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東照宮御実紀附録/巻二十

目次
 
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東照宮御実紀附録 巻二十
 
御幼年の御時より御本国をはなれ、駿河・尾張の国々に寄寓し給ひ、凡そ世間の辛苦艱困の事ども、つぶさに甞め尽し給ひ、あくまで人情世態にも御通達ありしかば、すべて天地の間に生ずる所のもの、一物として容易ならざる理を知ろしめされければ、後々までも専ら倹素をもて主とし、浮費を省き、実功をつとめられ、御身の御奉養はさらなり、御家人までも常々是をもて御教諭ありしかば、いづれも皆其風儀をまなび、京侍のごとく華奢・風流の習気はなく、いと質実にてありしとか、抑周家倹素の風尚をもて、八百の長祚を開きしをはじめとして、後々和漢ともに創業の主は、必倹素質朴をもて国をも興し、天下をもおさめたれ泰平やゝ久しくして、子孫生れながら富貴の中に人となり、祖宗の艱苦をわすれはてゝ、己が驕奢につのるより、はてには世々の大業をも失ふなり、蒲生氏郷家康を評すそのかみ蒲生氏郷に問ひし者ありしは、今の世、豊臣殿下なからむ後は、誰か天下の主にはならむかとありしかば、氏郷答へていはく、徳川殿は名望世に高くおはせど、天性鄙吝にして、天下の主たるべき器にあらず、この後天下は、前田利家に帰せむといひしとか、されば氏郷、元来織田・豊臣両家の奢豪を見習ひて、天下の主はかゝるものとのみ思ひあやまりて、わが君の御倹素こそ、すなはち天運の属するところなるを知らざりしは、氏郷さしもの人傑なりしかども、時勢の流弊になづみて、その思惟の及ばざりしこそうたてけれ、〈砕玉話、〉

家康の倹素君いまだ三河におはしませしとき、夏天にはいづれも麦飯を供せしが、あるとき近臣の扱にて、飯器の底に精薬を入れ、上にいさゝか麦をのせてたてまつりしかば、御けしきあしく、汝等はわが心をしらざるな、わが客怯にして麦を食ふと思ふか、今天下戦争の世となりて、上も下も寝食を安むずることなしささにわれ一人安飽を求めむや、たゞ一身の用度を省きて、軍国の費に充てむとす、あに下民を煩して口腹の欲を専にせむや、返すもわが心しらぬものどもかなと仰せければ、いづれも恐悚して御前をまかでしとか、此供御進めし者は、御身の用度を省かれて、下民の為にせらるゝといふ、かしこき尊慮には心づかで、ひたぶる倹嗇におオープンアクセス NDLJP:2-77はしませば、時としては甘脆をすゝめて、御口腹をなぐさめたてまつらむと思ひしは、かの氏郷と同じ様の心と、はかり知らるゝになむ、〈砕玉話、〉

家士の妻三河にて御家人に仰渡されしは、家人等の妻を迎ふるに、よく木綿を織り得べき女を求めよ、御出陣の後には、俸米十分にたまはる事ならねば、かゝるもの織り出して、家産にあてよとありしは、人々よくつゞまやかにして、生理のともしからざらむ為をおぼしめしての御事なり、〈武功雑記、〉

いつの年にか、霜月ばかりの事なるに、織田右府より桃子一籠進らせけり、近臣等めづらしとて、とり取りてはやしたるに、君は御覧ぜしのみにて、何とも宣はず、諸人いぶかしと思ひ居たりしが、やがて仰せられしは、此菓子珍らしからぬにはなけれども、信長と我とは国の大小異なれば、好む所も又同じき事を得ず、わがごときものは、珍物をこのむとなれば、害あつて益なし、家康珍奇を愛せずまづ果実の常に異なるを好めば、国中の良田畝に無益の物を植ゑて、民力をつからすべし、珍禽・奇獣を好めば、山林河海に無用の金銀を費さむ、奇巧の器財を好まば、いらぬ翫物に志を喪ふのみならず、軍国の用度耗うして、士卒を養育する事不足すべし、すべて心あらむ者は、奇品・珍物は好むまじきなり、されど右府がごとき大身の上はともかうもあれ、我は何より急事があるとて、御笑ありて、其桃実は人々に分ち与へられぬ、武田信玄このよし伝へ聞きて家康は大望があるゆゑ、養生を主として、時ならぬものは食はぬと見えたりといひしとか、この入道などが、くねしくひがみたる心もて、正大光明の神慮をおしはかりたてまつりたらむには、かく思ひあやまるも理なり、〈故老談話、〉

豊臣家と御和睦ありて後、京より還らせ給ひ、一日寒風の朝、御羽織を求められしに、近藤縫殿助用可が子、上方にて関白の進らせし、紅梅に鶴の丸縫ひし羽織をたてまつりしかば、御顔をしはめられ、時世に随ふならひなれば、上方にては着したれ、本国にあらむとき、かゝる華麗の物用ゐて、わが家法を乱るべきやとて、その羽織を投すて給ひしとなむ、〈明良洪範、〉

江戸より伏見へ上らせらるゝに、鹵簿のさまいと御質素にて、鎗二本・長刀一振・弓一張・挟箱二、御先に馬ひかせ給ふ事もなく、走衆もわづか三十人ばかりなり、又同城におはして、下々の者へは俸米あまた下され、千石より以下の者は、必しオープンアクセス NDLJP:2-78も馬をかふに及ばず、人も多く抱へ置くに及ばず、小身の分は町屋をかりて住ましめ給ひしなり、かく何事も倹素におはしけれども、事としては若干の金銀頒下せらるゝに、いさゝか吝恡のさまましまさず、伏見城又伏見城の焼けし後、殿屋なければ、旧材どもを取集め、荒屋一宇造建ありしを、上方の者は盛慮の倹素を宗とせらるるをばしらで、たゞうちより、例の徳川殿の吝嗇さよとて、笑ひぐさにせしとぞ、 〈聞見集、板坂卜斎記、〉

藤森の厩藤森の御邸なる御厩損ぜしかば、加々瓜隼人正政尚改造せむと申すを聞召し、雨もらば、もる所ばかりを改葺せよ、壁が崩れしならば、くづればかりを補へ、その余は手をつくるに及ばずと仰付けらる、隼人うけたまはり、只今上方の大名の厩を見るに、夏は蚊幮を下げ冬冬馬に蒲団を着せ、愛養すること大方ならず、しかるに当家の御厩には、戸口は藁筵をかけて飼置かるゝも、あまりの御事なり、少し御心を用ゐ給はむにやと聞え上げしかば、武士が馬をかふは、馳駆の用にあてむが為なり、外観をかざるに及ばず、わが藁筵にてかひ置く馬と、諸家にて蚊幮・蒲団にて養ふ馬と、事あるに臨むでは、いづれがよく険阻をしのぎ急流を渡り、烈寒・大暑をもいとはず、馳走せむとおもふや、汝等馬をかふにも、上方風の奢侈にならふことなかれと、きと警め給ひしとぞ、

陣中生活関原の役に、御膳部仕立つる所は、御本陣より三十間ばかりわきの芝山なり、其所に細き竹を渡し、渋紙一枚をおほひとし、鍋二つ・水汲小桶三つ・煮薬鑵一つ・三人前の行厨一つまうけ、厨人二人・あらし子五人、日に照られて居たり、おほかた三千石ほどの人の、野陣はりし体にも過ぎず、戦終りて後、佐和山の南、なみといふ村の東の山に〈大谷刑部の陣屋の跡、即ち藤川の台なり、〉御陣をうつさる、かこかなる小屋を藁葺にし、垣もみな藁にてゆひ、入口に戸もたてず、そが脇に窻中連子あり、佐和山の町より畳を取寄せて敷かしめ、畳の足らぬ所は藁を敷きたり、小屋の外の芝生に、畳三十帖敷きならべ、そがうへに拝謁の人々つどひて出入しつゝ、草履は人々の後に置き、番衛の者もなし、まして兵器・鳥銃の類、一切かざり置く事なし、御本陣近きあたりは、旗下の者ども宿れば、其外は三四十町も隔てし所に、おもひにやどりぬ、総じて御供の分は、みな佐和山領の里民の家に宿し、野陣はりし者は一人もなかりしとぞ、〈板坂卜斎配、〉

オープンアクセス NDLJP:2-79江戸城江戸御遷のはじめ、御玄関の階は船板にて、あまり見苦しければ、本多佐渡守正信改作らむと申せしに、いらぬりつぱだてをするとて聞かせ給はず、其後府城造営ありしにも、目につくばかりの金具はなかりし、台徳院殿、和田倉辺の櫓の破風に、金の金具用ゐ給ひしよし、駿河に聞えければ、俄に一夜のうちに、毀撤せしめ給ひしとか、駿城御修理ありしときも、本丸のまはりは板塀かけられしが、二丸にある老臣等の邸宅などは、竹垣を結ひ渡して置かせ給へば、あまりに失体なりとおもひ、己が自力もて板塀にかけかへむと伺ひしに、いらぬ事なり、其まゝになし置けとの上意にて、後々までも竹垣にて置きしとなむ、〈聞見集、〉

家康の鹵簿慶長九年三月、御上京により、伏見へ着御とて、在京の大小名、大津追分まで出で迎へたてまつる、折しも雨いさゝか降出でしかば、人々かしここゝの樹陰に立やすらひてあり、とかうするうちに、鎗二本・長刀一・挟箱二・徒の者二十余人したがひ、御輿は雨皮にて包み、馬上十騎ばかり打つて供奉す、いづれも本多上野介正純が、御先に着せしならむと思ひ居しに、よくきけば、大御所なりといふに驚きて、諸人いそぎ伏見の町口にて追付たてまつり、御けしきうかゞへば、御輿を止められ、是迄はる迎へ出でられしとて、慰労の御詞を加へらる、こゝにおいて諸大名、いづれも鹵簿の御倹素なるに感驚しけり、又江戸へ還御の折も、御跡に騎馬の者百騎、あるは七八十騎ばかりしたがひ、少し御後に引下りては、みな扇拍子にて小唄をうたひ、酒あれば馬杓にてくみて飲み、又は酒器のまゝ飲むもあり、そのうちに上戸あれば、一盃飲ませむとて、おの先後に乗廻して尋ね廻る、成瀬隼人正正成など御供するときは、いつもかくのごとくなりしとぞ、三島に着御ありて、明日箱根通御のときは、輜重にあづかる下部は夜中に発足し、騎馬の者も御先へ通りこし、箱根にては、御膳にあづかる者扈従二人、あらかじめ待ち迎へたてまつり、三島には残る者一騎もなし、又江戸より首途かどでし給ふとあも同じ様なり、御隠居曲輪辺にては、馬上七八十騎ばかりなり、芝品川・河崎の出口には、かねて三人・五人づゝ路の傍に出で拝謁し、沓替の為とて、これより直に馬上にて供奉せしなり、いと真率の御事にて、別に目付・押などいふ者もなかりしとぞ、〈板坂卜斎記、〉

鷹狩の宿舎鷹狩にならせられ、夜に入りて行殿に宿らせ給ふに、御ましに蠟燭一台、鷹を夜据する所に一台たて、その外はみな油火ばかり用ゐしめらる、あるとき成瀬隼人正オープンアクセス NDLJP:2-80正成・松平右衛門大夫正綱両人、とみの御用にて、連署の状かくとて、坊主へ、蠟のともしさして、わづか二三寸ばかり残りしをこひ得て、これをひかりに書き終りぬ、両人座を起ちし跡へ、目付役見廻り、残燭のあるを見て坊主よび出し、上様の御覧ぜば御とがめあらむ、何とてけさぬと、ことしくのゝしれり、坊主、こは隼人殿・右衛門殿のしかせられしなりといへば、そのうちに両人心付きて立かへり、我等が忘れたるなり、汝等などそのまゝにけさで置きしぞとて、又々坊主を叱りけるとぞ、これらの事につきて、常々倹素の令おごそかなりしは、はかりしるべし、〈聞見集、〉

ある者、便器に蒔絵せしを献ぜし事ありしに、殊に怒らせ給ひ、かゝる穢らはしき器に奇工をつくさば、常用の調度いかゞすべきとて、近臣に命じ、速に打砕き捨てしめられしとぞ、〈膾余雑録、〉

家康侍女に奢侈を戒むおかちの局、ある折、白き御小袖の垢つきしを、侍女どもに命じて洗はせつるに、いづれも手指を損じ、血など流れいで、いとからき事におもふ、さばかり多き御衣の事なれば、この後はあらはで、新しきをのみめさせらればいかゞと伺ひしに、汝等などの愚なる婦人のしるべき道理ならねど、語りて聞かせむ、出でゝうけたまはれとて、侍女どもあまためしあつめ給ひ、われ常に天道を恐るゝをもて第一の慎とす、天道は第一に奢侈を悪むなり、汝等はわが財用は駿河ばかりにあるを見て、多きと思ふやと宣へば、いづれもさむ候と申す、わが宝蔵は当地に限らず、京・大坂・江戸にも金銀・布帛の類充満してあれば、日毎に新衣を調したりとて、何の足らはぬ事かあらむなれども、かく多く貯へ置くは、時として天下の人へ施さむか、はた後世子孫の末々まで積置きて、国用の不足なからしめむが為に、かく一衣をもあだにはせぬぞと宣ひければ、いづれも女ながらも、盛諭のかしこさに、神仏など拝礼するごとく、合掌して伺ひしとぞ、又夏の御雑子も、汗付けばすゝがせよとの上意にて、すゝぎ置きたれど、必しも一領ごとに着御あるにもあらざりしとなり、〈天野逸話、駿河土産、〉

駿城の後閣にて、足袋箱二作り置かしめ、一つには新しきを入れ、一つには沙土などに汚れしを入れ置き給ふ、その箱の充満せるを聞召せば、御前に取よせ、さまでよごれざるを二三足ばかり、元の箱に残し置かれ、その余は、取捨てゝ末々の女オープンアクセス NDLJP:2-81房どもに分ちたまはり、すべてことく取捨よと仰せられし事はなかりき、又男子の下帯には、木綿の白きより、浅黄に染めたるがよしと仰せられしをうけたまはり、上様はいつ下帯の事まで習はせ給ひしとて、その頃後閤にうちよりて一場の談柄にしけるとなむ、〈古老物語、〉

上の倹素におはしますをしらで、世には客怯に過ぎて、たゞ貨宝をのみ収縮し給ふと評したてまつると聞召し、上府に金銀の集まるときは、世間に少ければ、人みな金銀を大切に思ふゆゑ、諸物の価もおのづから低下する理なり、家康米価の平均を計る金銀世に多ければ、物価たとくなりて、世人艱困するよし、松平右衛門大夫正綱に仰せられき、又駿河に御座の時、米価の踊貴すると聞召せば、速に御廩を発きて売渡さしめ、低下の時には、官金もて購求して、御糜に納めらる、かゝりしかば米価おのづから平均して、姦利を射るものなかりしとぞ、これも世の心得ぬものは、よく綜理のとゞかせらるゝをしらで、上様にはよくあきなひをあそばさるゝといひしとか、〈天野逸話、前橋聞書、〉

板坂卜斎侍座せしとき、壺に入りし人参を賜はらむとて、両の御手もて下されたるに、御違棚に奉書の紙ありしを見て、一枚給はりて是につゝまむとせしに、それは大名どもへ書状を遣すに用うるなり、えうなき事に遣ふものならず、人参は良薬にて、汝等なくてかなはぬものなればとらするなり、奉書は一枚と思ふべからず、大なる費なり、羽織脱ぎてこよとの上意にて、羽織に受け給ひて、奉書をば元のごとく御棚に返し置きしとぞ、卜斎は年頃御側にありしが、このときほど面に汗して迷惑せし事はなかりしとぞ、後々人に語りしとなむ、

駿府にて、近臣のうちに、身分に副はざるほどの、美麗の小袖着せしものありしを見咎め給ひ、近侍の美服を戒むわが側にあるものゝ、かゝる衣装しなば、其風おのづから外々にもおしうつり、奢侈の源をひらくなり、以の外の事なりとありて、その者は門とざゝしめて、御勘事蒙りしとか、すべて倹素ならでは国家はおさまらぬものなり、上たるものが奢侈につのれば、おのづから下々の年貢・課役かさみて、ひたと困窮し、はてには武備も全うする事を得ず、されど又世の人倹約を心得違へて、なさでかなはぬ事をもなさぬ迄倹約と思ひて、義理を欠くに至るは、大なる誤なりと仰せられき、これは倹約と吝嗇とのけじめをわけて御教諭ありし、いとかしこし、〈続功物語、〉

茶臼山の陣営大坂夏の御陣に、茶白山に御陣替あり、大工頭中井大和、かねて用意して切組み置オープンアクセス NDLJP:2-82きたる小屋を持たせ来りて取立てむとす、本多上野介正純、かほど広くては御意にかなふまじといひて伺ひしに、九尺梁二間にすべし、六畳より広きは無用なりと宣へば、大和俄に切つめて、仰のごとくにして建てたり、六畳を上下二間に分ち、中をば布交の幕もてへだてとせしゆゑ、速に出来せしなり、そがうへの三畳を御ましとし、諸大名の参謁するときは、下の三畳に出でまして、御逢ありしとぞ、六畳の御陣屋とて、其頃世にいひ伝へて、御素朴の様を誦したてまつりしとなむ、又正純二条城にて、此度の御軍儲は何程用意せむと伺ひしに、総軍腰兵糧ばかりにてよし、白米三升・鰹節十・塩鯛一枚に、香の物少し持たしめて足れりと仰せられしとぞ、〈武辺咄聞書、落穂集、〉

いづれの御陣にも、器財はじめ帷幕など、あらかじめ持たしめらるゝ事なし、同朋金阿弥、もし御用もあらむかとて、上には知らせたてまつらで、密かになくてかなはぬものはもたらし、幕申なども藁につゝみ、馬に負はせて従ひたてまつりき、ゆゑに其世には御幕の奉行といふ役も、別には立て置かれざりしなり、〈板坂卜斎記、〉

この巻は万事御倹素におはしませし事をしるす、

 
 

この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。