大にして、刀劔の製作などに心用ゐる人ならねば、元より修飾もなく美麗もなきなみの品、その佩刀ならむと思ひて、かくは定オープンアクセス NDLJP:1-85めつれといはれしとぞ、〈古老噺、常山紀談、〉

伏見にて太閤、君をはじめ前田利家・蒲生氏郷等を饗せられ、それより聚楽にて遊讌し、かへさに君の御亭に立よられむとあれば、君はかねてその御心がまへし給ひ、御亭の内清らかに洒掃せしめ、御みづから茶一袋を出して、茶の事奉る守斎といふ者に挽かしむ、其日にもなりぬれば、君はとく聚楽よりまかで給ひ、茶を取よせて御覧あるに、わづか計り残りたり、こはいかなる事と御気色あしゝ、守斎申すは、水野監物忠元が密に給はれりといふ、監物も美少年にして御うつくしみ深き者なり、よて君また一袋を取出し、こたびも休閑といへる茶道に授けしむ、加々爪隼人政尚、殿下は只今にも渡御あらむ、遅々しては間に逢ふまじ、最初の残茶少しなりともすゝめ奉らむといふを聞し召し、家康の篤実やあ隼人、汝も年頃われに近侍してありながら、心掛の薄き事よ今にも殿下来臨ありて、茶を進むるに及ばずして帰られむともせむかたなし、人の飲あませしものを進めむは憚ある事ならずや、其志にては我に奉仕のさまも思はしからずとて、いたく誡められしとぞ、〈砕玉話、〉 豊臣秀長・織田信雄など同じく聚楽の亭にて夜中に遊讌ありし時、蠟燭の心はねしに、君は何げなくおはせしが、家康の寛宏秀長は驚き座を立ちし様を御覧じ微笑し給ふ、秀長己が怯劣を笑はせらるゝかと思ひ、いかれる顔して、某が火をよけしを、心弱くおぼして笑はせ給ふやといふ、君、御辺や某などは、一大事のあらむ時は、殿下の御先をも承るべき者の、かゝる細事に心用ゐてなるべきか、まだ若年におはせば、さる事までおぼし至らぬなるべしとて、更にあげつらふ様にもおはしまさゞりしゆゑ、秀長もかへりて恥ぢらいてやみしとぞ、〈岩淵夜話、〉

曽呂利件内太閤が伽の者に曽呂利件内といふいと口ときをのこあり、折々は君の御館へも参り、御談伴に候したるが、或時伴内、世の中に福の神なりとて、人の敬ひまつる大黒天の事を申侍らむ、まづ人間に食物なければ、一日も生きてある事かなはざるゆゑ、大黒はその心持にて米俵をふまへ居たり、さて食ありても財なければ、用度を弁ずる事ならざるをもて、大黒は袋をもち、そが口を左の手にて括り、無用の事には財を費すまじとかまへたり、さりながら財を出さでかなはざる時は、手に持ちし小槌をもて地を叩けば、何程もおしげなく打出すなり、又夏冬ともに頭巾を深くかうぶりて居るは、己が身分を忘れ、かりにも上を見るまじとてなり、すべてオープンアクセス NDLJP:1-86人々もこの心がまへせば、永く福禄を保つべしとの心にて、福の神とは申すなりといへば、君、汝がいふ所よくその意を得たり、されど大黒の極意といふ事はいまだ知るまじ、語りて聞かせむかのいつも頭巾をかぶりてあれども、こゝが頭巾をぬかでかなはざる時ぞと思へば、その頭巾を取つて投すて、上下四方に目を配り聊さはるものなからしめむが為に、常にはかぶりつめてあるぞ、是ぞ大黒の極意よと宣へば、伴内も盛旨の豁大なるに感じ、後太閤の座にありて此事いひ出でしに、太閤、今の世にもわた持のいき大黒があるを知りたるかと尋ねらる、伴内心得ざる由申す、太閤、いき太黒とは徳川の事よ、汝等が思惟の及ぶ所ならずといはれしとぞ、〈霊巌夜話、〉

山名禅高山名禅高聚楽にて晴の事ある時、いつも肩の綻びたる茶染の羽折を着して候す、或日禅高に向はせられ、御辺の羽折は殊の外に折切れて見苦しと宣へば、禅高、是は故の光源院将軍〈義輝〉の給はりし品ゆゑ、珍重にして表立たしき時のみ用ゐつれども、年月を重ねしゆゑ、かく折切れぬといへば、よくも旧を忘れぬ朴質の人かなとおぼして、わきて御懇遇あり、屢御館にも伺公せり、ある日禅高の申すは、朽木卜斎は殊に粗忽の人なりといふを聞しめし、卜斎が粗忽は皆人の知る所なり、御辺の粗忽は卜斎に超えたりと我は思ふと宣へば、禅高をはじめ外にありあふ者も、いかなる尊慮かといぶかしく思ひしに、卜斎は粗忽ながらも祖先已来領し来りし朽木谷を今にたもてり、御辺が祖は、六十六州の内にて十一箇国を領せられしをもて、昔より六分一殿といへば、山名が家の事と世にもいひならはせり、さるをみな失ひはて、今寄寓の身となりて、かしここゝにさまよはるゝは、天下の粗忽これに過ぎたるはあらじと思ふなりと仰せけれど、禅高はさまで羞赧の色もなく、げに尊旨の通りにて侍れ、何がし今は六分一の望もなく、せめて祖先の百分一殿ともいはれたしと申上げければ、御笑ひありしとぞ、又天正十六年の頃、君御上京ありて斯波入道三松が家へ渡御ありし時、禅高も供奉せり、禅高三松へ応接の様、あまり慇懃に過ぎしかば、還御の後禅高を召し、斯波が家は代々足利の管領といへども、其祖は足利の支族なり、汝が祖の伊豆守義範は新田の正嫡にして、近き頃まで数箇国の大守たり、今昔の如くに非ずとも、いかで足利の家人に対してかく厚礼をなすべきや、この後は我に仕へ忠勤を尽し、重く家国を振起すべしオープンアクセス NDLJP:1-87と仰せければ、禅高も殊にかしこしと思へりとか、〈霊巌夜話、出名譜、〉

家康の明察聚楽にて談伴のともがらあまた太閤の前に侍して、よも山の物語せしに、一人、世の諺にいふ親に生れまさる子は稀なりといふは尤の事なりといふ、太閤聞きて、われもまたかくの如しといはる、何れも解し兼ねしに君は打うなづかせ給ひ、いかにも仰の通と宣へば、太閤、徳川殿しばし待たせ給へ、余の人々はいかにといへば、何れもみな頭もたげて案じ屈したり、太閤、われらが親なる者は、知らるゝ如く極めていやしの者なりしが某を子に持たれたり、某は親に劣りて、子に事欠くよといはれしとぞ、〈霊巌夜話、〉

家康秀吉の履を直す浮田黄門が許にて秀吉はじめ申楽見られしに、秀吉庭上に下らむとせられし時、君先立ちて下り立たせ給ひ、秀吉が履を直し給へば、秀吉手をもて君の御肩をおさへ、徳川殿にわが履を直させる事よといはれしとぞ、〈老人雑話、〉

奥の九戸に一揆起りし時、武州岩附の城まで御動座あり、井伊直政を召して、汝は軍装のとゝのひ次第出陣し、蒲生・浅野に力を添へ、九戸の軍事を相計るべしと命ぜらる、この事承りて本多佐渡守正信御前に出で、直政は当家の執権なれば、此度の討手にまづ彼より下つかたの者を遣され、始に重臣を用うそれにて事弁ぜざらむ時にこそ直政を遣されば、事体に於ても允当ならむと申す、君、そは思慮なき者のいふ事なれ、わが婿にてありし北条氏直などが、かゝる事をばすれ、いかにとなれば、事のはじめに軽き者を遣し、埓があかずとて又重き者をやらば、はじめに行きし者面目を失ひ、討死するより外なし、されば故なくして家臣を殺さしむる、惜しむべき事ならずやと仰せられしとか、後年筒井伊賀守定次、罪ありて所領収公せられし時、そが居城伊賀上野の城受取のため、本多中務大輔忠勝・松平摂津守忠政始め数人遣さる、其折の仰に、伊賀守は江戸にあり、上野の城は家人等のみ守り居れば、かく多人衆を遣すに及ばざれども、事のはじめにおごそかにせし事を今更手軽くせむも、事体に於て終始符合せず、物に譬へば、膝をかくす程の川をかち渡りするに、高尻かゝげて渡るはあまり用意に過ぎたれど、滔溺の患はなしと仰られしとぞ、〈岩淵夜話、〉

正信家康を誡む内府に進ませ給ひし後、太閤が饗し奉らむとて、こたび既に任槐の上は、御調度などもなみの品用ゐ給ふべきにあらずとて、葵の御紋と桐をまきたる懸盤をオープンアクセス NDLJP:1-88製して進らせられければ、かしこきよし謝し給ひ、御亭に還らせられし後、本多正信を召し、人の我をのするには、それと知りてものりたるがよきか、はづしたるがよきかと仰せらる、正信、先年小笠原与八郎が御方に参りし時、加恩給はりし事は忘れさせ給ふかといひしに、君うなづかせ給ひしとぞ、こは小笠原はじめ遠江の城飼郡を領して、頗る大身なりしが、当家に参りし本意は、此方の隙を窺ひ、遠州一国を己が物にせむと思ひて、帰降せしをとくに察し給ひしゆゑ、姉川の役に小笠原に先鋒を仰付けられ、必至の戦をせしめられしなり、これ彼が我をはからむとするに、わざとはかられし様して、かへりて彼を制馭し給ひしなり、こたびも豊臣家 待遇に乗りて、かの進らせし調度を用ゐ給ふは、小笠原が御加恩に乗りて危き戦せしと同じ例なりと、正信が思ひはかりて申せしなりとぞ、〈紀伊国物語、〉

豊臣秀次の事変と家康関白秀次違乱の前、江戸へ下向し給ふに臨み、台徳院殿及び大久保治部大輔忠隣に仰ありしは、わが下りし後に当りて、太閤父子の間に必ず争隙起るべし、さらむには太閤が方に参るべしと仰せければ、台徳院殿は謹むで御承し給ひ、忠隣は当今の静謐なるに、何事の起るべきかと不審に思ひしが、果して秀次叛逆の聞えありて、台徳院殿を己が方へ迎へ奉り、是を質となして秀吉へいひ開きせむとはかりしに、忠隣兼ねて心得居りし事なれば、よき様に扱ひて、太閤が方へいれ奉りし故、何の御恙もましまさで、太閤も殊に悦ばれしなりこれも御明識にして、よく末来を察知し給ひしゆゑ、かゝる不慮の変をも免かれ給ひしなり、秀次の変ありし後御上洛ありしに、太閤待ち迎へられ、御手を取りて此度の大事、徳川殿上洛を待付けて処置せむと思ひしが、遅々してかなはざる事ゆゑ、形の如く申付けぬといへば、君の仰に、殿下こたびの御はからひ、某はよしとも思ひ侍らず、関白もし異慮あらば、何れへなりとも配流して、番衛附置かればたりなむ、さるをかくはかなき事になされしは、惜しき事ならずや、殿下いま春秋已に長け、御子秀頼ぬしまた御幼称におはせば、もし思はざる変事の出来らむに、関白かくしても世におはさば、世の中俄に乱るゝ事もあるまじきにと宣へば、太閤何ともいはで、此後も世の中の事みな徳川殿にまかするといはれしとぞ、〈寛元聞書、〉

朝鮮征伐と家康の意中江城におはしませし時、豊臣家の使来りて、朝鮮征伐の事聞え上げしに、書院に座し給ひ、何と仰せらるゝ旨もなく、たゞ黙然としておはしぬ、本多正信折しも御前オープンアクセス NDLJP:1-89に侍しけるが、君には御渡海あるべきやいかゞと三度まで伺ひければ、何事ぞ、かしがまし、人や聞くべき、箱根をば誰に守らしむべきと仰せられしかば、正信さては兼ねてより盛慮の定まりし事よと思ふて、御前を退きけるとぞ、〈常山紀談、〉

大番組の濫觴朝鮮の役に初めて大御番五組を定められ、一番は内藤紀伊守信政、二番同左馬助政長、三番永井右近大夫尚政、四番粟生新右衛門某、五番は菅沼越後守定吉なり、いづれも麾とる事を許さる、これぞ今の大番組の濫觴なり、後慶長十二年に至り、大番頭をして伏見城を戌らしめ、番頭は一年にて交替し、番士は廿四月にて交替せしむ、之を其ころ三年番といひしとぞ、〈貞享書上、卜斎記、〉

名古屋陣の折、行軍の次第、第一は加賀亜相利家、第二は当家、第三は伊達政宗、第四は佐竹義宣と定めらる、其後また太閤の内意にて、当家の次は義宣、其次政宗とくりかはりしにより、政宗本意なく思ひ、その由歎き訴へければ、家康伊達政宗の為に尽くす君もことはりと聞召し、政宗、佐竹に拘はらず、わが陣後に押すべし、もし谷むる者あらば、家康が命ぜしと申すべしとありて、政宗仰の如く御跡に従ひ奉る、太閤、石田三成もて、徳川殿いかなる故もて、兼ねての軍令に違はれ、政宗を後に附けらるゝとなり、君富田信濃守知勝をして答へ給ひしは、兼ねてこなたの後陣は本多中務に申付けしが、存ずる旨ありて中務を先手に立て、その代に政宗を後陣に押させつるなり、抑去年奥の岩出山佐沼の城経営の折、政宗若年といひ且つ遠国者にて何事もういういしければ、万事につきて家康が指諭を頼むとありし故、こたびも家康が後に引付け過誤ながらしめむ様にせむためなりと仰せられしかば、太閤も聞分けられ、いかにも亜相申さるゝ所さるべき事なりとて、はじめに合せし如く、当家の次に政宗と定められぬ、政宗君の御一言もて、本意の如くなりしかば、御思をかしこむ事大方ならず、伊達者此時政宗が総勢の装いかにも異様なりしかば、京童ども伊達者といひしより、後々までも平常にかはり奇偉の装するを、伊達をすると、俚言にもいひならはせしとぞ、〈貞享書上、〉

上杉景勝利家を討たむとす名護屋に赴かせ給ふとて、安芸の広島に宿らせ給ふ時、上杉景勝が臣瀉上弥兵衛・河村三蔵・横田大学の三人打連れて御旅館の前を通り行くに、君楼上より大声を発せられ、横田大学と呼ばせらる、大学あふのきて見奉れば、汝とみの事なくばこゝに上れと宣ふ、大学かしこまり、二人をやり過し、己れ一人楼に上りて謁し奉る、汝オープンアクセス NDLJP:1-90が主の景勝は前田利家を討たむとて、位次の先従を諭ずると聞く、いらざる事なり早くこの旨直江山城に申して、景勝に諫をいれよと宣ふ、大学速に立かへり、直江にかくと申しければ、兼続も景勝をいさめけるに、景勝も盛慮のかしこきを感じて、その企はやみけるとぞ、かく他家の事までも御心にとめられ、あしさまの事はいましめ諭されしゆゑ、御徳に懐き従ふ者、年月にそひて多かりしとなむ、〈校合雑記、〉

秀吉親ら朝鮮に渡らむとす朝鮮に渡りし軍勢、永陣思ひ屈して、戦の様はかしからざる由聞えければ、太閣諸大名をつどへ、かくては合戦いつはつべしとも思はれず、今は委吉みづから三十万の大軍を率ひて彼国に押渡り、利家・氏郷を左右の大将とし、三手に分れて朝鮮はいふに及ばず、大明までも責め入り、異域の者悉くみな殺しにせむ、日本の事は徳川殿かくておはせば心安しとありければ、利家氏郷等上意の趣かたじけなき由いふ、其時君にはかに御気色損じ、利家・氏郷に向はせられ、某弓馬の家に生れ、軍陣の間に人となり、年若きよりいまだ一度も不覚の名を取らず、今異域の戦起りて殿下の御渡海あらむに、某一人諸将の跡に残りとどまつて、徒に日本を守り候はむや、微勢なりとも手勢引連れ殿下の御先奉るべし、人々の推薦を仰ぐ所なりと宣へば、関白大に怒り、おほよそ日本国中に於て、秀吉がいふ所を違背する者やある、さらむには天下の政令も行はるべからずとあれば、君、尋常の事はともかうもあれ、弓箭の道に於ては、後代へも残る事なれば、たとひ殿下の仰なりともうけがひ奉ること難しと宣ひはなてば、一座何となくしらけて見えしに、浅野弾正少弼長政進み出で、徳川殿の仰こそげに尤と思ひ候へ、此度の役に中国・西国の若者どもはみな彼地に押渡り、殿下今また北国・奥方の人衆を召具して渡海あらば、国中いよ人少になりなむ、その隙を伺ひ異域より責め来るか、また国中に一揆起らむに、徳川殿一人残りとゞまらせ給ひ、いかでこれを鎮め給ふ事を得む、さらばこそ渡御あらむとは宣ふらめ、浅野長政之を諫む長政が如きも同じ心がまへにて侍れ、総て殿下近頃の様あやしげにおはするは、野狐などが御心に入替りしならむと申せば、関白いよ怒られ、やあ弾正、狐が附きたるとは何事ぞとあれば、弾正いさゝか恐るゝけしきなく、抑応仁このかた、数百年乱れはてたる世の中、今漸く静謐に帰し、万民太平の化に浴せむとするに及び、罪もなき朝鮮を征伐せられ、普く国財オープンアクセス NDLJP:1-91を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ、諺に人をとるとう亀が人にとらるゝと申す譬の如く、今朝鮮をとらむとせらるゝ内に、いかなる騒乱の出で来て、日本を他国の手に入れむも計り難し、かくまで思慮のなき殿下にてはましまさゞりしを、いかでかくはおはするぞ、さるゆゑに狐の入替りしとは申侍れといへば、関白、事の理非はともあれ、主に無礼をいふ事やあるとて、已に腰刀に手をかけ給へば、織田常真・前田利家などおしふさがり、弾正そこ立てといへども退かず、某年老いて惜しくも侍らぬ命を、めされむにはめされよとて座を立たねば、君、徳永・有馬の両法印に命じて、長政を引立て次の間につれ行きて事済みけるとなり、秀吉も後には悔い思ひけるにや、みづから渡海の儀はやみけるとぞ、〈岩淵夜話別集、天元実記、〉

秀吉軍事を家康に託して帰洛すこの陣の中頃大庁病あつきよし聞えて、秀吉帰洛あるべしとするに及び、君に向ひ、此度異域征討の半ばなれど大庁の病体心もとなければ、しばらく帰京する所なり、朝鮮の事は徳川殿に任せ置けば、いか様の事出来るとも人の意見をとはるゝまでもなし、はる浪花まで議し示さるゝにも及ばず、御心ひとつもてさるべく決せられよとありて、浅野弾正長政はじめ在陣の諸将を呼寄せ、只今大納言に何事も頼み置きたりとて、其趣をいづれもよく承り置きて、大納言の指魔に違ふ事なかれとて、太閤は直に帰洛せられしなり、こゝに於て人々みな太閤の深く君を信じ奉りしゆゑ、かゝる重事をも委任ありしとて、愈当家へ心を傾けし者出来しとぞ、〈清正記、〉

名護屋陣中にて、当家の御陣所の前に清水湧出で、外の陣所よりも人々来て是を汲めば、小屋を建て番人を附けて守らしめらる、其頃久しく旱にて水乏しくなりしかば、後には外人に汲ませざりしを、加賀利家の家人来りて強ちに汲取りしかば番人制すれども聴かず、かへりて悪言などいひ出でしにより闘諍に及び、追々侍分の者いでゝ両方三千ばかりの人になり、今にも事起るよど見えし時、本多忠勝・榊原康政二人出で制す、忠勝は渋手拭にて鉢巻し、康政は大肌脱ぬぎ、汙になりてとゞむれば漸にしづまりぬ、君にははじめよりこの様見て、何と仰もなくておはせしが、後に康政が御前に出でし時、汝頃日当陣の見廻として、遥々秀忠より使に越されしゆゑ、何ぞもてなしもあらむかと思ひ、珍らしき喧嘩をさせて見せたれ、さぞ労したらむと、咲はせ給ひながら仰せられしとぞ、この事太閤聞かれしにオープンアクセス NDLJP:1-92や、幾程なく利家には陣替せしめられしとなり、〈天元実記、〉

此巻は豊臣家聚楽の亭におはしましての事どもより、名護屋陣の事までをしるす、

 
 

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