東照宮御実紀附録/巻十四

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東照宮御実紀附録 巻十四
 
大坂冬陣

慶長十九年十月朔日、駿城にて観世左近に猿楽仰付けられ、頼宣・頼房の両公達かなで給ふべしとて、その御催なりしが、折しも前夜より雨降り出で、当朝に至りでもいまだやまず、かゝる所に京の所司代板倉伊賀守勝重が許より急逓来りて、大坂違乱の由注進す、其時君は後閣に渡らせ給ひければ、本多上野介正純、阿茶の局をもてかの書を御覧に備ふ、即ち正純を後閣に召して、国々への廻状を調せしむ、駿河より京までの国々の城主は、支度次第打つて上るべし、藤堂和泉守直孝・松平下総守忠明は、東寺より鳥羽の間に備へて非常を戒むべし、松平隠岐守定勝は伏見を守るべしとなり、この時成瀬隼人正正成は、尾州へ往いてあらざれば、正純と安藤帯刀直次と、両判の御教書なり、松平右衛門大夫正綱は、かねてこの日の御能の事承りてありしが、いまだ此事知らざれば、はや雨も晴れたり、御能はじめさせ給はむかと伺ひしに、近日出陣するものが、能など見オープンアクセス NDLJP:2-5て居らるゝものかとの上意なり、これによりて上下はじめて浪華違乱の事を知りしとなり、〈天元実記、〉

天龍川の浮橋十月十一日、駿河の田中に至らせ給ひ、天龍川の浮梁落成しつれば彦坂九兵衛光正その由申上ぐ、御駕いまだ渡らせ給はざる間は、行人を禁ぜむと聞えければ、上意に、おほよそ舟梁かくるは、往還の便よからしめむが為なり、わが渡らずとて、行人を禁ずべき事か、但し大勢一時に渡らば、橋の損することもあらむ、一騎づつ通すべしと仰付けられしとぞ、〈東遷基業、〉

御若年より、軍陣あらむとする前方には、いつも御はかし取出さしめ、帯せられて御覧ある常の事なり、此度も例の如く、御太刀取出さしめて帯し給ひ、われ年老いて、このまゝ席上にて打果てむは、残多き事と思ひしが、この事起りしは本意の至なり、速に馳上り、敵どもを打果し、家康老後の思出老後の思出にせむと上意ありて、御太刀を抜かせられ、御牀の上へ躍上らせ給ひければ、その御様見奉りし者、御英気の老いてもさかりにおはしますに感服して、誰も勇気いやませしとぞ、〈慶長見聞書、〉

十一月五日、甲山の辺にて、数万の蛙集りて、南北に分れ、くひあふ事半時計なりと聞召し、蛙軍はめづらしからぬ事ながら、天寒には土中に蟄居してあるべきを、かく身体を動して戦ふは、奇異の事なれと仰せらる、又新宗村に生ひし蘆は、片葉なりといふを聞召し及ばれ、刈よせて御覧あるに、果して片葉なれば、松平右衛門督忠継、この辺の蘆は、蘆にはあらで荻なりといへば、汝は、難波の蘆は伊勢の浜荻といふ事は知らずやと仰せられしとぞ、〈東武雑録、明良洪範、〉

十一月十二日、二条の御城にて、高野の僧侶の論議を聞召されし半ばに、佐竹右京大夫義宣が参着のよし、言上する者ありしに、論議の折柄、何を申すぞとて咎められ、論議はてゝ後、其僧どもねぎらはれ、こたび大事の戦に打立てば、先是迄にて聞さしつ、かへさにいとまあらば、再び聴かむと仰せられて後に、佐竹よべとて、義宣に御逢ありしが、その御様平常の如く、いさゝか遽忙の体ましまさゞりき、この由大坂にも語り伝へて、大御所御老年ながら、御大度の日頃にかはらせ給はず、かくてはこたびの軍、城がたはかしき事はあるまじとて、心ある者は密に歎息せりとぞ、〈武徳編年集成、〉

家康予め軍令を定めず此度将軍家より軍令を草せしめて、本多上野介正純もて御覧に入れ給ひし時、将オープンアクセス NDLJP:2-6軍には、いかさまこの通にてよからむ、われは年若き程より、いつの戦にも軍令出せし事なし、いかにとなれば、定めし法の通りにして、もしかなはざる時は、咎むる事もならず、又軍法に違ひてよき事ありとも、それを誉めては法が立たぬゆゑ、時宜に任せて事を済ませしなりと仰なり、又関原の役には、御旗・御長柄の立て所、及び使番・目付等の備へ所、つばらに定め給ひしゆゑ、此度も先年の如く仕らむかと、正純、二条城にて伺ひ奉りしに、関原役と大坂陣汝は天下分目の戦と、秀頼を成敗すると、同じ様に心得しや、今度わが旗本の陣法がいるものか、たゞ平押に押寄せて攻むべし、味方の者ども、居たき所に勝手に居よと仰せられしとなり、〈駿河土産、〉

十一月十六日、南都を御立ありて、大坂へ赴かせ給ふに、本多正純、供奉の者に甲冑着せむかと伺ひしに、先年関原の役に、市人金六といふ者が甲冑着しを村越茂助直吉見て、市人の分として、兵具をまとふは不当の事なり、きと咎め申付けむといひ出でしを、まづ捨置きて其様を見よといひしが、果して一両日経て、路傍の松の枝に、具足一領懸りたりといひ出でたり、よく尋ぬれば金六が着せしなり、よて彼を呼出して尋ねしに、走り廻りに不便なるのみならず、骨節もいたみて堪へ難ければ、脱棄てたりといふ、かゝる例もあれば、今南都より大坂迄路程いまだ隔りしに、早く具足着せば、三軍いよ疲労せむ、しばし待ち候へと仰せられ、その夜は法隆寺に宿らせ給ひ、明日十七日御出立の時、こゝよりは兵具を着せよと仰付けられ、金地院崇伝・林道春・与庵法師も人並に鎧着て御前へ出でしかば、我等が麾下には、三人の法師武者があるとて御笑ありしとぞ、法師武者

按に、幸若太夫が家伝には、君常に幸若歌曲をすかせられ、この御陣にも太夫を召連れられしが、この三人の円頂の徒が物具せしを御覧じて、幸若曲の堀河夜討に、我等が手に三人の法師武者があるといふを、ふとおぼしめし合されて、此御詞は仰出されしなりといへり、さもあるべし、

十九日、茶臼山に御陣をすゑられ、古兵の徒召出し、此度合戦の意見を、宿老して御尋ありて、君には障子隔てゝ聞召す、其時山名禅高上座にひらき居て申しけるは両御所は仙波より御出馬あつて、備前島に攻かゝり給はゞ、忽ち落城すべしと、事もなげにいひ出でぬ、君はほゝゑみておはせしが、明くる年落城の後に此事仰出され、去年禅高が城攻の事議せしは、城の中に人なしと思ふ攻方なり、其攻様オープンアクセス NDLJP:2-7にては、城に寄すると等しく、上なる者は鴟口などもて城墻をかけ倒さむと思ひ、中なる者は、たゞ声を立てゝ噪ぐべし、下なる者はその擾騒に紛れ、逃れむとのみ思ふべし、さる時は城は落ちずして、死亡のみ多からむ、白鳥は嘴円かにして、人を啄くものにあらざれども、是を捕へむに、一人は味、二人は両翼、一人は胴と、四人もかゝらでは捕ふる事かなはず、まして思慮もなく城を攻めて、いかで落つべきや、禅高が攻方こそいと面白けれとて、御笑ありしとぞ、〈武功雑記、〉

家康の諸陣巡視諸口御巡視あらむとて、たゞ御一騎城の堀際まで乗廻し給ふ、いづれも馳出で供奉せむとするに、本多佐渡守正信制しとゞむ、君は御素肌に鷹の羽散したるはな色の御羽織をめし、鹿毛の馬にめして、城溝の辺に立たせ給へば、城中より打出す鉛丸雨の如く来るに、いさゝか恐れ給ふ御気色なく、加賀・越前の丁場まで巡視あつて、住吉の御陣へ還御あり、この時の事にや、鉛丸しきりに飛び来れば、正信、この所に御長居は恐れ多し、早く避けさせ給へといふに、聴かせ給はず、かゝる所へ初鹿野伝右衛門信昌・横田甚右衛門尹松の両人進み出で、殿には元より鉄炮のはげしき所をすかせ給へば、こゝより船場の陣には、大筒を仕かけてあれば、ちと御覧ずべし、いざ御供申さむとて、御馬の口をその方ざまへ引向けて、即ち船場へおはしけり、こゝは蜂須賀が持口にて、城より間数遠ければ、鉛丸の来る事稀なり、大将が巡視に出で、鉛丸が恐ろしとて引返さば、三軍の示にならず、さすがかの両人は甲州者程ありて、軍陣の法に錬熟せし事よとて、殊に御賞誉ありしなり、〈大坂覚書、感状記、〉

伊達政宗・佐竹義宣・上杉景勝の三人、御気色伺ひのため、住吉の御陣へ参り謁し奉りし時、政宗は猩々緋の袖なし羽織に、白熊もて菊とぢつけ朱鞘の差添に白銀の打鮫、紅の腕ぬき付けしを帯す、義宣は黒き羽織に五本骨の扇をつけたり、上杉景勝の虚飾景勝は黒きとう織の羽織に、慶金にて蘆に白鷺をぬひ付け、赤き紐をつけたり、三人まかでし後、仰ありしは、景勝は律義なれど、奢侈なる人を使ふと見えたり、それらが仕業にて、いらぬ装飾せしなり、近頃笑止なる事かなと宣ひしとぞ、〈駿河土産、〉

廿五日、茶臼山へ御陣がへあり、諸大名も参謁し、還御の折、将軍家より進らせられし、黒粕毛の馬を引出でめされむとす、其時城の方に向ひて馬嘶きければ、敵方に向ひていばふ馬は、まれなるものなりとて、御気色大方ならず、藤堂和泉守高虎承り、この事いと御吉兆なりと申上ぐ、さて地道一二へむめすに、諸大名いづれもオープンアクセス NDLJP:2-8うづくまり居て拝み奉る、仰に、われ若かりし程は、馬上にて鷹をも使ひ、鷹の捉りし鳥を馬上にて取りし事もありしが、今は馬ばかりも乗りかぬるぞ、老といふもの程、はかなきものはなけれと宣へば、いづれも、御年よられても、御意気のいよいよ御勇壮におはしますとて、感驚しけるとぞ、〈天元実記、〉

伊達政宗茶臼山の御陣へ参り、御物語の序に、かゝる騒擾の折は、人心計り難ければ、朝夕の供御なども、よく御心付けらればよからむと申上げしに、尤の事と聞召し、是よりは供御きこしめすに、にとり役御にとりの役立て置かれ、後々までも三河以来譜第の者もて、その役にあてらるゝ事となりぬ、〈雑話筆記、〉

按に、御にとり役とは、今の世の御膳奉行の事なり、寛永・寛文の頃までは、かく唱へしなり、今も食物の試するを、おにをするといふは古言なるべし、

鳴野の戦に、上杉景勝敵の大軍を打破り勝利を得たり、軍監にさゝれし小栗又一忠政、住吉の御陣へ参り、戦の次第を申上げて御次に退き、けふの戦に敵を追討つべきよき塩合のありしゆゑ、景勝へすゝめしに、日暮れたりとて聞かず、あまり残多ければ、直江にも人衆をかせ、われ追付かむといひつれども、是も同じ様の答して事ゆかず、さて残念の事かなといふを聞付け給ひ、御次に出で給ひ、やあ又一、汝が身分にて、景勝などが軍せむ様を非議するは、いらざる事なり、たはけめときびしく咎め給ひしかば、忠政も平伏して恐れ居しとぞ、その後両御所、鴫野口御巡視ありし時、上杉が陣を通御あると等しく、陣中より城へ向つて鉄炮を打かけ、景勝は陣頭に出でぬかづき居たり、景勝の軍功其折、先日の戦に、汝が家人まで粉骨を尽せりとて、慰労の御詞を加へ給へば、景勝承り、童いさかいにて、別に骨折と申すまでの事にも候はずと申せば、供奉の輩もみな感歎す、此度景勝が家人軍功の者へ御感状を下さるゝに、いづれも御前にて封のまゝ給はりて退きしが、杉原常陸介ひとり杉原常陸介は封を開き拝見し、御文段残る所なくかたじけなき由申す、此度御賞詞蒙るも、全く故輝虎入道が武辺のあたゝまり残りて、景勝が弓矢の家風にて候へと申して退きたれば、御気色斜ならず、汝はいくつになると御尋あれば、本年七十二なるを七十五と申上ぐる、君聞召し、我より二年のこのかみにて、今度の大功をたてたれば、われも二三年の内は、まだ頼もしきぞ、汝が白髪の老武者が、萌黄の鎧に金作の太刀、金欄の羽織着し出立は、昔の実盛が鎧直垂の姿思出さる、此度の功は実オープンアクセス NDLJP:2-9盛には遥に増れりと、御褒詞ありしとぞ、〈大坂覚書、武辺咄聞書、〉

小栗忠政御陣中にて小栗又一忠政・佐久間河内守政実・山本新五左衛門正成三人会合せし時、忠政、正成に向ひ、御使番の内に、諸大名の陣に行きて、竹束より外へ顔を出す事もならざるものありて、諸陣の笑種になるときゝぬ、同僚の恥辱にあらずやといへば、佐久間は聞かぬ振して居りしが、正成は兼ねて又一と親しきゆゑ、御辺は例の頭に口の明きたる様に、人のことはいひそ、此時にあたり、たが命を惜むべきといへば、忠政、汝が事をいふにあらず、臆病人の事を評するなれ、臆病の覚えある者は、おのづから知るらむと、高声になりてのゝしれば、折しも本多佐渡守正信・上野介正純父子・西尾丹後守忠永御前に侍せしが、その騒を聞付けて、正純御次へ走りいでゝ尋ぬるに、しかの由なれば、正純笑ひて三人の前へ来り、いづれも古兵の人々が、武辺の吟味せらるゝはさる事なれ、かくてこそ若年の者も、自ら武道に精が入るべけれ、かゝる詮議は何程もあらまほしけれとて、その後三人とも御前へ召出され、御酒下され、寒天の折から、老人わきて大儀に思召すにより、諸番の中より若き者一人づゝ択み出し、壮者を選びて使番となす使番になさるべければ、汝等よく心得て教諭すべし、さりながら五の字の指物は、こたびの新役には許されざる旨命ぜられしなり、又城兵の下町を自焼せし時、高麗橋を焼きたりとも、さなきとも、風説定らざれば、忠政を召し、汝往きてよく見定め来るべしと仰付けられしにより、忠政即ち馳行き、かへり来て、橋は残りたりと申す、君、城兵この橋焼きたらば、城中の者ほし殺にしてくれむと思ひしに、今迄使番のもの、たれも見届けざりしと宣へば、忠政、いづれも臆病にて、城近くよらば、銃丸に中らむ事を恐れ、遠くよりおぢおぢ見て返りしゆゑと申上げて、御前を退きぬ、後に近臣に向はせられ、又一があの大口にては、中あしきも理なりとて、笑はせられしとなむ、〈駿河土産、〉

板倉伊賀守勝重に命ぜられ、こたび従行の諸軍三十万の人衆へ、日毎に千五百石づゝ糧米を給ひ、遠国の者へは一倍をまし下され、又銀をも下さるとて、加賀・仙台などへは将軍家より三百枚、君より二百枚、合せて五百枚、森美作守忠政の列には二百枚に百枚、合せて三百枚なり、家康軍勢の多きを装ふ其頃俸米賜はる者、人員をまして俸米を受取るものありて、上を欺くの罪少からざれば、きと糺察せむと聞え上げしに、節倹も時にこそよれ、城中へ寄手の多勢の知るゝは、俸米による事なれば、何程も多く与へオープンアクセス NDLJP:2-10むこそよけれと仰せられぬ、又御上京の折、勢田の橋の左右に埓を結ばしめ、諸軍、水へ陥らざらむ様にせしめし事ありしも、味方の多勢を敵にしらしめむが為の御処置なりしとぞ、〈大坂覚書、老人雑話、古人物語、武徳編年集成、〉

城兵天満口を自焼せし時、其口の大将松平武蔵守利隆、はじめ進み入らむとせしに、城和泉守昌茂堅く制して許さゞれば、諸軍もやむ事を得ず思ひとゞまりぬ、後にこの事聞かせられ諸将は何とて攻入るべき所に、軍進まざりしと宣へば、城和泉守が強ちに制し止めしゆゑなりと申す、よて和泉を召し、汝を天満の軍監に遣せしは、若者どもの軍令に違ひ、抜懸せむを制せしめむが為なり、さるを一べんに心得て、軍機を失ひ、天満を乗取らざりし事、さりとは其任にかなはずとて、俄に林道春信勝を召出して、七書のうち、大将、軍中にありては、君命も受けざるところありといふ文段を講ぜしめて聞かしめ給ひ、汝は是を知らぬかと、いたく戒められ、御凱旋の後改易せられしとぞ、〈大坂覚書、家譜、〉

十二月二日、茶白山へ上らせ給ひ、城中のさま御覧あり、折しも喜多見長五郎某、蜜柑を台に載せて持出で、永井右近大夫直勝も杖にすがりて、御跡より上る、君その杖を取らせられ、城の方を指揮し給ひ、蜜柑を三つばかり取らせられ、御口にて皮をくひ割り給ひ、その台は将軍家へとあれば、奉りしに、将軍家は一顆収りて御懐に入れて座し給ふ、やがて本多佐渡守正信も従ひ来て、杖により城中を見積る様なり、この時君、竹把の外へ出でさへ給へば、直勝・正純はじめ使番の人々、御前に立塞るを、そこ退けと仰せられて、なほ進み出でさせ給ふとき、銃丸厳しく飛び来て、島弥右衛門一正が鎧の草摺に中る、後また大丸しば来れども、更に恐怖のさま見え給はず、しづかに御覧畢りて還らせ給ひぬ、其時城中にて、後藤又兵衛基次諸卒に向ひ、あの如き天運に叶はせられし名将をば、鉄炮にては打たぬものぞとて、制しとゞめしといへり、〈武功実録、〉

二日の早天に、諸軍御下知によりて、城近く陣を進めしに、井伊掃部頭直孝は、陣をかふると等しく、井伊直孝大砲を放つ城へ向ひ惣鉄炮をはなし懸くるにより、城兵も驚き、寄手も色めき立ちて、しばしが程はしづまらず、将軍家聞召し、直孝、此度兄が陣代としてあるからは、わきて物ごと謹慎にすべきを、かくほこりかの挙動しては、大御所の思召もいかゞなり、切腹仰付けられむも計り難し、本多佐渡守正信に、汝いそぎ住オープンアクセス NDLJP:2-11吉の御陣へ参り、よきに御気色とれ、直孝が家長一両人腹切らせ申すべきかと伺へと仰せらるれば、正信御陣に参りしに、君御覧じて、佐渡は何の用ありて来りたるぞ、定めて今朝の直孝が陣替に鉄炮打ちし事ならむ、かれは兵部が子程ありて、陣替に一声敵を驚かして塩を付けたり、感ずるに堪へたりと宣へば、正信打笑ひ、その事にて候へ、御父子とて、かほどまで御心の合せらるゝ事もあるかな、将軍家も直孝を御感悦のあまり、某に参つてほぎ言申せとて遣されしなりと申せば、いよいよ御気色よくて、将軍もさ思はれしな、さて満足の事よと仰せられぬ、正信立返りこの由申上ぐれば、将軍家も思ひの外に悦びおぼしめして、直孝をめして御賞美あり、又直孝が真田が丸攻めしとき、家臣木俣右京一番に攻かゝり、手疵蒙りける由、将軍家聞召し、右京は掃部が家長としてありながら、若輩の如く一箇の功を立てむと思ひし事、その任にかなはず、かゝる事捨置きては、外様の徒の示にもならざれば、おごそかに御沙汰あらむと御諚ありしを聞かせられ、安藤帯刀直次もて仰進らせられしは、右京が軍令に違ひし罪はさる事なれども、衆に先立ちて一命を抛むとせし志は、また成り難き事なれば、まづ聞召されぬさまになし置かるゝがよしと仰進らせられしかば、将軍家も、まげて尊慮に従はせ給ひしとぞ、〈落穂集、大坂覚書、明良洪範、〉

今橋筋御巡視の時、本多正信進み出で、将軍家にも御巡視あるべきかと伺ひしに、我は年若きより干戈の間に人となりて、いまだ陣中に安座したる覚えなし、将軍の事は、その心次第なれと仰せければ、正信驚き、早々岡山の御陣へかく注進し奉れば、将軍家も、いそぎ御巡視に出でさせ給ひしとぞ、〈大坂覚書、〉

天満川大和川を堰く天満・大和の川々の水を堰き落さむとの尊慮にて、中井大和が御前にて御酒下され、例の如く沈酔し、大言どもいひ放つに、御戯の様に、大和、この川筋にてよきさかな数多もとめて、衆を饗せむと思ふが、網ばかりにてはかなはじ、いかゞせむとあれば、大和承り、いとやすき御事なり、大和川の辺、殊に魚おほし、人夫の一万も侍らば、水堰きとめて悉く取り得むと申す、その折は一時の戯談の如くにて終りしが、やがて又大和をめし密に毛利長門守秀就・福島備後守正勝が人夫一万五千を出さしむれば、汝さきにいひし如く、川水を堰き落し、魚求めよと仰付けらる、大和畏り速に虎落を作り土苞を仕立て、鳥飼村の辺にて堰とめしかば、天満川・東オープンアクセス NDLJP:2-12堀久宝寺橋の辺一時に干潟となり、城方にて新に作り出でし外郭、総攻あらば忽に落つべき様に見えしとぞ、〈武徳編年集成、〉

十二月廿九日、仙波と総郭の橋ども城兵みな自焼して、今橋と高麗橋とのみ残りしを、石川忠総高麗橋を守る石川主殿頭忠総これを焼かせじとて、高麗橋の詰にて、鉄炮放して防守せしが、城方よりも、同じく銃丸烈しく打かけ、忠総が十卒、疵蒙る者あまたなれば、使番小栗又一忠政馳せ来りて注進し奉る、永井右近大夫直勝も御前に在りて、阿波勢近辺なれば、忠総に力を合せ、橋を救はしめむといへば、御気色損じ、其方共はあまりに軍法を知らぬぞ、此橋はこなたより焼きたく思ひつるに、もし焼きなば、心得ぬ者は城攻なしと思ひあやまらむかとて、捨置きしなり、城中より焼落すこそ幸なれ、すて置くべし、総攻の時、橋の一筋が便になるものかと、御怒のあまりに、御側にありし長刀とらせられ立たせ給へば、忠政も直勝も恐入りて御前を逃げ去りぬ、後に又敵此橋より夜討せむも計り難し、怠なく守れと命ぜられしが、四五日過ぎて、塙団右衛門直之、此口より阿波陣へ夜討をしかけゝるとなり、〈慶長見聞書、〉

城将塙団右衛門直之が、蜂須賀阿波守至鎮が手へ夜討せし時、至鎮が家人稲田九郎兵衛、生年十五歳にて大功ありしかば、御感状を下さる、其頃近臣へ仰ありしは、子に名をつくるも、心得のあるべき事なり、九郎兵衛はわづか十五なるを、いらぬおとならしき名を付けしは、さむの事なり、何丸とか何若とか付けば、今度の働もわきて奇特に聞ゆべきに、惜しき事なり、人々もかねて心得置くべき事と仰諭されしとぞ、〈天元実記、〉

家康木村重成大野治長を見る東西和議既にとゝのひ、城中より木村長門守重成、誓書取かはしの御使に参りし時、御前近く召され、汝は常陸が子とかや、いかにもおもざしは父に似て、天晴大将の器見えたり、昔関白秀次、北野の松梅院にて茶の会催せし折、われも常陸に面会せしを、今更の様に思ひ出づれ、常陸は智勇とも兼ね備はりし者なるが、石田が讒によつて、はかなき死を遂げしはいと惜むべし、されど汝が仇とする石田・小西等の姦人どもは、関原の戦に、われ皆打亡せしぞ、此後も構へてうとくな思ひそと仰せければ、重成も御詞のかしこさに覚えず涙流せしとぞ、又御和議とゝのひし後、大野修理亮治長・織田有楽入道と共に、茶臼山へ参りて賀し奉りし折、本多上野介正純を召し、修理事は、われ若年者とのみ思ひしにこたび城の主将として諸軍オープンアクセス NDLJP:2-13を指揮せしさま、武勇はいふに及ばず、秀頼へ対しての忠節のこる所なし、汝も修理にあやかれとて、修理が肩衣を御所望あつて、正純へ着せしめ給ひければ、修理は冥加にかなひしとて、感涙を注ぎて御前をまかで、有楽は御次にて衆人に向ひ、此度御和議とゝのひいとめでたし、この後は入道も太平の恩化に浴し、生涯を楽み送らむとて、茶を点ずる真似して還りしとなむ、〈大坂覚書、〉

片桐市正且元が家人、城方一揆の為に囲まれ、既に危急に及び、尼が崎の城へ援兵を乞ひしに、城番奉はりし松手武蔵守利隆が家人ども、敵か味方がと不審して、救援せざりしかば、片桐が手の者みな討たれぬ、此事御気色にかなはず、御和睦の後、利隆が家人を二条へ召して御糺あり、伴大膳家人伴大膳といへるもの御答申せしは、尼が崎は枢要の地にて侍れば、常々怠なく警衛せし所へ、片桐が家人のよしにて、救援を申越しつれど、たやすく城を明けて打出づべきにも侍らず、且片桐この頃こそ御味方に参りたれ、元より大坂の股肱なれば、いかなる異図あるべきも知らず、もし此城欺きて付入にせられむには、御家の儀は申す迄もなし、池田が家の緩怠これに過ぐべからずと、堅く思ひはかりて、城戸をとざし、人衆を出し侍らずと申せば、上意に、今となりては、とかう遁辞を設くれども、まこと味方の死亡を眼前見ながら救はざりしは、全く利隆が兼々家人の命令とゞかざるゆゑなりとて、御座を起たせ給へば、大膳猶も御後に附添ひ、御情なき仰をも蒙るものかな、たとひ利隆は姫君の所生にましまさずとも、これも御外孫とは思しめさずや、今何某が謝し奉らざらむには、いつの世にかこの汚名を注がむと、涙を流して申せば、君もその忠烈なるを愍ませ給ひ、もはや聞分けしぞ、武蔵にもよくいひ聞けて安心させよと宣へば、大膳もかしこさのあまり、合掌して御前をまかでしが後に侍臣に向はせられ、かの親も大膳といひて、長久手の戦に、利隆が祖父の勝入討たれしかば、父の輝政怒に堪へず、馬引返し討死せむとせしに、大膳その時は馬の口取奴なりしが、輝政が馬の首堅くとらへて放たず、遂に輝政を引立て退き、後々主人をして、祖先の祀を継がしめ、今大国の主となせしも、全く大膳が功による所なり、その子ほどありて、今の大膳も主の為には身命を抛たむとの覚悟にて、わが前に出で、かかる大事をもいひほどきたれ、武蔵はよき人持かなとて、御賞歎ましませしとなむ、〈岩淵夜話別集、〉

オープンアクセス NDLJP:2-14

按に、大膳がこの事を、利隆が弟左衛門督忠継、神崎川を渡せしに、利隆は渡らず、又野田・福島の役に忠継を救はざる事、御不審により、大胆御前に出で、具に申ひらきし時の事ともいへり、

秀吉大坂攻囲の法を説く豊臣太閤はじめて城作り出でられし頃、前田・蒲生等を集め、こたびの新城は、実に金城湯池ともいふべし、たとひ何万の大兵もて攻むるとも、たはやすく落つる事はあらじ、人々いかゞ思はるゝといはるれば、いづれも仰の如しと申す、太閤、又この城攻めむには二つの術あり、大軍にて年月重ねて囲守し、城中の糧食の尽くるを待つか、さらずば一旦和をいれ、隍を埋め塀を毀ち、重ねて攻むれば落つべしといはる、その折君も侍座し給ひ、太閤が自讃を聞かしめ給ひしとか、こたびの戦に及び、将軍家は必らず総攻にして落さむと、三度まで仰進らせけれども、君、われ度々城攻せし事あるが、敵により地によりて、攻方もまた同じからず、たゞ天時の至るを待たせ給へと仰せられて許し給はず、日ごとに金掘を集め、雲梯を作らせ、また大炮を城中へ打入れなどせしめて、城中の者の心胆を恐怖せしめし上にて、遂に御和議とり結ばれしゆゑ、その議速にとゝのひけり、かくて総郭を毀ち、隍池を埋めしめしゆる、再びの戦には、かゝる険城を、わづか三日計が程に攻め落されしなり、これは太閤の言を御用ありしといふにはなけれど、年頃軍略に錬熟し給ひ、自然とかの詞にも暗合せしなるべし、〈寛元聞書、武功雑記、〉

この巻は大坂冬の御陣の事どもをしるす、

 
 

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