東照宮御実紀附録/巻八

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東照宮御実紀附録 巻八
 
伏見大地震

慶長元年七月十二日、地夥しく揺りて、伏見城の楼閣悉く破損す、君いそぎ参らせ給ひ、太閤に御対面ありて、その無異を賀せられ、且速に内の御けしきを伺はせ給ふべきにやと宣へば、太閤、吾もさこそ思ひつれども、かゝる大変にて陪従の者いまだ整はず、幸の事なれば徳川殿ともに参らせ給へ、その従士をかり申さめとありて、当家の陪従ばかりにてともに出立たせ給ふ、太閤久しく刀をはかで、けふは殊に腰の辺重く堪へ難し、徳川殿の従臣の内に持たせ給はれとあれば、君御みづから持たせ給へば、それにてはかへりて心苦し、平に家臣の中に渡し給へとあるにぞ、井伊兵部少輔直政に渡し給ふ、とかうする内に、かの家人ども追々に馳付けて、駕輿も舁き来れば太閤輿に乗られむとするに及び、こなたの御供に列せし本多中務大輔忠勝を呼ばれ、秀吉本多忠勝を嘲る汝等が下心には今日こそ秀吉を討たむによき時節なりと思ひつらめ、されど汝が主の家康は、さる懐に入りし烏を殺す様なる事はオープンアクセス NDLJP:1-93せぬ人なり、さきに我刀を汝に持たせたくは思ひしが、折悪しく隔たりしゆゑ、間にあはでいと残りおほし、汝に持たせたらばさぞ面白かりなむものを、かく思はるゝも、汝等は必竟小気者なればなり、小気者よと笑ひながら輿に乗られしかば、忠勝何ともいはず、俯伏してありしとぞ、〈柏崎物語、続武家閑談、〉

家康蒲生氏郷の死を憐むある時数寄屋の御道具あづかりし者を召して、御茶杓を取集めもてこよと仰付けられ、そが内にて瀬田掃部が削りし杓六七本、筒に入れてありしを取出され、御手づから節の所より一つに折らしめられ、取捨てよと命ぜらる、こはその頃掃部豊臣家の内意を受けて、蒲生氏郷を鴆殺せし聞えありしかば、彼の所為をいたく憎ませ給ひての御事ならむかと、人々いひあへりしとぞ、〈天元実記、〉

石田三成大阪の城中にて、石田治部少輔三成、頭巾を着しながら火にあたりてありし時、君のまうのぼり給ふ道筋なれば、浅野弾正、三成に向ひ、只今内府の通らせらるゝに、さるなめげの様してはあしからむと、三度まで驚かせしに、三成知らぬ顔して空うそぶきて居たり、浅野長政長政余りの事に思ひ、その頭巾を取りて火中に投じけれども、三成怒れる気色もなし、これ三成、この頃より既に後日の一大事を思ひ立ちてありしかば、かゝる細事には心もとめざりしなり、この事後に聞召し、さて危かりし事よ、もしその折三成が怒りて長政と切合ふならば、われ又長政を見放す事はなるまじきにと仰せられしとぞ、この長政は豊臣家にはゆかりありて故旧なりしが、度々三成が讒にあひて太閤の前を失ひし事のありしに、いつも君の仰こしらへ給ひて無事なりし故、誠に御仁恵をかしこみ奉り、後に大阪奉行等が異図企てし時、故ありて武州に蟄居し、その末子をもて御家人に列せむ事を願ひ、御ゆるし蒙りて、浅野長重慶長四年采女正長重十二歳にて江戸に参りたれば、御気色斜ならず、同五年より台徳院殿につけしめられ、野州真岡にて二万石下され、譜代になされ、七年、松平玄蕃允家清が娘は御姪女なるを、養はせられて長重に配せられ、御待遇浅からず、おほよそ上方の大名の子弟当家に奉仕する事は、長重をもて権輿とするにぞ、又長政常に寵眷浅からず、君つれの折節、長政を召出して共に碁を囲み給ふ、時として長政行道を争ひ、なめげなる挙動ありしを、君にはかへりて御一興に思召して、ほゝゑませ給ひたり、長政が身まかりし後、しばしが程碁を囲み給ふ事おはしまさゞりしが、こは昔鐘子期が死して、伯牙が琴をひかざりしといふオープンアクセス NDLJP:1-94故事に思ひよそへられて、いと哀なる御事になむ、〈寛元聞書、貞享書上、大三河志、〉

家康の石清水参詣慶長三年正月二日、とみの事にて石清水八幡宮へ詣うでさせ給ふ、よて供奉の者の服忌など御改あり、こはその頃御夢想の事おはしませしゆゑなりといへり、同じ夜関東にても、御家人米津清右衛門正勝が妻、夢中に一首の和歌を見て、さめて後人々に語りしは、

  盛なる都の花は散りはてゝ東の松ぞ世をば継ぎける

これは其頃豊臣殿下既に薨去ありて、都方次第に衰替しゆくに、当家は関東におはして、日にそひ御威徳のそひまさらせ給ふにより、天意人望の合応する所より、かゝる瑞徴もおはしませしならむ、〈天元実記、〉

本多正信盗窃を憂とせず伏見にて炎熱の折柄、城櫓の上に納涼しておはしけるに、厨所より出入する下部の様を御覧じて、本多正信に宣ひけるは、下人どもさまの物を懐にし、又は袂の内に入れ持出でゝ、宿直の具の中に包みてまかづるは、いかさま官物を私すると見えたり、これ全く官長の行届かざる故なりとて、むづからせ給へば、正信承り、こはいとめでたき御事なりといふ、君聞しめし、下人が盗窃するをめでたしとは何事ぞと咎め給へば、正信、抑そのかみ岡崎におはしませし程の御事は申すまでも候はず、浜松に移らせ給ひても、御分国広大にならせ給ひしとはいへども、厨所のもの鰹節一本盗む事もならざりき、さるに当時関八州の太守にならせ給ひ、海内第一の大名におはしまして、天下の政務をもきこしめせば、国々の守どもより貢物奉る事夥しきゆゑ、おのづから饒富にならせらるゝをもて、かゝる盗人も出で来れ、これぞ御家の栄えそはせ給ふ御しるしなれば、前波半入がいつも御前にて歌ふ小謌はきこしめさずや、小唄御台所と河の瀬は、いつもどむとなるがよい、と申す如くにて候と申せば、君も御気色にて、例の佐渡がいふ事よとて、ほゝゑませ給ひしとぞ、〈霊巌夜話、〉

落書伏見におはしける時、張文せし者あり老臣等おごそかに糺察せむとこふを聞かせられ、かゝる事たゞさむとすれば、いやがうへにするものなり、元より丈夫の志ある者ならば、さるかくし事はなさず、これたゞ児女子がするわざなれば、それを検出して咎むるもまた同じ様の心なれ、其儘毀裂して捨てよと仰付けられしが、此後は果して絶えてせざりしとなり、〈三河の物語、〉

オープンアクセス NDLJP:1-95家康の覈実伏見城の天守に茶壺十一を上げ置かれ、壺一つに二人づゝ番附けて守らしめらる、三井左衛門佐吉正をもて総司とせらる、いづれも怠らざる為にとて厨膳をたまひ、棋象・双六の盤などまで遣され、随分心長に守らしめよと命ぜらる、かくて三日ばかりありて、御用の由にて壺二つ取寄せ給ひ、其後御みづから天守へ渡御ありて、番人等を慰労せられ、残の壺ども御覧じて仰せけるは、先に十一預け置きしを、何とて二つ足らぬぞと宣へば、左衛門佐承り、二つは御用の由にて先日召させられし故、御使に渡しぬと申す、さればよ兼ねて汝が公事に念入るべしと思ひつれば、大事の茶壺を預けしに、わが取に遣したらむ時には、汝も其使に付そひてこそ参るべきに、たゞ使にのみ渡してよしと思ふは、緩怠の至なりとて、おごそかにいましめられしなり、かく何事にも覈実におはしまして、行届かせられしゆゑ、いづれも心用ひて敢て苟且の事はなさゞりしとぞ、〈紀伊国物語、〉

秀吉の遺託豊臣太閤既に大漸に及び、君と加賀亜相利家をその病床に招き、我病日にそひてあつしくのみまされば、とても世に在らむとも思はれず、年頃内府と共に心力を合せて、あらまし天下を打平らげぬ、秀頼が十五六歳にならむまで命ながらへて、この素意遂げなむと思ひつるに、叶はざる事のかひなさよ、わがなからむ後は、天下大小の事はみな内府に譲れば、我に代りて万事よきに計らはるべしと、返す返す申されけれど、君あながちに御辞退あれば、太閤さらば秀頼が成立までは、君後見ありて機務を摂業せらるべしといはれ、又利家に向ひ、天下の事は内府に頼み置きつれば心安し、秀頼輔導の事に至りては、偏に亜相が教諭を仰ぐ所なりとあれば、利家も涙ながして拝謝し、太閤の前を退きし後に、君利家に向はせられ、殿下は秀頼が事のみ御心にかゝると見えたり、我と御辺と遺命の旨いさゝか相違あるまじといふ誓状を進らせなば、殿下安意せらるべしと宣へば、利家も盛慮に任せ、やがてその趣書きて示されしかば、太閤も世に嬉しげに思はれし様なりとぞ、 〈天元実記、〉

藤堂高虎に命じて出征の軍を還さしむ太閤の遺命により浅野長政・石田三成の両人に命ぜられ、朝鮮の諸勢を引取らしめられむとありしが、なほ心許なくおぼしめし、藤堂佐渡守高虎にも彼地に渡り諸勢早々帰帆せしむべしと命ぜらる、其日の夕方仰残されしむねあれば、高虎重ねて参謁せよと仰遣されしに、高虎は命を蒙ると等しく出立して、跡には留守のオープンアクセス NDLJP:1-96家老のみありと申上げしかば、君御手を拍ちて近臣に宣ひしは、この佐渡といふをのこは、近頃までは与右衛門とていと卑賤なりしを、太閤その才幹あるを察せられ、追々抜擢せられし程ありて、万事敏㨗なる者なり、汝等聞置きて後学にせよと仰せられしとぞ、かくて高虎名護屋に赴き渡海せむとせしに、これより先、島津兵庫頭義弘泗川の戦に明兵あまた討取りしかば、明兵その威に恐れ引退きぬれば、遠からず総軍皆帰帆せむと注進ありければ、高虎はしばし名護屋にありて渡海に及ばず、その年十一月に本朝の軍勢残らず博多へ着岸す、今度島津が勲功莫大なれば加恩給はらむとて、前田利家とその事議せられしに、石田三成いはく、これは秀頼公御代始の事なれば、外々の三老へも議し合されて然るべしとありて御商議ありしに、浮田中納言秀家ひとり異議を陳べて従はず、よて五奉行の人々その事申上ぐれば、君の仰せらるゝは、今秀頼幼年におはせば、みづから天下の賞罰定めらるゝ事は、十四五年も経ずばかなふまじ、それまでの間功ある者を賞せず、罪ある者を罰せずしては、天下の政治いかにも立つべからず、人々はいかゞ思はるゝとあれば、前田徳善院は愚僧も仰の如く存ずるといひ、増田長盛は太閤おはせば、こたびの加恩は十万石の内にてはあるまじといふにより、三成一人面赤めてありしなり、その後隆摩・大隅両国の中にて、島津に一万石増し給はりしとぞ、 〈天元実記、寛永系図、〉

家康前田利家の病床を訪ふ太閤薨ぜられし後は、京・大阪の間浮説区々にして人心穏かならず、其頃加賀亜相利家重病に侵され、今はかうよと見えし頃、生前に今一度謁見せむとこひ奉る、その頃利家が異心測り難ければ、堅く臨駕をとゞめ給へといふ者ありしに、亜相が心はわれよく知れり、さる反覆の者にてはなし、まして彼既に病をつとめてわが方に来りしを、我遅々してゆかざらむには、かへりて世の浮説しづまり難しとて、遂に彼家におはしぬ、亜相もかく降臨ましませしを世に嬉しげに思ひ、病あつくして衣装を正す事もかなはず、されば上下をば側に置きて見え奉る、其身なからむ後も、賤息の事を見捨て給はるなと、返すいひ出でしかば、君にも其様を御覧じて哀に思召し、御涙をうかめられ、家康かくてあらむには、心安く思給ひねと仰せられて、何事もなく還御なりぬ、亜相より家人徳山五兵衛直政もて御親訪ありしを謝し奉りければ、浮説もいつしか静りて、人心も何となく落居しなり、或オープンアクセス NDLJP:1-97傅には、利家その子利勝を呼びて、今日内府を招くにより、汝が心得はいかにと問ひしに、今朝とくより饗応の設ども皆しつるといふ、さて還御の後、重ねて利勝を招き、利家の心事己が臥せし褥の下より白刄を取出し、さきに吾汝に問ひしとき、汝さるべき答をせば、われ病中ながらも内府と刺違へむと思ひしものを、口惜の事ならずや今の三奉行はじめ一人も人材のなき事よ、わがなからむ後は、天下は必ず内府の掌握に帰すべし、されど汝等が事はよく頼み置きつれば、疎略にはせらるまじ、汝等も又敬事して怠る事なかれといひ置きて、幾程もなくはかなくなりしとぞ、〈戸田左門覚書、公程閑暇雑書、〉

五奉行等家康を責む大阪の大老・奉行等より安国寺恵瓊長老・生駒雅楽頭親正・中村式部少輔一氏・堀尾帯刀吉晴等を使として御館に進らせ、近頃君には故太閤の遺命に背かれ、妄に諸大名と縁を結ばせ給ふは以の外の御事なり、かくては某等も前々の如く天下の事共に議し申さむ事もなり難しといふ、君聞召して、我故殿下の終に臨み、幼主の事を返す遺託ありし故、日夜心力を尽してその為よからむ事をはかる所なり、さるに方々近頃は何事も我に議し合はされず、別人の様に疎々しくのみもてなさるゝは何事ぞ、もし我扱よからず思はれば、密に心を添へられ、共に議し正しなば、殿下の遺命もたち、某も世にそしりを免かれなむ、然るに今あらためてかかる事いひ越さるゝは、穏当の所為とも思はれず、かく人々にうとまれては、重任にありても詮なし、やがて致仕し関東へ下り、代りには武蔵守を呼び昇せて当地にさし置きなむ、この旨誰をもて誰にいひ告ぐべきや、方々指図給はるべしと宣ひ、家康安国寺恵瓊を叱す又安国寺に向はせられ、御僧はいつよりか三人の列になられし、我もいまだ知らざる所なり、すべて大老・奉行より用事とあるは、天下の政務にあづかりし事なり、御僧出家の身として、たが命を受けてみだりに三人の中に徘徊せらるゝや、今日はまげて許しかへすと雖も、重ねてかゝる所へ出づるに於ては、きと沙汰せむ様もあれと、おごそかに咎め給ひしかば、恵瓊は面の色をかへ、わな震ひ出せしとぞ、同じ頃加藤左馬助嘉明が御気色伺として伺公せしに、折しも物具取出されて御覧ありしかば、この具足は故殿下の賜はりしなり、近日大阪の四老・奉行、家康と干戈を交へむとの風聞あり、よて今取出して検点するぞと宣ふ、嘉明承り、只今の世に当りて、誰か内府公に対し奉りて、軍する者のあるべきと申して、御前をオープンアクセス NDLJP:1-98まかでしとぞ、〈紀伊国物語、天元実記、落穂集、〉

家康の警戒向島の御邸より伏見城に移らせ給ひしとき、松平右衛門大夫正綱を召して、城の屋上にのぼり、もし火燃え出づる所あるか、その外怪しげなる事あらば聞え上げよと命ぜられ、夜半過ぐる頃、御みづから正綱が居し所へ、礫をもて打驚かし給ひしとか、後にすべて新らしき所に移りし夜などは、思はざる悪徒どもの焼草つみ置きて、焼立つることもあるものなれば、よく警しめねばかなはぬものなりと仰せられき、向島の本邸におはしまして、古城の営築せしめ給ふ頃、夜中など俄に路次口・裏門などより忍びて川岸まで出給ひ、江戸町といふ所にある小浜与三郎が家より御船にめして、向島の堤にのぼらせ給ひ、向島におはするかと思へば又俄に本邸に還らせられ、おほよそ一夜の内に二度づゝ、かなたこなた行めぐらせ給ふこと、五十日ばかりに及びしとぞ、其折は扈従の者も親しきかぎり三人か五人に過ぎず、余はみないぎたなくて知り奉る者なし、常は何事もつゝみかくし給はぬ御本性なりしが、この程はいたく忍びて物せさせ給ひしとぞ、〈前橋聞書、卜斎記、〉

向島の邸へ御移ありし頃菱垣あまた結ひ渡して、いと御戒備厳重なり、御門を明けて御長柄・鉄炮など修理す、向島邸の警備新庄駿河守直頼伺公して、かゝる時はいかなる急変あらむも側り難し、御門を閉ぢしめ給へといふ、君門をうてば敵にあなづらるゝものなり、只打出して玄関にて用意するがよしと宣へば、直頼も盛旨の豁大なるに恐服せしとぞ、〈落穂集、〉

ある日向島の御館へ加藤・細川の人々伺公して武辺の物語あり、いづれも是迄の御武功の事承り度しと申上げしに、土岐定政土岐山城守定政を召し、人々に語りて聞かせ候へと上意なり、定政、君の御事を申さず、其座にあり合ひし御家人の名をいひしらせ、さてこれが父はいづくの軍にかゝる働し、かれが親はいつの年、いかなる功名せしなどゝかぞへ立て、次々物語せしかば、君の御武功はおのづから言をまたずして顕はれしとぞ、いかにも御称誉の様よく其体を得しと人々感じて、かく武功のもの多く持たせらるれば、末終にこの君天下の主にならせ給はむかと、下心に思ひけるとなむ、〈駿河土産、〉

細川忠興家康に通ず細川越中守忠興は兼ねて当家へ志を通じたれば、陽には大阪の奉行どもが姦計にくみし、彼等の内議を聞出して一々言上す、ある日長束大蔵大輔正家忠興に向オープンアクセス NDLJP:1-99ひ、今宵内府が館を襲はむと群議已に一決せり、御辺も力を合されよといふ、忠興いはく、内府の勇略今の世に立ならぶ者なし、味方定見もなくしてみだりに戦をしかけなば、いかに利を得むやといつて従はざれば、其夜の議は遂げすなりぬ、明日忠興御館に参りて、しかの由聞え上げしかば、われもほゞその事聞きつれ、もしさらむにはわが館に火をかけ、東北の広地に出で、是を防がむと思ひつれと仰せければ、忠興も兼ねて成算のおはしたるに感じて退きたとりぞ、〈武徳大成記、〉

家康伏見を去らず同じころ伏見の御館浅ざまにして且御無勢なれば、御居所をかへられ、六条門跡を御頼ありて彼寺中へ立退かせ給ふか、さらずば京極宰相高次が大津の城に御動座あるべきかなど、とり議しけるに、君の仰に、長袖の門を頼みては、軍に勝ちたりとも心よからず、又大津の城へいらば家康は敵を恐れて落ちたりなどいはれ、重ねて兵威を天下に振ふ事かなふまじ、たゞこのまゝにてあらむこそよけれとて、更に御恐怖の様もおはしまさず、泰然としておはせは、敵方のものも敢て手を下す事もならざりしとなり、この時井伊兵部少輔直政、関東より御勢をめし上げ給はむかと伺ひしに、わが手勢こゝにありあふ者二千ばかりもあらむ、もし不虞の変あらむにも、此人数にては軍するに事かくまじとて聞かせ給はず、前田玄以信長秀吉家康の性格を評す徳善院法印この頃の事を評して、かゝる時に出合ひて、織田右府ならば岐阜まで引退かるべし、故太閤ならば五千か三千にて切つて出給ふべし、さるを内府は聯か御動転なく、日々に棋局をもてあそび、何げなき様して、静静持重しておはせしは、なか名将にもその上のあるものなりと評したるとか、〈紀伊国物語、三河の物語、〉

加藤清正等三成を討たむとす加藤主計頭清正・同左馬助嘉明・浅野左京大夫幸長・池田三左衛門輝政・福島左衛門太夫正則・黒田甲斐守長政・細川越中守忠興の七人の徒、先年朝鮮の戦にいづれも千辛万苦して軍忠を励み、武名を異域にまで輝かせしが、其頃石田三成軍監として賞罰己が意に任せ、偏頗の取計のみして、帰陣の後、太閤へさま讒せしにより、この七人には少しも恩典の沙汰に及ばず、よて七人会議して、三成を打果し旧怨を報いむとするにより、大阪中殊の外騒擾に及び、三成も窘窮してせむすべしらざる所に、佐竹義宣は三成とは無二の親交にして、且頗る義気あるものなれば、密に三成を女輿に乗せておのれ付添ひ、大阪を抜け出で伏見に来り、向島の御館に参りてさま歎訴し奉れば、君には何事も我はからひに任せらるべしと御オープンアクセス NDLJP:1-100承諾まし、やがて御使を七人の方へ遣され仰下されしは、当時秀頼幼称におはせば、天下の物しづかにあらまほしく、誰も思ふ所なり、まして人々はいづれも故太閤恩顧の深き事なれば尚更なるべし、三成が旧悪はいふまでもなけれど、彼已に人々の猛勢に恐れて、当地へまで逃来りし上は、各の宿意もまづ達せしなれば、これまでに致され、此上は穏便の所置あらむ事こそあらまほしけれとの御諚なり、この時七人の者は、三成を討洩せしを憤り伏見まで馳来り、是非討果さむとひしめく所に、かく理非を分ちてねもごろの仰なれば、さすが盛慮に背き難く、まげて従服し奉りぬ、されど三成かくてあらむも世の憚あれば、佐和山に引籠るべしと仰せられて、結城三河守秀康君もて護送せしめ給ひしかば、三成も辛うじて虎口を逃れ、己が居城に還る事を得たり、抑三成当家をかたぶけ奉らむと計りし事、一日に非ずといへども、またその窮苦を見給ひては、仁慈の御念を動かし救済せしめ給ふ御事、さりとは寛容深仁の至、感ずるに余ありといふべきにぞ、〈天元実記、〉

佐竹義宣後年駿河におはしまして、今の世に律義の人といふは、誰ならむといふ者ありしに、その律義なる人は稀なるものなり、こゝらの年月の内に、佐竹義宣が外は見たる事なしと宣へば、永井右近太夫直勝、いかなるゆゑかと伺ひ奉りしに、汝等も知る如く、先年大阪にて七人の大名共、石田三成を討たむとせし時、義宣一人三成を扶持してわが方へ来り、さまこひし旨あるをもて、われ七人の者をいひこしらへ、三河守して三成を佐和山まで送り遣さしめしなり、其折もし途中にて、三成をかの大名どもに討たせては、義宣己が分義立たずとて、道筋へ横目を附置き、万一違変あらば討つて出でゝ、秀康に力を合せむとて、上下軍装してありしとなり、これは誠の律義人といふべけれ、関原の時は何れへもつかず、国に蟄し両端を抱きしゆゑ、其儘にも捨置きがたく移封せしめしなり、はじめより我方に属し忠勤律を抽でむには、本領はそのまゝに遣し置くべきに、残りおほき事なり、とかく律義はよけれども、あまり律義すぎたるといふには、一工夫なくてはかなはざる事なりと仰ありしとか、〈駿河土産、〉

島津義久島津修理太夫義久入道龍伯は、朝鮮初度の役に、豊臣太閤の命により、肥前名護屋に赴きしが、再度の時は龍伯も渡海すべしとありしに、君その年老いて異域に渡らむ事を憐ませ給ひ、さま申給ひ、入道は許され、その弟の兵庫頭義弘を渡海オープンアクセス NDLJP:1-101せしめらる、これより入道御思をかしこみ奉る事大方ならず、慶長四年、その家臣伊集院源次郎忠真、日向庄内の城に籠り、島津に叛きし時、入道家人にいひ付け是を制せしめ、喜入大炊久正を使としてこの旨言上に及び、且庄内の地図を御覧に入れしかば、久正を御前に召し、地形の険易、人衆糧食の多少をつばらに御尋ありし上にて、こは地利を得し敵なれば、俄に責落さむとせば、かへりて士卒あまた損ぜむ、日を曠しうして糧の尽くるをまたば、おのづから力尽きて落去せむ、忠恒は少年の事なれば、血気にはやり急ぎ責落さむとすとも、入道堅く是を制して、兵衆を傷はざらむ様にせよと仰せられしが、果して命の如くにして責取りしとぞ、〈寛永系図、〉

家康秀頼母子に謁す慶長四年九月九日、重陽の佳儀として阪城にまうのぼらせ給ひしが、城中には兼ねて異図ある由、群議まちなれば、本多中務少輔忠勝・井伊兵部少輔直政はじめ宗徒の人々十二人いづれも用心して供奉せり、桜の門迄おはしませし頃、門衛の者、扈従のもの多しとて咎むれども聞入れず、増田右衛門尉長盛・長束大蔵大輔正家出迎へて案内し奉る、井伊・本多等十二人は御跡に附添ひ、御使番の輩五人は玄関に伺公す、かくて奥方に通らひ給ひ、秀頼母子に対面し給ひ、御盃ども出で、とりどり御賀詞を述べらる、この時かの十二人の者どもは、次の間まで伺公し、其様儼然たれば、城中にも兼ねての相図相違して、敢て異議に及ばず、還らせ給ふ折柄、わざと厨所の方へ廻らせ給ひ、一間四方の大行灯のかけたるを見そなはし、是は外になき珍らしき者なり、わが供の田舎者共にも見せ度しとありて、酒井与七郎忠利をもて、御供の者悉く召呼ばれて見せしめられ、内玄関より静にまかでさせ給ひしなり、かゝる危疑の折といへども、聊御平常にかはらせ給はず、人なき地を行くが如く御処置ありて、鎮静をもて騒擾を帖服せしめ給ひし御大度は、いとたうとく仰ぎ奉らるゝにぞ、〈慶長見聞記、〉

此巻は慶長元年大震の事をはじめ、伏見大阪の間騒擾の事どもをしるす、

 
 

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