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東照宮御実紀附録/巻十九

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東照宮御実紀附録 巻十九
 
明主は短を思ひてますよく、暗主は短を護して益愚なりと、古人の詞にも申置きしごとく、人主短を護し諫を拒ぐときは、臣僚口を杜ぎ阿順するをつとめとす、これ国家滅亡のはじめとすべし、我君にはよく人言を納れさせ給ひ、いさゝかの事にても、悪しとだに御心づけば、忽に改めて善にしたがひ給ひし御事は、実に流るゝがごとしなどいひしごとくにて、少しも囘護の念などおはしまさゞりき、三河にて一向乱のとき、一向宗一揆の処分かの宗門にくみせしものども、やゝ本心にたちかへり、帰降せむと思ふものども出来て、蜂屋半之丞貞次もて大久保左衛門忠佐・同新八郎康忠にたより、某はじめいづれも累世厚恩の主君にむかひ、何の御怨ありて、弓をひき鋒を変へむ心はなかりしに、菅沼定顕があまり情なき処置、かつは酒井正親が偏頗の所為より、やむ事を得ずして、かゝる叛逆の名を蒙りし事、今さら悔いてもかひなき事ながら、此後は土呂・針崎・野寺の三寺を前々のごとくに建て置かれ、宗門の徒もそのまゝ御ゆるし蒙らば、いづれもかしこみ奉はらむといふ、大久保も、これ容易ならざる事とは思ひつれど、岡崎へ参り御気色とりしに、帰参の事は聞召しとゞけられぬ、但し寺々をば撤毀し、逆徒の分もその罪の軽重を正して、それに御沙汰あらむとの仰なり、両人も此上何と申上ぐべき様もなくてありしに、忠佐等が叔父忠俊入道常玄すゝみ出で、尊慮はさる事ながら、夫にては事速に平ぎがたし、たゞかれらが申こふまゝに御ゆるしあつて、一日も早く他国へ御勢をむけられ、御国勢の強大にならむ事を希ふ所なり、是こそ今日の急務なれ入道が親族も、日頃の戦に一命を隕すもの少からず、全く上の御為なりとおもへば、いさゝか悔ゆる事なし、まげて某が一族等の褒賜にかへられ、彼等が申す所、御ゆるしあれと申上ぐれば、老人がかくまでいさむるを、むげに聞入れざらむも情なきに似たり、こたびの事老人にめむじてゆるすなり、汝等よきにはからへと仰なり、常玄また、既に門徒等が申す所ゆるさせ給ふからは、彼等を御先手として、上野の城を攻めしめ、吉良・荒川をうち滅し、西三河を平げ給へと申せば、これも理と聞召して、かたのごとく御沙汰ありて、不日に帰降の事とゝのひしかば、門徒のオープンアクセス NDLJP:2-68輩、御仁恩の厚きをかしこみたてまつる事、大方ならざりしとなむ、〈落穂集、大久保譜、〉

鈴木久三郎の諫言いまだ岡崎の城におはしましけるに、御賓客あらむ時の御もてなしのためにとて、長三尺ばかりの鯉を三頭、御池にかひおかせられしを、鈴木久三郎といへる者、ひそかに其鯉一頭とりて、御厨のものにあつらへ調理させ、しかのみならず、其頃織田殿より進らせられたる南部諸白の樽を開きて、同僚うちより酒宴せしを、同僚等、酒も鯉も上より賜はりて饗する事よと心得て、各よろこびあひて沈酔しまかでたり、其後御池の鯉一頭うせたりと御覧じ付けさせ給ひて、預りの坊主をめして聞かせらるれば、久三郎、さる事して、我々もその饗に預りたりと申したるにより、聞召し驚かせ給ひ、御厨のものをたゞされしに、まがふべくもなかりしかば、大に御けしき損じ、久三郎を御成敗あるべしとて、長刀の鞘をはづし、広縁につとたち給ひ、久三郎を召しけるに、久三郎少しも臆せず、露地口より出で、三十間ばかりも進み出でしを御覧ぜられ、久三、不届もの、成敗するぞと、御詞かけさせらるれば、久三郎はおのれが脇差を取つて、五六間あとへ投すて、大の眼に角をたてゝ、恐入つたる申事には候へども、魚鳥のために人命をかへらるゝといふ事はあるべきか、左様の御心にては、天下に御旗を立て給はむ事は、思ひもよらず、さらばとて、思召すまゝにあそばされ候へと、諸肌ぬぎて御側に近くすゝみよる、其体思ひ切つてみえけるに、御長刀をからりと投すて給ひ、汝が一命ゆるすぞとて、奥へ入らせ給ひしが、やがて久三郎を常のおましにめし出して、汝が申す所ことわりと聞召されたり、よくこそ申したれ、汝が忠節の志満足せり、それにより、さきに鷹場にて鳥をとり、城溝にて魚を網せしものをとらへおき、近日には刑に行ふべしとめしこめ置きしが、汝が今の詞に感じ、これもゆるすぞと仰せければ、久三郎も思ひの外なる事と、かへりて恐れいり、卑賤の身をもて、恐をもかへりみず、聞えあげし不礼をもとがめ給はず、却て愚言を用ゐさせ給ふ事、たぐひなく有難し、これ全く、ゆく天下をも御掌握あるべき、寛仁大度の御器量あらはれ給ひぬとて、感涙袖を沾し、しばしは其座を退く事を得ざりしとなり、はるか年経て後、台徳院殿、太田某に五百石の恩禄下されむとの仰ありしを、いかなる故にや、御折紙を擲返しまかでしかば、大にいからせ給ひ、死刑にも処せられむとて、諫臣は国家長久の基本井上河内守正就もて、駿河へ伺はせ給ひしに、聞召して、これは天下長久の基なり、凡そオープンアクセス NDLJP:2-69賞罰の当らざるは、衆怨の帰する所なり、太田が無礼と知りつゝ、かゝる挙動せしは、己が身を抛ちて、将軍を諫むるの下心ならむ、主の怒を侵して、君を正し救はむとするは忠臣なり、ほめてつかはすべし、将軍もかゝる事まで我に問ひ示さるゝは、機務に心をつくさるゝといふべし、君臣共に其職に怠らざれば、長久の基とこそ覚ゆれ、これにつき、そのかみわれ岡崎にありしとき鈴木久三郎が無礼を怒り、誅せむとせしに、かれがいさめによりて、わがあやまちを改めし事のありしとて、この事語り出で給ひ、太田にも千石ましたまひて、そが志にむくはれよと仰せて、正就にも御刀賜ひ、使節の労を慰せらる、正就江戸にかへりて其旨申上げしかば、台徳院殿も御庭訓のかしこさを感じ給ひ、太田に禄千石給ひ、正就には、汝によりて承順の道を知り、かつ賞罰の正しきをもわきまへたりとて、是も御太刀を下されしとなむ、とりたぐひなき御美事なるにぞ、〈常山紀談、岩淵夜話別集、〉

家康喜びて諫言を聴く浜松の城にましませし時、ある夜外様の士三人御前にめして、仰蒙る事ありて退出し、その中に一人とゞまりて、懐より一封の書を取出して、みづから封をきりて奉れば、何ぞと仰せられしに、これは某年ごろ諫まゐらせむと存ずる所を書連ね置きしが、今日よき折からなれば奉るなりと申す、殊に御心地よげにて、それにて読み候へと仰せらる、一条読終る度毎に、申す所ことわりにこそと仰ありて、十余条をよみはてゝ後、思ふ事申出でむは、此度に限るべからず、此後ももし諫めむよおもふ事は憚あるべからず、汝が志のほど、神妙の至なりと感じ仰下されしかば彼者悦びかぎりなく、拝謝してまかでぬ、そのとき御傍に本多佐渡守正信侍しけるが、唯今の申し条、いかにや聞きしと仰ありしに、正信承り、彼が申す所の如きは、事皆鎖細にして、国家の大勢にあらず、君などの用ゐさせ給はむ事は、一条もなくおばえ候と申上げしかば、御手をふらせ給ひ、いや是はかれが智を竭しておもひはかりし所なり、其身智の足らざるはいかにせむ、彼年頃時を得て我をいさめむと思ひし心こそ有難けれ、すべて世の人、自らその身の過を知る事、いとかたきわざなれ、あやまちと知りなば、たれかあやまつべき、よしと思ひて、心のままにふるまふ所に、あやまちはあるなり、品いやしき人は、親族・朋友などそれしたしくなりては、かたみに諫あらそふ事あれば、あやまちとしりて改むる事あり、これいやしきが一の益なり、尊貴のものは、一族も交うとく、朋友とするものオープンアクセス NDLJP:2-70なし、朝夕眼前に伺候する者は、皆家人ばかりなれば、いかにして主のこゝろにたがはざらむことをのみむねとし、主の道を匡し救はむとおもふ者あらむや、たとへたまさか身を捨ていさめむと思ふものあるも、其あやまち大なる事をこそ申さめ、少しの事ならむには、まづそのまゝにして申さぬものなり、凡そ少しなるが積りてこそ大なる過になれ、その過既に大なるにいたりては、いかに悔ゆとも、およびなき事に至るものなり、それを我聞くほどの事、みな耳に逆ふ事なければ、一生我にあやまちありといふ事しらで過ぐる、これ位高き者の第一の損なり、古より家を亡し国を失ふたぐひ、皆諫を聞く事なくて、我過失をしらざるがいたす所にあらずや、此事を思ふに、たとへいかなるひがごとならむにも我を諫るとあるは、みな忠言とこそ思ふべけれと仰せければ、正信もげに人君の大度、ありがたき御心かなと感服し、老後に至りても、常にその子弟にむかひ、この事を語り出で、涙をながす事しきりなりしとぞ、〈逸話、藩翰譜、常山紀談、〉

本多重次の諫言天正十三年三月のころ、御背に癰を発し給ひけるを、小姓共に命じ、蛤の貝もて挟み、膿血をしぼらせ給ひけるより、大にとがめ給ひ、いよ脹れ出で、御なやみ重らせ給ひ、手をつくる事もならず、かくては御みづからも御快ならせらるまじきと思召しけるにや、老臣共をして、内々後の事ども仰含められしかば、近国にもこの事聞伝へ、はや御大漸に及ばせ給ふなどいふ風説専らなり、このとき本多作左衛門重次御前に参り、それがし先に腫物なやみし時、糟屋政則入道長閑といふが治療にて、快くなり候へば、長閑に診はしめられば、然るべしと申す、君にはさらに聞召し入れざるを見て、重次例の暴怒を発し、殿にはさてもむざとしたる療治めされて、犬死をし給ふ事よ、御心づからとは申しながら、惜しき御命ならずや、十が九は御こゝろよくならせらるまじと、医者共も申せば、今は何をか申上ぐるに及ばず、此作左衛門御先を仕るべし、年老いても御跡へさがりての御供は仕るまじ、さらば今生の御暇乞を唯今申上ぐとて、泪をながし御前を立ちければ、君にもおどろかせ給ひ、近習の徒へあれとゞめ候へとて、汝は狂気せしにや、我等病重しといへども、いまだ死したるにてもなし、たとひわれ死したりとも、後々の事こそ大事なれ、汝が如き故老のものども、生きながらへてこそ、子孫をも輔導し、家国の事をも沙汰すべけれ、先腹切りて何の益かあらむ、きと思ひとまるべしとオープンアクセス NDLJP:2-71仰せければ、重次怒る眼に泪を含みながら、おしかへして申しけるは、いや、それ一は人にもよる事なれ、重次もまだ年の二十も三十もわかくば、殿の如き分別もなき御方の御供仕らむは益なく候へども、はや六十近く、若き時より度々の戦場に御供し、片目は切つぶされ、手の指もきりもがれ、足もちむばになり候へば、世の人のかたわといふ事は、みな某が身一つに取あつめたる身なり、しかるを殿の御情ばかりにて、御内・外様の者どもゝ、人がましくあしらふなれ、只今にも殿の御他界もましまさば、他人までもなし、御縁者の北条殿をはじめ、御国を伺ふものあまたなるべし、年もさかりの殿に後れ、力の落ちたる所へ、勁敵を引受けて、何のはかしき事のなるべきや、されば御家の滅亡は眼前なり、重次つれなき命ながらへて、あれこそは徳川家には古老と呼ばれし本多作左衛門よ、何のたのみありて、路頭に乞食してさまよふよと、後指さゝれては、生きたるかひもなく候、近頃迄も武田が家にて、諸人に尊敬せられし浅利といへる男も、主に後れて当家に参りしが、本多平八が組下となり、匂坂党などより遥に末座にありて、へつらふ体、世にあはれにもいたましくもみえて候、これも他人の上とは存ぜず、既に某が身にせまり候と、涙を流して諫めまゐらせしかば、君聞召して、汝がいふ所、いかにもことわりなり、わが腫物は汝にまかするぞと仰せければ、重次大によろこび、長閑を具して参り、薬をつけまゐらせし上にて、双六の筒の如き大きさの灸をすゑ給ふべしと申せば、重次みづから灸持出してすゑ、内薬をも進めまゐらせしに、たちまちその効あらはれて、夜半ばかりに御腫物吹きり、膿血おびたゞしく流れ出で、御心地もさわやかせ給ひ、日を追うて御平癒ましければ、重次あまりのかしこさに、男泣にぞなきけるとぞ、上杉氏の家士家康を賞歎すはじめ御悩のよし、世上に聞えたるとき、上杉景勝が家人共は、今の世に謙信・信玄卒して後、天下の将器は徳川殿のみにまします、然るに今この人うせ給はゞ、天下弓矢の道は、ながく絶え果つべしと歎きしよし、後に聞召され、謙信・信玄は数年弓矢を争ひ勁敵たりしが、信玄の死を聞きて、謙信甚これををしめりと聞きたり、かの家は今に謙信の遺風存せりとて、御称歎ましましけるとぞ、〈岩淵夜話別集、紀伊国物語、紀州根来由緒書、砕玉話、〉

本多正信の謀議本多佐渡守正信は帷幄の謀臣たり、君また正信を見給ふ事、朋友のごとくにて、台徳院殿には長者をもて優待せさせ給ふ、正信常に君をよびたてまつりて大殿とオープンアクセス NDLJP:2-72いひ、台徳院殿をば若殿と称したてまつる、軍国の機務に至りては、そのはかる所言葉多からず、わづか一二言にて、極めてよく諷諭に長ぜり、慶長四年大坂にて、福島・両加藤・浅野・黒田等の七人の大名、石田三成をうらむ事あらて、これを討ち果さむとせしとき、君よく人々を御教諭ありしにより、事なく平ぎぬ、其ときは伏見の御館におはしましけるに、正信御前に参りけるが、夜はまだ亥の刻の半ばかりなり、君にははや御殿ごもれり、正信うちしはぶきして御前に参り、今夜はなど早く御寝ならせ給ふぞと申す、君聞召し、正信には只今何事のありて参りたると仰せられしかば、正信、別の事にても候はず、石田三成が事、いかゞに思召すかと存候なりと申しければ、今もその事思案してあるぞと仰せらる、正信、さては心やすくなりて候、此事御思案あらむならば正信何事をか申すべきと、つと立ちてまかりたり、君にも又宣ふ旨もなし、其時土井大炊頭利勝など、御側にありて承りきと、後に石谷将監貞清に語りしなり、又石川丈山が物語に、正信は、土の仰せらるゝ事、我心に得ざる時は、打眠りてのみ居て申す旨もなし、又宣ふ所よしと思へる時は、ほめ参らする事かぎりなし、われ御傍につかふまつりし事多年なりしが、正信と事を謀らせ給ふと見えし事は、纔に二度ならでは見ず、世の人のことはかるとは、やうかはりて珍らかなり、一度は君正信が座せし所を通らせ給ひしが、立留まらせ給ひ、三言四言密に仰せらるゝ事ありしに正信大にほめ参らせ、よく候、よく候と申せし、今一度は大坂の軍起り、程なく御和睦ありて後、京に入らせ給ひ、何がしを召して、汝大坂に行き向ひ、将軍に申せ、我等はいづれの日駿河へかへらむとおもふなりと仰せられ、正信が方を御覧じ、佐渡はいかに思ふと仰せられしに、例のうち眠りて申むねなし、君大声にて、やあ佐渡と仰せられし時、例の眼開きて、まづものをば申さで、右の手さしあげ、指をかゞめ、物かぞふると見えしが、大殿よ、幾年の前に、伏見にて正信が申せし事をば、わすれ給ふなと申せしかば、君しばらく案じ出でさせ給ふ御気色にて、御使の仰蒙りし人に、まづけふは御使をばまゐらせまじきなりと仰ありて、内に入らせ給ひしとぞ、この二事を見侍りき、それを今の世に、正信やゝもすれば、古をひき今を証とし、義理を分けて毫末に入るやうに伝へしは、みな後々より附会せし説にて、とるに足らざる事ならむかと、心あるものいひけり、〈藩翰譜、〉

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一説に、正信が石田が事をもて諫めまゐらせしは、諸大名治部を討亡し候はゞ、一其後は当家を傾けむとはかるべき間、治部をば助けて、佐和山へ蟄居仰付けらるべしと、謀をさづけたてまつりしといふ、又君は、治部を討果すべしと仰せられしに、正信、治部の様なるもの助け置き給ひても、天下はおのづから御手に入るべしとすゝめしとしるす説も見ゆれど、こはみな後人の推考して伝ふる所にて、本文にしるせしこそ、よくその実を得たりとは申すべけれ、〈永日記、備前老人物語、〉

江戸へうつらせ給ひしころ、角田河辺へ鷹狩せさせられしに、北条が頃より江戸に住居せし処士何某、御路の傍に進み出で、己が意見かきし申文をさゝげたり、これを御覧ありて、何とも宣はず、されど御前を憚らざるとて、囚人の事つかさどる石出帯刀が屋敷のうちにいましめ置く、日数へて後、そのものいかゞせしと尋ね給ひしに、しかのよし申上ぐれば、かれ刑法を犯せしといふにもあらざるを、ながく囚獄せしむるは不便の事なり、速に放ち出すべし、かれわが治法の、北条が時と変りてよからぬよし、数箇条書つらねたれども、一条として用うるに足らざれば、申文もたゞそのまゝに捨置きしなり、何ぞ一条もその中に用うべき事あらば、ほめてつかはさむと思ひしに、えうなき事のみ書きたるとて、ほゝゑませ給ひしとぞ、〈落穂集、〉

大坂の役に、大和の国のくらがり峠を越えさせ給ひしに、古よりくらがり峠を越えて、合戦に勝ちたる例なしと申す者ある由聞召し、其峠際迄おはしまし、俄に御路をかへて、田間の畦道をおさせ給ひけるとぞ、いさゝかの事にも、人の申す詞をばよく用ゐさせ給ひき、〈諸士軍談、〉

諫言は一番槍よりも難し駿城にて、御談伴の徒に仰ありけるは、凡そ主人の悪をしりて諫をいるゝ家人は、戦場にて一番鎗を突きたるよりも、はるかに増したる忠節なり、その故は、敵にむかひて武功をあらそふは、身命をいとひてはならぬ事なり、然れども、勝敗は時運による事なれば、死地に入りて生を得る事もあり、人をうち取るか、其身討死するも、みな天命なり、たとひ討死して首をとられ、骸を原野にさらすといふとも主君にも深くをしまれ、武名をば世にも人にもしらる、もし又打勝ちて敵の首をとれば、武名をあらはすのみならず、君には深く感ぜられ、恩賞を子孫に及ぼし、世の光栄を残す事なれば、戦場にての働は、勝も負もさのみ損とすることなし、主君の挙オープンアクセス NDLJP:2-74動あしきと心得、これを諫めむとするときは、十に九は身をも家をも失ふのみならず、禍は子孫に及ぶ、主君、暴逆淫逸の行ありとも、これをその身にはいかにも善事と思ひてふるまへば、主の心に応ぜず、かゝる主は、もとより諫をもいれむとする家臣をば常に親まず、たとへにも良薬口に苦く、忠言耳にさからふといひて、諫言を疎遠にして親まざる故に、阿諛依弁をもて主の悪を迎合する姦臣時を得て、忠良の臣はおのれが妨とならむと思ひ、時にふれて纔をかまへ、あし様にとりなすをもて、主もいよ忠良の臣を遇する事うすく、遂には辱をあたふるにいたる、其時はいかなる者も、主を怨み世をうらみて、身を全くして退かむ事をはかり、病に托して職を辞し、致仕して国の存亡をよそに見るもの、十に八九はこの類多し、その中に、かくては君のため国の為然るべからずと思ひさだめ、身命を抛ちて強諫するに至れば、はては主憤りて手刄に及ぶか、籠居せしむるか、その身のみならず、妻子一族までも艱苦にせまるに至る、こゝをもてみれば、戦場にての一番鎗はやすく、主に諫をいるゝは難きを知るべしと仰せられたりとぞ、〈岩淵夜話別集、〉

失火の刑駿河にて度々火災ありし時、とかく人々心怠り、火をいましめざるより、かく度々の災あれば、此後あやまちても火を出したる者は、切腹せしむべしと触渡さむと、本多佐渡守正信へ仰せらる、正信畏りて退出し、翌朝まう登り、御前へ出で、何とも申上ぐる詞もなし、その時正信をめして、昨日仰付けられし事は、よく触渡したるやと問はせ給ふ時、正信、其事にて候、某昨日退出し、よく思案をめぐらし候に、もし火をあやまつものは、必ず切腹せしむべきよし命ぜられむに、此後井伊兵部などが宅より失火候はむに、切腹命ぜらるべからず、かるき御家人ども火を出す時は切腹させ、兵部等はゆるされむとありては、法度たち申すまじく候へば、かやうの事は下に命ずべきにあらず、昨日既に心付き候へども、帰宅して思案致し候へば、ます此事は諫めとゞめ進らせむと決し候ゆゑ、夜の明くるを待かね、唯今罷出候と申ければ、いかにも汝が申す所こそ道理なれと仰ありて、こと更御感涙浅からざりしとなむ、〈兵用拾話、〉

松下常慶駿府にて、若き女房達よりこぞりて、あの常慶坊ほど情なくにくき者はなしと、口口にそしり居たりしを、つとさし覗かせたまひ、年たけし女房をめし、若き女共は、何故に常慶をにくさげにそしるぞと仰せられしかば、かの女房聞え上ぐるは、さオープンアクセス NDLJP:2-75れば、外の事にても候はず御厨より日々送りこし候浅漬の香物、あまりに塩辛くて、老若ども給べかね候へば、今少し塩をかろく漬け候やういたしたしと、御厨方へ申送るといへども、常慶さらに其詞を用ゐず、今に塩からく漬け候ゆゑ、朝夕に給り候ものたべかね候て、常慶をそしり候と申しければ、そは女共の憤るも理なり、常慶にそのむね命ずべきなりと仰せられしが、やがて外殿に出で給ひ、常慶をめして、厨所にて朝夕用うる味噌・香物、塩から過ぎて、女房等食し兼ぬるよし聞ゆれば、此後は今少し塩をかろくいたし候へと仰せられしかば、常慶つゝしむで承り、そのまゝ御傍にすゝみより、何かひそかにさゝやきしに、御笑ひまし、とかくの仰もなし、常慶は退き出でぬ、御側にまかりし人々此様を見、あやしがりて、只今は何事をひそかに申上げて、上にも御笑ひありしにやと問ひければ、常慶、ばその事に候、各方も聞給ひしごとく、浅漬大根の塩をかるく仕候へとの仰に候、今のごとく塩辛く漬けさせ候てさへ、朝夕の用おびたゞしきものを、女房達の好みのごとく、塩加減いたし候はゞ、何ほどの費用に及ぶべきもはかりがたし、女房達の申す詞など聞召さぬ様にわたらせ給ふこそ然るべけれと申上げしなりと答へしとぞ、此常慶といふ者、本氏は松下にて、蔵主安綱と称し、はじめ浜松の二諦坊の住職にてありしが、天性賦税の事に精しければ、駿府租税の事を司り、御厨の事をも沙汰し、年久しくつかへたる老人にて、今も松下といへる御家人は、此坊が後胤なり、〈駿河土産、岩淵夜話別集、家譜、〉

此巻はよく人言を御採用ありし事どもをしるす、

 
 

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