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東照宮御実紀附録/巻廿二

目次
 
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東照宮御実紀附録 巻廿二
 
君御若年の程より、軍陣の間に人と成らせ給ひ、櫛風沐雨の労をかさね、大小の戦幾度といふ事をしらざれば、読書・講文の暇などおはしますべきにあらず、またく馬上をもて天下を得給ひし事、もとより生知神聖の御性質なれば、馬上をもて治むべからざるの道理を、とくより御会得まして、常に聖賢の道を御尊信ありて、おほよそ天下国家を治め、人の人たる道を行はむとならば、此外に道あるべからずと英断ありて、御治世のはじめより、しば文道の御世話共ありけるゆゑ、其頃世上にて、好文の主にて、文雅風流の筋にふけらせ給ふ様に、思ひあやまりしも少からず、すでに島津義久入道龍伯なども、わざ詩歌の会を催し、大駕を迎へ奉りし事ありしが、実はさるえうなき浮華の事は、御好更にましまさず、常に四子の書・史記・漢書・貞観政要等を繰返し侍講せしめられ、家康愛読の書また六韜三略、和書にては延喜式・東鑑・建武式目などを、いつも御覧ぜられ、藤原惺窩・林道春信勝等オープンアクセス NDLJP:2-97はいふまでもなし、南禅寺の三長老・東福寺の哲長老・清原極臈秀賢・水無瀬中将親留・足利学校三要・鹿苑院発長老・天海僧正など侍座の折から、常の御物語にも、文・武・周公の事はいふもさらなり、漢の高祖の寛仁・大度、唐の太宗の虚懐・納諫の事ども仰出され、さては太公望・張良・韓信・魏徴・房玄齢等が、己れをすてゝ国家に忠をつくしたる言行どもを御賞誉あり、家康頼朝に私淑す本朝の武将にては、鎌倉右大将家の事を絶えず語らせ給ひしとぞ、いづれにも章句・文字の末をすてゝ、己れをおさめ、人を治むる経国の要道に、御心ゆだねられし御事は、実に帝王の学と申し奉るべき事にこそ、〈卜斎記、駿府記、〉

ある時の仰に、われ儒生をして経籍を読ましめて聞くに、おほよそ天下の主たらむものは、四書の理に通ぜねばかなはぬ事なり、もし全部しる事かなはずば、よくよく孟子の一書を味ひ知るべきなりと仰せられしとぞ、〈本多忠勝聞書、〉

人倫の道明かならざるより、おのづから世も乱れ、国も治らずして、騒乱やむ時なし、この道理をさとし知らむとならば、書籍より外にはなし、書籍を刊行して世に伝へむは、仁政の第一なりと仰ありて、これより諸書刊行の事を御沙汰ありしなり、〈武野燭談、〉

藤原惺窩藤原惺窩といへるは、名粛、字斂夫とて、下冷泉宰相為紀の子なり、播磨国細河の領邑に生れ、幼時より好学の志篤く、人となるに及び、博く群書に通じ、一代の博識にして、当時その右に出づるものなし、抑本邦上世より、代々の博士、たゞ漢唐の注疏をのみ用ゐて経籍を講説し、又は詩賦文章の末技をもて、専門とするやから多かりしに、惺窩に至り、はじめて宋の濂洛諸儒の説を尊信し、躬行実践をもて主とし、遍く教導せしより、世の人やうやく宋学の醇正にして、世道に益あることを知るに至れり、君にもはやうその名を聞召し及ばれ、文禄二年、江戸にめしよばれ、御前にて貞観政要を侍講せしめて御聴聞あり、一年ばかりありて帰京す、後慶長五年、かさねて伏見にて拝謁し、漢書及び呂東萊が十七史詳節をよみて御聴に入れ、御家人の徒も、是に従ひて学習するものまゝあり、学校設立の計劃おなじ十九年、林道春信勝・後藤庄三郎光次と共に相議して、京師に学校を剏建して、世人を教育せむことを建白せしに、御ゆるし蒙り、既にその地を検定す、将軍家、この教師には、道春を仰付けられむ御内意なりしが、道春堅く辞し奉りて、惺窩を勧めしが、その内にオープンアクセス NDLJP:2-98浪花の乱起りてやみぬ、また戸田左門氏鉄、老臣等と議して、惺窩を登庸せられむとありしに、折しも惺窩病にかゝり身まかりぬ、いとをしむべき事になむ、〈惺高行状、〉

林道春慶長の頃、林道春信勝、二条の城にめして、始めて拝謁せし時、席上に清原極臈秀賢はじめ、僧徒には承兌元浩などいへる、当時博識と聞えし耆宿どもあまた侍座し、御閑話ありける折から、後漢の光武帝は、前漢の高祖より幾世の孫なりやと問はせられしに、耆宿等さらに記憶せしものなくて、答へ奉ることを得ざりしに、道春末席より進み出で、光武は高祖九世の孫に候事、後漢書の本紀に見え侍ると申す、さらば返魂香の事は何書に出でたると問はせ給へば、これも各答へ奉る事さだかならず、道春又、返魂香の事は、史漢などの正史、には見えず、白氏文集李夫人の楽府及東坡詩注に、武帝この香を焚きて、李夫人の魂を喚び来すよし記し侍ると申す、又屈原が愛せし蘭は、いづれを申すぞと問はせ給へば、蘭の種類さま多く候へども、屈原が愛せしは、朱文公の注に、沢蘭なりと見え候と申す、すべて御尋に応じて答へ奉る事、響の声に応ずるが如くなりしかば、御左右をかへりみ給ひ、年若き者の、よくも博く見覚えたる事ぞとて、御感浅からず、年経て駿府に御隠退の後は、道春殊さら朝夕顧問に備はり、経籍性悝の義理を講明し、和漢史伝の故事どもを御談論ありて、夜ごとの御伽とせらる、又は医官と共に医薬の事を研究し、老僧碩学と仏論を討論せしめ給ふ事もあり、又は東鑑・盛衰記等を校正仰付けられし事どもゝありしなり、一年、神龍院梵舜、御前にまかりしに、日本紀の舒明・皇極の紀をよむべき由仰せられしかど、梵舜よみ得ざりしにより、道春に命ぜられしかば、道春忽に流水のごとく、いさゝか滞ふることなくよみて、御聴に備ふ、梵舜には、其家学とする書を、などよみ得ざるやと問はせ給ひしに、神代の巻には訓点ありて、読みやすけれど、人皇の紀は訓点なければ、よみ解きがたきよし申上げしとぞ、〈羅山行状、〉

新注論語の講説一年、京都にて、道春諸生を集め、新注の論語を講説せしかば、聴衆四方より集りて、門前市をなす、清原極臈秀賢、禁中へ奏しけるは、我朝いにしへより、経書を講ずるは、勅許なくては仕うまつらざる事なり、しかるに道春、私に閭巷に講帷を下し、且漢唐の注疏に遵はず、宋儒の新説を用うる事、その罪かろからざる由なれば、朝議もまちにして一定せず、武家の御旨をうかゞはれしに、君聞召して、聖人オープンアクセス NDLJP:2-99の道は、即ち人の学ばずしてかなはざる道なり、古注・新注は各其好に応じて、博く世上に教諭すべき事なり、これを遮りさゝへむとするは、全く秀賢が偏狭心より猜忌するものなり、尤拙陋といふべしとの御旨なりしかば、其訴も遂に行はれずしてやみしとなり、〈羅山行状、〉

足利学校の再興下野足利の学校は、小野篁が創建より以来、千余年の星霜をへて、年久しき旧跡なれば、上古より伝来の典籍ども、あまた収貯せしが、関白秀次東奥へ下向のとき、立よられしに、そのとき寮主元浩、関白の意に応じ、陪従して京に参りしに、学校の古書・旧物どもあまた持たせ上りしことを聞召して、御けしきよからず、その後秀次、太閤の旨にそむき、罪蒙りて高野山に赴かれしかば、元浩も遠く誦せられしとき、城氏月斎をして元浩を責問したまひ、古来より伝へし四幅の聖像・五経注疏をはじめ、種々の旧物をめしのぼせて、もとの如く学校に返し附せらる、その後三要といへる僧、儈三要また学寮の主宰たりしが、此僧すこぶる博学の聞えありしかば、慶長六年九月、伏見に学舎をいとなまれ、繙素ともに志ある者をして、入学せしめられむとて、三要を召して教授の職に命ぜらる、三要一院を建立したるに、二百石の地を寄せ給ひ、かねて都鄙寺院の訴訟をも聴聞せしめらる、又去年の冬より、貞観政要・孔子家語・武経七書等を海内にひろく施されむとの盛慮にて、慶長活字十万余の活字を新に彫刻せしめ、三要に給はりて刷印せしめらる、三要がために建てられしは今の東山一乗寺村円光寺なり、ゆゑにかの十万の活字は、今もその寺に収貯し、君の霊廟をも建立して、如在の祭奠今に怠らずとぞ聞えし、三要常に御側に侍して典籍の事を奉はり、恩眷を蒙り、采邑百石を賜はり、関原の役には、白絹に朱の丸をゑがき、其中に御筆もて学の一字をかゝしめ、指物に給はりて供奉す、御陣中にありても、日時の旺相吉凶等を考へ奉りたり、伏見・駿河へも常に陪従し、旅行の時は朱符・駅馬を下され、参謁辞見の度々、恩賜の品々数ふるにいとまあらず、後に足利の学校をも御再建ありて、聖廟ならびに寺院まで、荘厳旧に倍せりとぞ、慶長の頃、孟子注七冊・孟子古注二冊続資治通鑑綱目十三冊・貞観政要八冊・六韜三略三冊・柳文二冊・韓文正宗二冊・唐詩正声四冊・古注蒙求一冊・長恨歌一冊・禅儀外文二冊を御寄附ありしなり、又三要が後に住せし寒松も、貞観政要の訓点して奉りしかば、其時は金・時服等をたまひ、その労を賞せられしとぞ、〈足利学校旧記、足利学校蔵書目録、羅山紀行、慶元記、慶長オープンアクセス NDLJP:2-100見開記、足利学校由来、〉

古書蒐集応仁よりこのかた、百余年騒乱打つゞき、天下の書籍ことく散佚せしを御歎きありて、遍く古書を購求せしめらる、この時諸家より献りしものまた少からず、菊亭右府晴季公よりは、金沢文庫に蔵せし律令を献ぜらる、こは武州金沢にありしを、関白秀次召取りて蔵せられ、後に菊亭に贈られしを、今又献ぜしなり、日野前大納言輝資入道唯心は、おなじ古写本の侍中群要抄及故実鈔、飛鳥井中納言雅庸卿は、その家の系図、又歌道宗匠の日記、新歌仙冷泉中納言為満卿は大比叡歌合を献ず、伊豆の般若院快運は続日本紀を献ぜしに、闕巻ありしかば、五山の僧徒して補写せしめらる、金地院崇伝長老は、甲州身延山にありし、本朝文粋二部を取出して献りしに、第一の巻闕けたりしを、道春京師にて探り得て補写し、全備せしかば、御感心あり、又相国寺良西堂は、左氏伝二十冊・斉民要術十巻を奉り、円光寺閑室が遺物として、その寺より黄氏日鈔三十冊を献じ、神龍院梵舜は武家御伝・皇代記・源氏系図等を捜索して献る、この梵舜といへるは、元吉田家より出で、豊国大明神の奉祠なりしが、其頃博識の聞えありしかば、常にめして顧問に備へられ、異書捜索の事を奉はり、金銀・布帛給はりし事度々なり、また慶長十四年、島津陸奥守家久、琉球国を征伐せし時、大島・徳島を攻むる由注進ありしかば、この島の事を、その頃博治の聞えある公卿・殿上人、また儒者等をめして、御尋問ありしかども、さだかに知る者なかりしに、九州の禅僧玄蘇といへる者より、八島の記といふ書を献じて、さだかに知ろしめしけるとぞ、〈駿府記、慶長見聞録案紙、〉

文庫の設立慶長七年、江戸城内にはじめて御文庫を創建せられ、金沢文庫に伝へし古書どもをも、あまためして収貯せられ、田村安栖長願をして、足利学校寒松をめして、文庫の目録を編聚せしめられ、その六月、寒松に銀・時服を賜はりたり、〈慶長見聞録、〉

古書の新写院の御所をはじめ、公卿の家々に伝ふる所の本邦の古記録を、遍く新写せしめ給はむとの盛慮にて、内々院へも聞えあげ給ひ、公卿へもその旨仰下され、五山僧徒の内にて、能書の者を撰ばしめ、卯刻より酉刻まで、日毎に京の南禅寺にあつまりて書写せしめられ、林道春信勝・金地院崇伝これを総督す、この時御写になりし書籍は、旧事紀・古事記・日本後紀・続日本後紀・文徳実録・三代実録・国史・類聚国史・律・令・弘仁格・同式・貞観格・同式・延喜格・同式・新式・類聚三代格・百練鈔・江家次第・新儀オープンアクセス NDLJP:2-101式・北山鈔・西宮鈔・令義解・政事要略・柱下類林・法曹類林・本朝月令・新撰姓氏録・除目鈔・江談鈔・会分類聚・古語拾遺・李部王記・明月記・西宮記・山槐記・類聚三代格・釈日本紀・名法要集・神皇系図・本朝続文粋・菅家文集等なり、これ等の書籍、其頃までは家々に秘め置くのみにて、世の人書名をだに記すものなかりしが、この時新写ありしにより、公武の規法も、これ等に根拠し撰定せられ、後々には世上にも写し伝へ、今の世に至りても、国書を読むもの、本邦古今の治乱盛衰を考へ、制度典章の沿革せし様を伺ひ知る便を得しは、全く当時好文の御余沢による所なり、こみても、なほあまりある御事にぞ、〈駿府記、〉

群書の刊行群書治要・大蔵一覧も、道春崇伝に仰下されて、銅製の活字もて刊行せしめられ元和元年六月、竣功によて御覧に備へしが、文字鮮明なりとて御称美あり、この書三家はじめ国々へ賜はり、諸家ともに闕くべからざる書なれば、二百余部を刷印して、一部ごとに朱章をおして、諸寺へ頒ち下されしとぞ、我邦にて書籍刋行の事、仏典などは古くより、たまさかに雕刻せしこともありしかど、なべて群書を刊行せしめられしは、この時を創始とするにぞ、〈駿府記、〉

東鑑の刊行五十川了庵は、名は春昌、一には宗知といひ、又春意とあらたむ、慶長七年、了庵私に太平記を梓行して、世上にひろめしこと聞召して、御文庫の東鑑を貸し給ひ雕刻せしむ、この東鑑は、小田原の北条が蔵本なりしを、小田原の戦ありし時、黒田孝高入道如水、城内に御使せし日、氏政これをねぎらひ、引出物にせしを、如水より献ぜしなり、いと罕遘の書にして、原本今なほ楓山御文庫に現在せり、〈了庵碑銘、鷲峯文集、〉

世界図の屏風慶長十六年九月、西域より世界の図の屏風船来せしかば、駿府へ進らせられしに、御覧ありて、後藤庄三郎光次・長谷川左兵衛藤広を御前にめして、万国の事ども御尋問ありて討論せられしなり、凡そ其ころ異域の事は左兵衛藤広、貨財の事は庄三郎光次、はた寺社の事は金地院崇伝奉はりて沙汰する、常の事なりき、〈駿府記、〉

日野前大納言輝資人道唯心・舟橋式部少輔秀賢・円光寺閑室・金地院崇伝等、御談伴として毎度伺公する頃は、和漢古今の事跡、又は京都寺社の事ども、御ものがたり絶えずおはしけり、其頃冷泉中納言為満卿江戸へまかり、拝謁ありしかへさ、駿府へまかり見え奉りし時、御蔵の定家卿自筆の歌書を見せ給ひ、歌道の御物語あり、また其後中納言その秘本なりとて、卅六人の歌を一人ごとに十首づゝえらみ、定オープンアクセス NDLJP:2-102家卿のみづから書かれしを持いでゝ御覧にそなへ、為家卿自筆の仮名遣等も御覧ぜさせらる、定家真蹟の伊勢物語そのころ江戸より土井大炊頭利勝御使として、定家卿真蹟の伊勢物語を進らせらる、これは後土御門院の御物なりしを、能登の畠山義統入道へたまはり、後に三好修理大夫長慶につたへ、三好亡びて後、和泉の堺の商人の蔵となりしを、細川玄旨法印購求して秘蔵せしが、後に下野守忠吉朝臣懇望して、其蔵となされ、朝臣うせられて後江戸の御物とはなりしなり、こは殊さら御感ありて、日野・冷泉・飛鳥井等の人々をはじめ、公武の徒にも見せしめたまふ、又山崎宗鑑が書きし廿一代集、尊応准后・飛鳥井栄雅両人が奥書せし定家卿真蹟の古今集、逍遥院・称名院両筆の三代集及び伊勢物語、又高野大師真蹟の般若心経、佐理・行成の真蹟なども、同じくめづらかなるものなりとて、例の人々に見せしめたまひしとなり、〈駿府記、〉

源氏物語の研究飛鳥井中納言雅庸卿、駿府へ参りしとき、俄に源氏物語を講談すべしとの事にて、御茶室にて進講あり、後に又この卿より、源語の内にて、秘説とする所、三箇の大事を御相伝あり、又大坂の戦畢りて後、中院中納言通勝卿を二条の御城にめし、数寄屋にて源氏物語箒木の巻を講ぜしめて御聴聞あり、侍女どもにも聞かしめらる、又高野の検校法性院政遍といへる老僧謁見せし時、林道春信勝もて、徒然草に載する所の招魂の事を尋ね給ひしに、政遍申すは、密宗にて招魂の法行ひて、加持する事は侍れど、喚子鳥の鳴く時に修法する事は心得ず、たゞ魂をよぶといふにより、かゝる事いひ出でしならむと申せば、道春そのよし申上げけるとぞ、〈駿府記、〉

慶長十六年十一月十八日、御鷹狩ありて、藤沢の駅にやどらせ給ひし時、増上寺西誉の弟子支恵・鎌倉荘厳院の住僧等謁見し、御談話に侍しけるに、鎌倉右大将家このかた三代の事跡、北条九代の間の事ども御尋ありければ、詳に答へ奉り、またその寺に保暦間記といへる書を蔵せり、保元より暦応にいたるまでの治乱興亡を、ほゞ見るに足れるものなりと聞えあげしかば、それを御覧ぜらるべしとありて、同じ十九日、中原の御旅館へ持いでゝ、直に読ましめ、鎌倉の旧事ども終夜御物語おはしけるとなむ、〈駿府記、〉

家康五山僧徒の詩文を試む詞芸の末までも捨てさせ給はず、各其業を励まし給はむの盛意なりしかば、慶長十九年三月の頃、五山の僧徒参向せしとき、かれら常に文字を嗜むよしなれば、文オープンアクセス NDLJP:2-103章を試みらるべしとの御事にて、林道春等是を沙汰し、論語の中より為政以徳、譬如北辰居其所而衆星むかふ之といえる題をたまはりんば、やがてこの文章を作り出で御覧に備ふ、その日又席上にて、宝樹多華菓、衆生所遊楽を頌文の題として、つゞり出でし文どもを御覧ぜし時、いづれも今まさに天下静謐して、北辰の其所にあるが如く、動きなき御代は、万々年もかぎりあるべからずなどいへる趣なりしを御覧じ給ひ、是は十分ならざる書きかたなり、北辰の動かずして、万民これをむかふがごとく、徳をもて天下を治むるといへる、その徳はいか様にして身に得るものならむといふ趣をこそ記すべけれと仰せられしとぞ、又江戸にても、この輩に試文を作らしめ、駿府へ進覧せしめらる、そは君子徳風也、小人徳草也、草上之風必偃をもて策文の題とし、是法住法位、世間相常住をもて顔文の題とせられしとぞ、〈駿府記、〉

ある時、伏見城にて、冷泉黄門為満卿へ、人丸が伝たしかに聞召されたしと仰ありしに、黄門、こは神秘の事にて、つばらには聞え奉りがたしと申す、その時道春も侍座せしが、万葉集に四人の人丸あり、そが中に和歌の堪能なるは、柿本の人丸なりと御答申上げしかば、黄門はたゞ何ともいはでありしとか、後に道春この事を友人松永貞徳に語りしかば、貞徳、そは卒爾の事なり、人丸が事は、歌道の上にて、いとおもしくする事にて、御辺などが唐まなびの格と、同じやうに心得まじきなりといひしとか、又古今集の内の三箇の秘事を御たづねありしに、道春つばらに御答申せしが、後に黄門がこの秘事伝へ奉りしと、全く符合せしかば、道春が博識に感ぜられしなり、〈駿府政事録、〉

道俸中庸を講ず慶長十七年三月、駿府にて林道春信勝侍座の折ふし、中庸に、道はそれ行はるべからずといふは、いかにして行はれぬぞと御尋あり、道春、道の行はれざるには侍らず、たゞ孔子の頃の人君、みな暗愚にして、行ふことの能はざるなりと申す、さらば中といふはいかにと問ひ給へば、おほよそ中と申すは、一定し難き事にて、一尺の中は一丈の中に非ず、一国の中は天下の中に非るが如く、その物その事によて、おのおの恰好の道理あるを中とは申せ、かゝれば中と申すは、即ち理と申すも同じ様の事なりといふ、又中といふも権といふも、みな善悪あり、殷の湯王、周の武王が臣をもて君を討ちしは、その跡あしきに似たれども、その心は善なり、古人の逆にオープンアクセス NDLJP:2-104取りて順に守るといふに当れり、されば善にもなく悪にもなきを、中の至極とやいはむと宣へば、道春、某が愚意は尊旨とはいと異なり、その中といふは、全く善にして、いさゝか悪しき所のなきを中と申す、ゆゑに善を善とし、悪を悪として、取捨するも中なり、是非を考へ、邪正を分つもまた中なり、湯武の天命に応じ、人心に順ひて桀紂を伐ちしも、はじめより己が身の為にせむの心なくたゞ天下の為に暴悪を除きて万民を救はむの本意なれば、いさゝかも悪とは申すべからず、漢の王莽、魏の曹操等が如きは、人の国家を奪ひ、己れ一心の驕奢を専らにせむとのみ思へば、これ奸賊にして、湯武とは天地の違なり、又逆に取りて順に守るといふは、権謀術数の徒の申す所にして、聖人のいはれし権道とは、いたく違へる事なり、是等の事みな経典の上に記し侍れば、よく御覧ありて、邪説の為に御疑惑おはしまさゞらむこそ肝要なれ、すべて古今聖賢の懇に教へ置きし言葉は、たゞ理の一字には過ぎ侍らずと申上げしかば、其説の醇正にして、且明晰なるを感じ給ふ、又万書統宗といふ書を道春に見せしめ、袁天綱が十将々訣・李淳風が六寅占・及び擲銭の占掌裡の算などの事尋ね給ひ、又論語の一貫の章、あるは廐焚の章の不字を否の字となして読まばいかに、当時明国にて天下を治むる道は明かなりやなど、さま御尋毎に、道春いつもつばらに御答申上げて、御感にあづかりし事度度なり、〈羅山行状、〉

元和元年八月、御上洛のかへさ、水口の駅にといまらせ給ひ、折しも雨ふり出でて、三日ばかり御滞留まし、夜深くるまで、道春を御前にめして、論語学而の篇を講説せしめて聴かせらる、能の一字御みづからも能竭其力、能致其身といふ所を読ましめ、能といふ字によく心付くべきなり、たれも君・親のために、己が力を尽さぬものはなけれども、いかゞするが善き悪しきと、わがこゝろもて分別取捨するをもて肝要とすと仰ありしかば、道春も趙苞が故事を引きて御答せしが、後々までこの事いひ出でゝ、かしこさのあまり、すゞろに袖をぬらしけるとなむ、〈丙辰紀行、〉 駿府へ江戸より御使として、成瀬豊後守正武まかりしに、家康秀忠へ書籍を贈るそのかへさにつけて、周礼七冊・晋書五十冊・戦国策三冊・楚辞三冊・准南子二冊・家礼儀節四冊・玉海八十冊・陶靖節集二冊・李白集十五冊・陸宣公集四冊・続杜偶得十五冊・樊川集四冊・二程全書五十六冊・朱子大全六十二冊・朱子語類七十四冊一冊欠、大学衍義十五冊・唐書衍義オープンアクセス NDLJP:2-105三冊・東萊博議十冊・南軒集十冊・文山集十五冊・索陽文集十冊・唐音十冊・文章弁体廿二冊・文章正宗十三冊・牧隠集六冊・湖隠集八冊・自警編五冊・皇華集五卅・理学類編二冊をまゐらせらる、駿府にては林道春・与安法印宗哲これを沙汰し、江戸にては林永喜閑斎これを掌る、また慶長十九年四月、本草綱目一部を江戸に送らせられし事あり、是は江戸の御収蔵になきをもてなり、神さらせ給ひし後、道春兼ねて預り奉りし駿府の御本をいかゞせむと、土井大炊頭利勝もて、駿府御本江戸に伺ひしかば、将軍家、われ已に天下の譲を受けし上は、何をか望まむ、書藉はみな三家の方々へ分ち遣すべしと仰ありて、道春さるべく配賦して、尾・紀・水の家臣へ引渡し、その内にて尤罕達のものをばとり置きて、後に江戸の御文庫に納めけるとぞ、又本邦の記録は、兼ねて三通を御写ありて、一部は内裡、一部は江戸、一部は駿府に置くべしとの命ありしかば、これも駿河にありしをば、江戸の御文庫に納めたり、今楓山に宝蔵せらるゝ所のもの是なり、〈駿府記、丙辰紀行、〉

医薬本草医薬本草の事などにも御心よせさせ給へり、京都より施薬院宗伯まかりしに、常に御前にめして、与安法印等と物産の事ども御尋問あり、またあるとき光明朱を求められしに、いづれも下品なれば、吉田意安宗恂が父は、明国へ渡海しつれば、意安、父が持来りし朱を献りしに、御心にかなひ、さすが名家なり、かゝるものまで貯へたりと御賞誉あり、この後は海舶に、これを証として購求せらる、又意安に紫雪を製してたてまつらしむ意安、和剤局方に拠りて調じて献りしかば、是も御けしきにかなひ、是より衆医みなこの製に倣ひて作ることなり、あるとき南舶より、薄き石の一尺ばかりにして、側柏の如くなるを献る、其形木賊・柏葉の連りしに似たれば、めづらしと思して、衆医に問はせ給へども知る者なし、意安、こは瑪瑙の花なるべしと御答せしが、後に本草綱目ル検点せしに、果して申す所の如くにてありしとぞ、また海舶より、珊瑚の枝を献りしに、その頃はいまだ世にまれなるものなれば、たれも見馴れず、よてその形を図して、衆医に名を問はしめしに、いづれも御答するものなし、意安、これは必ず珊瑚の枝ならむとて、出典と蜑人の海底に入りて、これを採る様など、委しく書きて奉りしかば、その該博なるに感じ給ひ、一枝を分ちて下されしとぞ、この意安は、たゞ医学に長ぜしのみならず、経義も藤原惺窩に従ひて学び、家学の事につきては、さま著述などありしものなり、〈駿府記、オープンアクセス NDLJP:2-106寛永系図、〉

御家流建部傅内賢文といひしは、青蓮院尊鎮法親王の門に入りて、能書の聞えあり、その子の伝内昌興も、父を継ぎて入木の道に達せしかば、慶長元年、伏見にて召出され、右筆とせられ、采邑五百石賜ひ、常は近侍して筆翰の事奉はり、薩摩守忠吉朝臣はじめ、公達の方々へ、筆道をつたへまゐらせければ、これよりして御家流と唱へしとぞ、〈家譜、〉

家康の吟咏詩歌などの末枝は、元より御好もおはしまさねば、殊さらに作り出で給ふべくもあらず、されど折にふれ時によりて御詠吟ありしを、後々より繰返し諷詠し奉れば、さながら御文思の一端を知るに足れり、よてふるくより書にも記し、口碑にも伝へしものどもをかき集めて、御文事のすゑに附し奉ることになむ、

御幼年の頃、三河国法蔵寺におはして、御臨書ありし時、渡唐の天神の賛をあそばされしとて、今もその寺に伝へしは、

   一年にたけ高くなる竹の子の千代を重ねむ君が操は

天正十六年四月十五日、主上、〈後水尾院〉豊臣太閤の聚楽郎に行幸ありしとき、君も内のおとゞにて、和歌の御会に列ならせたまひ、人々とおなじく、寄松祝といふ事を詠ませ給ひける、

   みどり立つ松の葉ごとに此君のちとせの数を契りてぞ見る

同じとき、四月廿日によませ給ひしは、

   幾千世の限あらじな我君の光をうつす大和もろこし

文禄三年二月廿九日、豊臣太閤吉野山の花見ありて、歌会催されしに、君もその席に列し給ひて、御詠出ありし五首、

    はなのねがひ

   待かぬる花も色香をあらはして咲くや吉野の春雨の空

    花をちらさぬ風

   咲く花をちらさじと思ふみよしのは心あるべき春の山風

    滝の上の花

   花のいろ春より後も忘れめや水上遠き滝のしら糸

    神の前の花

オープンアクセス NDLJP:2-107    としの花の磯の吉野山うらやましくもすめる神垣

    花の祝

   君が世は千年の春も吉野山花にちぎりは限あらじな

駿河国阿部郡福田寺といへるは時宗にて、藤沢の清浄光寺の末寺なり、一年御放鷹の折から、この寺に休らはせ給ひ、その前の山々の名を問はせ給ひしに、後藤庄三郎光次御供に在りて、東の方に見ゆるは八幡山・清水・愛宕山など申上げゝれば、その様京の丸山に似たりと仰せられしかば、この後光次京より丸山の寺僧養徳軒を呼下し、一寺を建立し、名をも丸山と称しぬ、その明年、関原の乱により、再びこの寺に立よらせ給ひし時、ながれの井といふが湧き出づるを御覧じて、

   松高き丸山寺のながれの井いく千代すめる秋のよの月

かくなむあそばしけるが、これより寺をも秋月山福田寺と号し、御詠筆も今に寺に宝蔵するとなむ、〈後藤由緒附録、〉

慶長二年正月、御眼疾により、遠州秋葉東照山平福寺に御願書をこめられしに、そへ給ひし御詠、

   明らかに東を照す御ひかりちかひをわれに譲り給へや

関原の役に、高野聖方総代常住光院、御陣に参謁せしとき、色紙に御筆を染められて下されし御詠、

   旅なれば雲の上なる山越えて袖の下にぞ月をやどせる

いつの頃にか、八幡の社に詣でゝ、よませ給ひけるとて伝へしは、

   武士の道のまもりをたつか弓八幡の神に世を祈るかな

楼が岡といふ所にて詠ませ給ひけるとて、江戸小日向服部坂龍興寺に蔵する所の短冊の御詠、

   つひにゆく道をば誰も知ながら去年の桜にいろを待ちつる

御鷹野の折、雲雀の空高くまひあがるを見そなはして、

   のぼるとも雲にやどらじ夕雲雀遂には草の枕もやせむ

と詠ませ給ひしが、その雲雀俄に地に落ちしとなむ、三河国碧海郡野畑村里民高橋武右衛門が先祖に賜はりしとて、所蔵せしは、

   天が下心にかゝる雲もなく月を手にとる十五夜のそら

オープンアクセス NDLJP:2-108人材を教育し給はむの盛慮にて、よましめ給ひしとて伝へしは、

   人おほし人の中にも人ぞなき人となせ人人となれ人

御辞世の御歌なりとて伝へし二首、

   嬉しやと二度さめて一眠りうき世の夢は暁のそら

   先にゆき跡に残るもおなじことつれて行かぬを別とぞおもふ

京におはしましける頃、北野の松原に渡御ありし時、誹諧体の御詠、

   松の木はものゝ奉行にさも似たり曲らぬやうで曲りこそすれ

三河にてある戦の折、本多忠勝はじめ、わづか七騎にて、大樹寺に入らせたまひしに、敵また襲ひ来りしかば納所の僧祖洞といへる大力なるが、施餓鬼の布旗を竹竿に附けて出でしが、旗の乳木にさゝはりて、切りけるを御覧じて御戯に、

   切むすぶ太刀の下こそ地獄なれかゝれや懸れさきは極楽

とあそばし、祖洞が働にて御危難をまぬかれ給ひ、岡崎へ還御ありしとなむ、〈寺伝、杉浦氏蔵、新撰和歌現今集、和歌勲功集、松平太郎左衛門家伝、道斎聞書、前橋聞書、三州本間覚書、〉

小牧の戦に、梁田弥二九郎といへる御家人、軍忠を竭せしかば、御感状の内に、御狂詠をそへて下され、且月山の御刀を賜はる、その御書は、

はらひ切る三尺五寸月山の刀、日頃その許望の由、只今万千代申、つたへきく、異国のこわうていは、ひげをきり灰にやく、我朝の源公は、〔継〕信に太夫黒を引き給ふ、次信にまさらむ忠をや、いかでか義経に豈おとらむや、とくにきかではうたち候、則遣候也、

   さきかけて火花をちらす武士は鬼九郎とや人はいはまし〈貞享書上、〉

文禄三年、豊臣太閤、母公の三周忌辰によて、高野登山あり、公卿には近衛龍山公はじめ、武家には君をはじめ奉り、あまた陪従せられ、法筵畢りて後、百韻の連歌興行ありて、発句は太閤これを題せられ、紹巴が、

   さらに夕は秋の涼しさ

といふ前句に附け給ひしは、

   露をたゞ一むらさめの名残にて

この時大徳院にて菅神の像を画かしめ、扇面に御詩作をあそばし、足利学校三要が和し奉りし詩も伝へたれど、何れも闕脱して読み兼ぬれば、こゝには載せ奉らオープンアクセス NDLJP:2-109ず、〈髙野大徳院記録、〉

慶長九年三月、豆州𤍠海に湯あみ給ひしとき、御独吟の連歌を、仙台政宗が家臣、猪苗代兼如に見せしめ給ひ、兼如が点して奉りける内の御句とて伝へけるは、

   春の夜の夢さへ浪の枕かな

   曙ちかくかすむえの舟

   ひとむらの雲にわかるゝ雁啼きて

おなじ十九年八月十二日、山名禅高を御前にめして、両吟連歌あそばしける表八句に、

   いらざらむ空にぞみばや秋の月

といふ能阿弥が古句を御転用ありて、いと御けしきよかりしとなむ、〈諸家感状録、駿府記、〉 いづれの御出陣の折にか、鈴木長兵衛重次が家の前を通らせ給ひし時、重次己が園中の柿を籠にして献りければ、御気色うるはしくて、今戦に臨みて献る所の柿、正に熟して、その色日のごとし、これ武威の赫然として、軍に勝つべき瑞徴なり、又その味をもていはゞ、三河武士の剛渋の気象あり、これ敵の首級を得べき兆、この実を献りしは、大軍の救援を得しよりも勝れり、名づけてこしぶとこそいふべけれとて、御戯に、

   ほくひをもかきとる秋の最中かな

とあそばしけるに、本多平八郎忠勝が御供にありしが、武勇あくまですぐれしのみならず、心も優なりしにや、

   かまやり取りてむかふ月影

と附け奉りしかば、君をはじめ奉り、供奉の輩までみな興に入りて、勇気百陪せしとぞ、〈鈴木家譜、〉

此巻は御文事にあづかりし事を記す、

 
 

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