東照宮御実紀附録/巻六

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東照宮御実紀附録 巻六
 
小田原いまだ落城せざる前方、君と信雄と共に秀吉が笠掛山の新営におはしける時、秀吉この山の端に城中のよく見ゆる所あり、いざおなじく行きて見むとて立出で給ひ、やゝ暫く城のかたを見渡しながら軍議どもせられしに、秀吉いはく、此城落去せば城中の家作どもそのまゝ徳川殿に明渡して進らせむに、殿は此所に住せらるべきやいかにと問はる、君の御答に、後日はしらず、さしあたりては此城に住せむより外なしと宣ふ、秀吉家康に江戸居住を勧む秀吉聞かれ、それは甚よからず、この所は東国の咽喉にて枢要の地なれば、家臣のうち軍略に達せし者に守らせ、御身はこれより東の方江戸といふ所あり、地図もて検するに、いと形勝の地なり、その所を本城と定められむこそよけれ、やがて当地の事はてば、秀吉奥州まで征伐せむと思ふなり、その折江戸の城に立より、重ねて議し申さむといはれき、かゝれば御転封の事も、江戸に御居城の事も、此陣中より既に内々定議ありて、落城の後に至り、秀吉より申出せしなり、さて御転封仰出されしはじめには、こたびも北条がときの如く、小田原に住ませ給ふや、又は武家の先雖を追ひて、鎌倉に定居あらむかなど、とりどり議しけるうちに、江戸に定まりければ、いづれも驚歎せしとなり、その時秀吉大久保七郎右衛門忠世を召して、秀吉大久保氏を小田原に居らしむ汝は徳川家の股肱なれば、此城に箱根山をそへて徳川殿より給はるべしといはれし、これぞ大久保が家にて、代々この城守る事の権輿なり、秀吉陽には当家の為に重任を撰ぶ様に見ゆれど、実は東西変あらむときの事を思ひ、何となく忠世に私恩を施されしものなり、本多忠勝に佐藤忠信の冑たまひしと、同日の所為なりとしらる、〈天元実記、大業広記、落穂集、〉

家康江戸に移る天正十八年七月、小田原の城落去しければ、この度の勧賞に、北条が領せし関東八州をもて、当家の駿・遠・三・甲・信の五国にかへ進らする由、関白申定められし時、君御還移の事を御急ぎありて同じ八月朔日には、はや江戸の城に移らせ給ひ、又下々に至りては、八・九両月のころ大方引遷りすみければ大阪へ御使遣され、五ヶ国引渡さむとありしかば、秀吉大に驚かれ、浅野長政に向ひ、三・遠・甲・信の四国はいそがば此頃にも引移るべけれ、駿河は其居城なり、それを引払ふといふも、速なるオープンアクセス NDLJP:1-74も限ある事なれ、いかでかくは弁ぜしならむ、すべて徳川殿のふるまひ、凡慮の及ぶ所にあらずといはれしとぞ、〈大業広記、〉

家康奥州転封の風説小田原落城の前に、さまの雑説ありて、北条が亡びし後は、当家の旧地を転じて奥の五十四郡にうつしかへらるゝなどいふ説もあり、井伊・本多の人々、もしさる事もあらば、僻遠の地にかゞまりて、重ねて兵威を天下に振ふ事かなふまじとて、密に歎息す、君聞召し、わが旧領に百万石も増加せば、奥州にてもよし、収納の善否にもよらず、人数あまた召抱へて、三万を国に残し、五万を率ゐて上方へ切つて上らむに、我旗先を支へむ者は、今の天下にはあるまじと仰られしとぞ、 〈続武家閑談〉

江戸の鎮守御還移の頃、榊原康政を召して、この城内に鎮守の社はなきやと御尋あり、康政、城の北曲輪に小社の二つ候が、鎮守の神にもあらむ、御覧あれとて、康政嚮導してその所に至せ給ふ、小き坂の上に梅樹数株を植ゑて、そが中に叢社二つたてり上意に、道灌は歌人なれば、菅神をいつき祭りしと見えたり、かたへの社の額を見そなはすと、直に御拝礼ありて、さて式部、不思議の事のあるよと仰なり、康政御側近く進み寄れば、われ当城に鎮守の社なくば、坂本の山王を勧請せむとかねて思ひつるに、いかなる縁ありてかこの所に山王を安置して置きたるよと宣へば、康政平伏して、これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな、抑当城うごきなくして、御家運の栄えそはせ給はむ佳瑞ならむと申せば、山王社と平河天神御けしき殊に麗はしかりしとぞ、その後城塁開拓せらるゝに及び、山王の社を紅葉山に移され、重ねて半蔵門外に移し、明暦の災後に至り、今の星岡の地に宮柱ふとしきたてゝ、当家歴朝の産神とせられ、菅神の祠は平河門外に移せしを、又麹町に引移して旧跡を存せらる、今の平河天神これなり、〈大業広記、〉

当時の江戸城江戸城はさき北条が時、城代たりし遠山が家居、本丸より二三丸まで古屋残れり、多くはこけら葺はなく、みな日光そぎ・飛州そぎなどいふものもてふけり、中にも厨所の辺は萱茨にていとすゝけたり、玄関の階板は幅広き舟板を三板並べて階とし、その余は皆土間なり、本多正信見て、あまり見苦し、外は捨置かせ給ふとも、この所は御造営あるべし、諸大名の使者なども見るべきに、いかにも失体なりと申上ぐれば、君、いはれざるりつぱだてをいふとて、御笑ひありてそのまゝにオープンアクセス NDLJP:1-75なし置かれ、まづ本城と二丸の間にある乾濠を埋められ、知行割その上は大小の御家人の知行割をいそぎ給ひ、榊原康政もて総督とし、青山藤蔵忠成・伊奈熊蔵忠政二人これを奉り、微禄の者ほど御城近きあたりにて給はり、一夜へだつる程の地は授くまじと合せられ、また一城の主たるものは御みづから沙汰し給ひ、誠に御いそぎ故、大がた一人一村かぎり、また隣村続きにて下されけり、この事終りし後御家人へ仰渡されしは、此度給はりし銘々が采邑に、手軽く陣屋を作り妻子を置き、その身ばかり御城へ通勤すべしとて、別に城下には小屋をかけ、其身と僕従輿馬のみをさし置かれしなり、路程遠きものは城下の市屋を僦居して日を重ね在府し、当直に当ればまうのぼり、番簿に名をしるし置きて、又一両月も采邑に帰住し、すべて簡易の事なりき、その後都下繁栄に従ひ各宅地給はり、みづからの力もて家屋営む事となりしなり、〈落穂集、君臣言行録、〉

増上寺存応はじめて江戸城に入らせられし時、御行装を遥拝せむとて、老若男女所せきまで御道のかたはらに並居たり、その頃増上寺称名院とて今の龍の口の辺にありけるが、住持存応和尚も衆人と同じく寺門に出でて物見居たり、君御覧じ、近臣してかの僧は何といふと御尋なり、存応つゝしむで寺は浄土宗にて増上寺といひ貧道は存応と申候由申す、それは感応〈大樹寺の住持、〉の弟子の存応にてあるかと宣へば、さむ候と申す、よて御馬を下り寺に入らせ給ひ、御茶など聞し召し、明日又参らむと宣ひて、明朝渡御あり、存応思ひよらざる事にて、寺の内馳めぐりて御もてなし、斎飯すゝめ奉る、君御気色よく、当家の宗門は代々浄土にて、三河にては大樹寺をもて香火院としつれど、当地にてはいまだ定れる寺なし、幸この寺同宗の事なれば、増上寺を菩提所とす当寺をもて菩提所とせむと思ふ、よろづ供養の事和尚に頼むなりと仰せければ、存応も世にかしこき事に思ひ、感涙袖をうるほしける、さて師壇の御契約はこの時に定まり、後に寺を今の芝浦に引移され、慶長十年はじめて堂塔剏建ありて、一宗の本山として代々の大道場となされしなり、〈啓運録、事跡合考、〉

按に、一説に、いまだ小田原におはしませし時、兼ねて江戸にて御祈願所になるべき天台宗の寺と、御菩堤所になるべき浄土宗の寺を撰ぶべき由命ぜられて捜索ありしに、浄土にては伝通院・増上寺の二刹のみ、そがうち伝通院は窮僻の地なり、増上寺は勝地にて且江戸城に近ければ、増上寺を菩堤所にせられ、御祈オープンアクセス NDLJP:1-76願所は浅草の観音堂然るべしと申すにより、かの二寺の僧を小田原に召して謁見せしめ、その由命ぜられ、寺内に建つべき制札を下されしともいへり、〈落穂集、〉

井伊本多等の加封豊臣関白より、此度の御転封により、井伊・本多・榊原の三臣へはわきて加封あるべきに、各何程賜はらむやとありしに、十万石づゝとおぼしけれども、十万と宣はゞ関白その上に増封せよといはれむは必定なりと思召し、態と六万石づゝ給はらむと仰せ遣されしに、案の如くそれにてはあまり少し、十万石づゝ給はれと指諭ありしかば、その如くに下されき、又領邑を渡すに縄をつめず、打出すやうにして割渡すべしと仰付けられしが、これも関白より同じ様の事申送られしとぞ、〈紀伊国物語、〉

たむはむたむはむといふもの、いと滑稽に巧なりしが、常に近侍して親幸を蒙りけり、江戸に御移りありし頃、ある時黄金一枚持出し給ひて、汝ほしくば中にてとれと、御戯れながら投げ給ひしに、たむはむあやまたず中にて取り、又二枚これもほしくばとらせむとありて投げ給ひしに、又中にて取れり、この外にも御手に持たせられしをも賜はらむとねぎしに、いやとの仰にて御座を立たせらる、本多正信、御側よりたむはむ追懸け奉れとそゝのかす、たむはむ殿様御しはき事とて、御後に従ひ奉れば、上にも急ぎ後閣に入らせらるゝを、いよ追懸け奉り、殿は戦場にてもかく御後を人に見せさせ給ふやといひて、御諚口まで参り、ゑいおうと高声に凱歌を唱へて、もとの方へ引返せしとなり、このたむはむは下野の宇都宮が氏族にて、氏は失ひしが名をば大和といひて、一城の主たるものゝ果てなるが、常々談伴に候して御かへりみ深く、後々は腰刀もはかず、たゞ遁世者の如くにてありしとなり、〈霊岩夜話、〉

八王子同心御旧領の内にて、甲斐の国の転ぜしをば殊に御心とゞめさせ給ひ、常々その事を仰出されしなり、さればにや江戸にて御長柄もつ御中間は、武州八王寺にて新に五百人ばかり召抱へられ、小禄の甲州侍もてそが頭とせられしは、八王寺は武蔵と甲斐の境界なればもし事あらむときには、彼等に小仏口を拒がしめ給はむとおぼして、かくは命ぜられしなり、同心共は常々甲斐の郡内に往来し、絹帛の類をはじめ、彼国の産物を中売し、江戸に持出で売ひさぐをもて常の業とせしめしなオープンアクセス NDLJP:1-77り、〈落穂集、〉

家康名門旧族を扶持す関東にて名門旧族の、時世かはりて沈淪せしものどもをあまた召出され御扶助あり、宮原勘五郎義凞といふは、古河御所晴氏が弟左馬頭憲寛が子にて、下総宮原に住せしを召出され、采地千石下され、後に高家に列す、由良信濃守国繁は新田左中将義貞の後胤にて、代々上野金山の城主たりしが、小田原の戦の後、太閤より所領召放されて流浪せしを、名家なれば召出して常陸にて采地給ひ、是も後に高家となさる、一色宮内大輔義直はもと足利家の支族にて、世々鎌倉古河の幕下に仕へし家筋をもて、召して武州幸手にて五千石余の地を給はる、江戸太郎高政といひしは、江戸重継より以来、東国の旧家なるが、長尾但馬守顕長が家臣となりてありしを、江戸を称するは憚ありとて、母方の氏を冐して小野と改め、御家人にめし加へらる、難幡田因波守憲次は関東管領上杉が幕下に弾正憲重といひて、武州松山の戦に歌よみて名高きものゝ末なれば、同じく召出され、また北条が家臣間宮豊前守康俊は、山中の城にて戦死せしかば忠臣の後なればとて、其子惣七郎元重はじめ一族まで御家人となさる、太田重正太田新六郎重正は道灌入道が末裔たるをもて召出され采地をたまひ、その姉のわづか十三歳になるも、同じく御側近く召仕はれ、名を梶とめさる、関原〔大坂カ〕の役に茶臼山の御陣営の地を勝山と改め給ひしとき、汝が名も勝と称すべしと仰せられ改めしなり、この女後々御かへりみ深く、姫君一所まうけしが、早世ましければ、水戸頼房卿の御母代となされ後に英勝院尼と聞えしは是なり、河田泰親河田伯耆守泰親といふは、もと上杉謙信に属し武功の者なるが、後に北条にしたがひ、上野国利根郡の内にて三千貫の地を領せしが、北条亡びて後、戦死のものゝ首帳御覧ありしに、泰親が名なければ、定めて当地に居るべしとて、井伊直政に命じて尋ねしむ、泰親はさきに松枝の戦に深手負ひて、既に死せむとする由直政聞え上げしかば、かねて聞き及びし忠実の者なれば、死せざらむ前に見るべければ、籃輿にのせて連れ来れりとの仰によて、板扉にかきのせて御前にすゑ置けば、泰親が側近くよらせられ、いと御愁悼の御さまにて、此疵平愈せば不動山の城主とし、譜第の大名に準ずべし、それまで心のまゝに養生せよと仰ありて、当分の費用にとて月俸百口下されけるが、遂にはかなくなりしかば、其子の助兵衛政親、未だ六歳なるを直政が家に養はしめ、年長ずるに及むで、父の跡継オープンアクセス NDLJP:1-78がしめられしとぞ、〈諸家譜、〉

家康北条氏の家臣を招く北条家の侍どもあまた召出されし内に、下総の臼井が子に吉丸、上総の東金の城主酒井が子に金三郎政成、両人とも旧家たるをもて召出され、後年伏見の城造営終りて巡視せられしとき、吉丸御はかし持ちて従ひ奉りしが、とみの事にて履はく事ならねば、跣にて炎天の折から、栗石の上にかゞみ居たり、金三郎これを見かねて履持ち行きて吉丸にはかせけり、その後同僚の者ども、いかに親友なればとて、衆人みる前にて同僚に履はかする事やあるべきと口々にいひ立つれば、目付の者も捨て置きがたくて御聴に入れしに、君にもかねて聞召し及ばれ、金三郎を召して御糺ありしに、金三郎、某唯今吉丸と同じ列に侍れども、そのはじめをいはゞ、彼は主家にて侍れば、そが熱石の上に佇むを見るに忍びず、草履はかせしまでにて、深きゆゑよしあるにも侍らずと申せば、仰に、金三郎若年ながら旧主を思ひ本を忘れざるは、武士の道にかなひ神妙の事なり、その心ならば家康が恩をも恩と思ふべし、敦厚の士風末頼もしき侍かなと、御賞美ありて加恩賜はりけり、これより士風漸く敦厚になり、一日たりとも頭役と仰ぎて、その指揮受けし者に対しては、後日に我身顕官に経上りても、会見の折から、さきの重役の人には必礼義を慇懃にせし事となりしとぞ、〈岩淵夜話、〉

博奕を厳禁す北条が比は法令惰弛なれば、八州のうちに博戯盛に行はれ、僧俗男女のわいためなく、皆おしはれて行ふことなり、かねて御旧領におはしませし時より、この事厳断せられしをもて、御遷徙あると直に、板倉四郎左衛門勝重もて、きと厳令を出され、博戯するものは、見及しまゝ、追捕して死刑に行はる、或日浅草の辺御狩の折、博徒五人が首を梟木にかけしを御覧じ、罪人梟首するは、衆人に見せて懲しめむ為なれば、五人一座の科ならば、某の月日何の地にて犯せしといふ事を札に書きて、人多くつどふ所に、いくつも建て置くべしと命ぜられ、後には十人一座に捕へ得しは、十箇所にて誅戮し、各所にかけしとぞ、かくおごそかに御沙汰せしゆゑ、一両年過ぎて八州の内にこの戯行ふもの絶果てたりとぞ、〈君臣言行録、〉

氏康柱小田原の城に氏康柱といふあり、そのかみ北条氏康が時に、荒川何某といふ者、逆意企てし聞えありて、氏康衆中に於て手刄せしに、その太刀の鋒書院の柱に切込みしを、後々まで大切にし蓋をかけ置きて、見むとこふものあれば明けて見せしオープンアクセス NDLJP:1-79め、後に叛逆の者の懲戒にせしめむ為、残し置きしなり、当家となりて小田原をば大久保七郎右衛門忠世に賜り、忠世が子忠隣に至り、君御上京の折、小田原に宿らせ給ひ、忠隣召して、かの柱を供奉の人々に見せよと上意ありしに、忠隣うけたまはり、その柱の立ちし書院いと荒廃し、柱根も朽ち果てぬれば、近頃立て直せしにより、柱も取すて侍りぬ、但むかしより、玄関にかけ来りし、鈴木大学が弓といふものは、唯今ももとの所に置きぬと申せば、聞召され、北条家は早雲・氏綱が代には豆・相両国のみ領せしを、氏康に至り、次第に国を伐ひろげて、遂に東八箇国を全領せしなり、その上氏康いまだ若年の頃、武州川越の夜軍に、わづか八千の兵もて上杉が八万三千の大敵を切崩し、武名を天下にかゞやかせし事、近き世にはめづらしき英傑といふべし、その名を負し柱ひなれば、朽ちたりとも根をつぎても残し置けば、末々まて見る人々武道の励にもなるべきに、なぞゆゑなくは取すてしぞ、心なき挙動なり、大学が弓などは折りても捨つべきものをと宣へば、忠隣大に恐れ入りて、総身に汗し御前をまかでしとぞ、〈岩淵夜話、〉

三州大沼に住せる処士、木村九郎左衛門定元は、此度遷徙の御供し、その子三右衛門吉晴は妻子引連れ、一番に江戸に馳せ参りければ、土井甚三郎利勝この由言上す、君吉晴が年頃住なれし地を離れ、速に馳せ参りしを賞せられ、御気色斜ならず、旅装のまゝにて出でよと宣へば、吉晴草の立付はき、乱髪のまゝにてまみえ奉る、かねて酒好むよし聞召され、御前にて数盃下され、吉晴酔ひ進みて心地よきさま御覧じ、伊奈熊蔵忠政を召し、三右衛門は酒ずきなれば、よき地えらみて酒飲まむ料に遺せと仰ありて、やがて相州高座郡の内にて菖蒲沢村百石の地を賜はりしが、酒手知行今にその辺にてこの領邑の事を酒手知行といふとぞ、〈家譜、〉

樽屋藤左衛門といふは水野右衛門大夫忠政が七男弥大夫忠頼が子なり、はじめは弥吉康忠といふ、江戸町年寄長篠の役に酒樽を献りしかば、織田右府に贈られしに、右府大に喜び樽と呼ばれしより、氏を樽と改め、遠州町々の支配を命ぜられしが、こたび御遷移により、又江戸市街の事をつかさどらしめ、神田玉川水道の事をも奉り、東国の升の事つかさどらしむ、この外奈長屋市右衛門・喜多村喜右衛門といへるも、同じく御旧領より引移り、樽屋と共に市中並に水道の事を奉る、衡量の制守随兵三郎といふは、甲州にて秤を売り鬻ぐものなるが、これも御遷移を承り伝へて速に江戸にオープンアクセス NDLJP:1-80来り、多門伝八郎信清を頼み、井伊直政もて八洲の権衡奉らむ事願ひしかばはるばる甲斐の国より馳せ参り、神妙におぼしめせば、願ひのまゝ御許しありて御朱印を下されけり、又菓子の事うけたまはる大久保主水といへるは、その祖大久保藤五郎忠行は、左衛門五郎忠茂が五男にて、三州におはしませしころ、小姓勤めしものなり、一向乱の折銃丸に中り、行歩かなはざれば、己が在所に引籠りてありしが、もとより菓子作る事を好み、折々己が製せし餅を献りけるが、御口にかなひしとて、駿河餅毎度もとめ給ひしが、これもこたび御供に従ひ、新地三百石給ひ、そが餅を駿河餅といひて、時世移りて後は、いとめづらかなるものとせり、これより後そが家世々この職奉る事とはなりしなり、〈家譜、武家厳秘録、御用達町人来由、〉

家康と蒲生氏郷蒲生飛騨守氏郷、太閤より会津の地たまはり、はじめて就封せし道すがら、江戸へ立寄り謁し奉り、兼ねても親しくせさせ給ひければ、こなたにも殊に御喜悦にてさま御饗応あり、こたび大国の主になられ、はじめての入部なれば、何がな馬の餞せむと思ふ、何にても望まれよと仰せければ、氏郷もかしこみ奉り、何某思はざる大身になりて、何も事欠く事は候はねども、殊更の仰なれば、一しほ請ひ申す事あり、唯今是へ出でたりし色黒き老人の、朱鞘の大脇差さしたるは、何と申す者にて候か、いとめづらかなる士と見受けたり、これを家人に申給はりて、此度の入部の晴にせまく存ずるなりと申せば、君聞召し、いとやすき所望ながら、これは御望に任せ難し、曲淵吉景彼は曲淵勝左衛門吉景とて、若年の頃武田がおとなの板垣信形が草履取にて、その子の弥次郎に仕へ、いと賤しき者なり、信玄讒を信じて弥次郎を誅せしかば、信玄を主の仇なりとて度々伺ひける程の、不敵の思慮もなき者なれば、かの国に居む事もかなはず、家康が許に逃げ来り、今は見らるゝ如く老衰して何の用にも立たず、さるをまゐらせても、かへりて当家の恥辱なれば、此儀は許さるべしと宣へば、氏郷思慮なきにも老衰にもよらざれども、今の仰承れば、深く御心かけて召仕はるゝと見えたり、強ちに申請はむもいかゞなり、此上はせめて知人になりて、昔物語にても承り度と申すにより、御前へ召出して、信玄・勝頼二代の間、合戦の事どもとりん語り出して聞召し、氏郷もいと興に入りけるとぞ、 〈岩淵夜話別集、〉

会津城御遷の後はじめて御上洛ありしに、蒲生氏郷も会津の就封を謝せむため、同じくオープンアクセス NDLJP:1-81上京して御参会の折から、会津城経営の様を尋ね給ふ、氏郷いはく、会津の城は蘆名家以来芝土居にてありしを、こたび石垣に築き直しぬ、抑殿下今不肖の某をもて大国の重鎮となし、そくばくの地下し給ひし上は、せめて居城にても見苦しからぬ程になし置かむとて、国々の城地のさまを参見せしに、毛利輝元が安芸の広島の規模某が胸にかなへば、会津も之にならびて作出さむと存ずる旨申上げしに、家康の築城意見すべて城の大小はその主の身分の大小にかなふがよし、本丸はじめ二三の曲輸は、塀・櫓まで心を用ゐて作出でむはいふまでもなしその外の曲輪、一二の門・舛形も同じく心を用うべし、外郭の塀などは、時に臨みてもたやすくかくる事なるべし、無事の時は土居・石垣ばかりにて置きたるがよし、広島の如く外郭の塀までかくるには及ぶまじ、松永弾正久秀が和州志貴の城に、多門櫓といふもの二三の曲輪内に建置きしは、居城の便などにはよきものなりと仰せられしを、氏郷つぶさに承りて感歎し、その後帰国し、かねての経営のさまをかへ、仰の如く総郭の塀をばかけず、多門櫓たてむとせしが、いまだ竣功に及ばずして、氏郷病にかゝり身まかりぬ、よて後々に至りても会津城の三の丸に塀櫓なきは、この故なりとぞ、 〈落穂集、〉

この巻は関東へ移らせ給ひし折の事をしるす、

 
 

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