東照宮御実紀附録/巻廿三

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東照宮御実紀附録 巻廿三
 
御軍略の古今に勝れ給ひしは、今更にとりわきて申出でむもかしこし、つきては武技の御好あつくまして、刀・鎗・弓・馬をはじめ、鳥銃・水泳のすゑの技までも、みなその精蘊を極め給へり、家康日課の武術まづ御若年の程より、七旬にあまらせ給ふまで、日毎にかならず御馬にめし、鳥銃は三発、御弓も的あるは巻藁をあそばし給ふ事、日課の如くにて、いさゝか怠らせ給はず、その御精力のほど、なみの者の企およぶ処に非ざりしと、紀伊亜相頼宣卿、常に御膝下におはして、見聞し給ひしさまを、後に人に語らせ給ひしとなむ、〈紀君言行録、〉

二条の城にて申楽御覧ありて、御入興ありし時、とみの御用ありとて、板倉周防守重宗を召して、何やらむ仰付けらるゝ旨あり、後に重宗に承りし者ありしに、この頃時節よければ、旗竿になる竹を切れとの命なりしとぞ、かゝる御遊興の内にも、しばしも御武備を忘れ給はざりし盛慮の程こそかしこけれ、〈武功雑記、〉

姉川の戦に、奥平九八郎信昌敵二騎切つて、その首実検に備へしかば、御感の余り、汝若年の小腕もて、奇功を奏せし事よと宣へば、信昌うけたまはり、凡そ戦闘の道は劔法の巧拙にありて、筋力の強弱によらずと申せば、汝は誰に劔法を学びしと御尋あり、信昌、奥山流を学びしと申す、さらば汝が家臣急加斎にならひしならむ、我若かりし頃、その流を学びしが、近頃軍務のいとまなさに、久しく怠りぬ、こたび帰陣のうへは、必ず彼をめして対面せむと仰せらる、この急加斎といへるは、奥平公重奥平貞久の四男にて、孫次郎公重と称し、甲斐の上泉伊勢守秀綱が門に入りて、神影流の劔法を学び、その奥義を極め、三河国奥山明神の社に参籠して、夢中に秘伝の太刀をさづかり、これより奥山流と唱へけるとぞ、先にしば岡崎にめして御演習ありしが、この後天正十年十月、信昌もて召され、重ねて学ばしめ給ひ、御誓書をなし下され、御家人に召くはへらるべしとの御書をも給びしなり、また三河にて有馬大膳時貞といひしは、有馬時貞新当流の劔法に達せし由聞かせられ、これも召して、その奥義を伝はらせ給ひ、青江の御刀下され、采地を給はりしが、後に大膳死して嫡流絶えければ、庶孫豊前秋重をもて家継がしめ、紀伊家に附属せられしなり、〈奥平オープンアクセス NDLJP:2-111諸、貞享書上、〉

神子上典膳神子上典膳は、はじめ安房の里見が家臣たりしが、伊藤一刀斎といへる者に就いて劔法を学び、すこぶる壺奥を極め、後に諸国を経歴して江戸に来りしかば、召してその術御覧ありけるが、御けしきに叶はざりしかば、おのづから門人もいつとなく離散しぬ、その頃御城下にさる修験者あり、人を害して己が家に閉こもる、この者日頃大剛の聞えあれば、誰もおそれて近よる者なし、町奉行何がし、典膳が名を聞およびて、呼びにつかはせしに、典膳をりしもわらはやみにて、たれこめてありしかども、いなむべきにあらずとて、強めて出立つ、修験が門前にゆきて、己が名を呼ばゝりしかば、修験もこれ究竟の相手とおもひ切りて出で戦ひしに、典膳やや切なびけられ、次第に後の方へ退き、おもはず小溝の内へ踏み入り仰のけざまに倒れける所を、修験得たりとをがみ打にうちけるが、典膳は倒れながら払ひ切りに、その諸腕を打落し、起き上つて遂に仕留めたり、流石典膳なりとて誉むる者もあり、または敵に切立てられ、蹶きし上に薄手も負ひ、からうじて彼を仕とめしは天幸なり、劔法を業とするものに似合はずと識る者もあり、このよし君聞召し、何ほど達人なりとも、つまづく事も薄手負ふ事もなしといふべからず、劔法はたゞ当座の修業の上を評するのみなり、先に我、彼が術を見し時は、あまり奇異にして、妖法か又は天狗などが憑きたるかと思ひしに、こたび溝へ落入りしによりて、我疑念も散じ、はじめて正法の劔法なる事をしれりとて、台徳院殿へ附属せしめて、劔術の御相手を勤め、後に神子上をあらため、外家の小野氏を冐して、次郎右衛門忠明といひ、其名一時に高かりしが、今も子孫その業を伝へたり、〈老土語録、家譜、〉

按に、忠明が召出されしは、家譜によれば、関原以前なりけるを、老士語録には、駿河にて修験者を討とめし後の事とし、大に齟齬せり忠忠上命をかうぶり、武州膝折にて悪徒を誅せし事あれば、これらを誤伝せしにや、本文はしばらく江戸にてのことゝせり、

人主の劔法疋田豊後といへる撃劔の名を得し者を召して、その秘訣ども御尋ありし後、人に語らせられしは、彼はなる程名手なれども、この技の人によりて、いるといらぬけぢめを弁へず、天下の主たるもの、または大名などは、必しも自ら手を下して、人を斬るにおよばず、もし敵に出逢ひて危急の時は、その場を避ければ、家人ら馳あオープンアクセス NDLJP:2-112つまりて敵を打つべきなり、さるゆゑに貴人は相手がけの事はいらぬなり、かく大体を弁ふるをもて、第一の要とすべきなりと仰せけり、又台徳院殿の劔法を学ばせらるゝを聞召し、大将はみづから人を斬るにおよばず、危難のとき、避けむ様を心得らるべし、人を斬るに、何ぞ大将の手を労せむやと仰せられき、かゝる御心用ゐにや、御一生の間、あまたゝびの御台戦に、一度も御手づから人を切らしめられしことはなかりしと申伝へたり、〈三河物語、君臣言行録、〉

関東に入らせ給ひし時、江戸に小熊何がし・渡辺何がしといふ二人の剣法を教ふるものあり、その門流二つにわかれて、互に相競ふ事なり、ある日台徳院殿を伴はせ給ひ、二人の術を大橋の上にて御覧あり、小熊は長袴、渡辺は赤き帷子きて、両人ともに木太刀をせいがむに持ちて打合ひ、橋の上を追ひつ返しつするほどに、小熊やゝ勝色になり、渡辺を橋欄におし付け、そが足とつて川中へ投落せしかば、渡辺は水を多く飲み、からうじて岸に上ることを得たり、人々小熊の㨗妙をほめぬものはなかりき、〈見聞集、〉

長刀の利御放鷹のをり、伏見彦太夫某が、三尺五寸の大太刀に、二尺三寸の差忝を十文字にさし違へ、山路を走り廻ること平地のごとし、君御覧じ、汝が剛勇比類なし、その太刀抜いて見せよと宣ひしかば、彦太夫直に抜放して、二振三ふり打振りしに、太刀風りむとしていとすさまじ、仰に、汝は尺の延びたる刀の利を知るかとあれば、たゞのべかけて敵を一討に仕るばかりにて、外に心得候はずと申せば、いやとよ、寸の延びたる刀は、第にあてゝ用ゐむが為なり、向後わすれまじと教へ給ひしなり、〈感状記、〉

伏見の城にて、人々鎗の長短によりて利不利ある事を論ぜしに、この論は数度鎗を合せたる者こそ知りつらむとて、酒井作右衛門重勝を召出して御尋ありしに、重勝、鎗は長きをもて利となすは、いにしへより定めしが如しと申上げしかば、君理りと聞召し、その論は定まりしとぞ、〈寛永系図、〉

諏訪部定吉御馬の預諏訪部総右衛門定吉に仰せられしは、主の馬を騎り試みむには、心得のあるべきなり、兼ねてその鞍がまへ、手綱の捌き様を始め、すべて平常の騎り様をよくかうがへて騎り試むべしと仰せられしを、大沢右京大夫基胤が承りて、人に語りしとなり、この諏訪部といふは、はじめ小田原の北条に仕へ、北条亡びて後、御オープンアクセス NDLJP:2-113家人に召出され、兼ねて八条流の騎法に堪能なりしかば、仰を承り、公達の方々へ騎法を指導し、その子孫代々箕裘をつぎ、今に御家人に列し、御厩の別当奉はる事となりしなり、〈前橋家譜、聞書、〉

御老年にならせられては更なり、御年若きころも、馬のあゆみ兼ぬる所々にては必ず下りて歩行にならせられしなり、ある時近臣へむかはせ給ひ、我道途の険所にて馬より下るは、大坪流の一伝なり、総てあやうしと思ふ所にては乗らぬものなり、さりながら乗替の馬など引かする程の身分の者は、いふに及ばず、たゞ一疋の馬をたのみにするものは、なる丈馬蹄をかばふがよし、乗るはのるとのみ心得て、少しも馬をいたはる心なく、みだりに乗りあるけば、遂には馬蹄を損じ、要用のときに、かへりて乗る事あたはざるものなり、能く心得よと教へ諭されしとなり、 〈駿河土産、〉

丹羽長重等家康の馬術を賞歎す君には、兼ねて海道一二の健騎にておはしますとて、その頃世にかくれなく申伝けり、小田原陣の折、丹羽宰相長重・長谷川藤五郎秀一・堀久太郎秀政の三人、秀吉が先陣打つて、御金越より小田原に押よせむとて、小高き所より谷際を見下してありし折しも、こなたの御陣押なれば、みな打寄りて、海道一の馬のりが乗りざま見むとてたゞずみ居たり、谷河二条ながれ、細き橋かけたる所に、御人数行かゝると、みな馬にて渡る事呼はず、下馬し歩行になりて越えたり、君にも橋詰までおはすと、同じく馬を下り給ひ、御馬をば橋より上の方廿間ばかりの所を、口とりの舎人四五人して引過ぎ、君は歩行の者に負はれ給ひながら、橋を過ぎ給ひぬ、かの三人の士卒どもは、はじめより目を注して、いかゞし給ふと思ひ居たりしに、この御さまを見て、これが海道一の乗りざまかとて笑はぬ者なし、流石三将は、さてかくまでの御功者とは思はざりき、実に海道一の馬乗とはこの事なるべし、馬上の功者は危き事はせぬのぞとて、大に感じけるとなむ、〈紀君言行録、〉

富士の道芝御秘愛の駿馬ありしが、或時これを試み給はむとて、重荷おはせて富士山に昇らせ給ふに、すこしも疲るゝ事なければ、富士の道芝と名づけられて御愛養あり、されど、この馬強悍にして、誰もよく馭するものなし、村上三左衛門吉正といふは、もと金吾秀秋に仕へて、後に御家人となりしが、兼ねて精騎の名めれば、めして乗らしむるに、難なく乗りしづめしかば、御感ありて、則この馬を吉正に預け飼はしむ、オープンアクセス NDLJP:2-114吉正後にこれを御厩に返し奉りしとき、御鞍・轡等を給ひ、その労を賞せられけるとなむ、〈家譜、〉

駿府にて炎暑の折から、人々馬を阿部川にひでし時、かゝる歩渡のなる川はまづ馬を水中に渡し入れ、むかひの岸に引上げて、ひたすべきなり、さすれば馬も自然と川をわたしおぼえて、後日の用をなすものなりと仰せられしとぞ、〈前橋聞書、〉

遠州市野村の富民に、市野総太夫といへるもの、天性馬を好み、馬の鑑定に達せしと聞召し、御馬ども預けられ、近江の代官たらしむ、慶長十六年、拝謁せし折、御厩別当諏訪部総右衛門定吉を召出し、ともに牧場にて馬を養たつる様を語らしめて聞かせ給ひ、御気色うるはしかりしとぞ、〈駿府記、古老物語抜萃、〉

竹林流ら弓術吉田出雲といへるは、近江の佐々木が家にて、弓法に精練の者なり、そが弟子に石戸藤左衛門といへるが、師伝を得て、後に名を竹林と改め、三井寺にありしを、駿河にめしよばれ、旗下のものへ相伝せしめ、竹林派とて一時盛むに行はれ、追々その術に精しきものども出来し、中にも佐竹源太夫・内藤儀左衛門の両人は、殊更出藍の名を得たり、後に竹林をば尾張家へ附けられ、紀藩へは佐竹、水戸へは内藤を遣され、このよし江戸へ仰進らせられ、かつ将軍家の御座所へは、何わざにても、おのづから天下の名人があつまり来るものなれば、江戸へは別には進らせられずとなり、〈駿河土産、〉

家康の弓銃術浜松におはしませし時、櫓の上に鶴の居しを御覧じ、これよりあはひ何程あらむと近臣に尋ね給へば、五六十間と申す、さらば常の小筒にては及ぶまじ、稲富外記が製せし長筒もて参れとて取よせ給ひ、しばらくねらひを附けて放し給へば、あやまたず鶴の胴中にあたりぬ、後に近臣等、その筒取りてためしけるに、廿人ばかりのうちに、十分にためし得しものは、一人もなかりき、これにて人々はじめて御力量のほどを測り知りけるとぞ、また慶長十六年八月、浅間山に御狩ありて、鉄炮を打たせらるゝに、みな的の中心にあたりぬ、近臣等はいづれもあたる事を得ず、又鳶三羽をつゞけ打にうち給へば、二羽は地に落ち、一羽は足を打切りて飛去りしなり、いづれも御術の精妙なるに感じ奉る、又十八年十月、葛西の辺御放鷹の折、御みづから銃もて鶴一双・鴻三羽・鴈四羽・鴨九羽うち得給ひし事もありしなり、 〈武徳大成記、霊巌夜話、武徳編年集成、〉

オープンアクセス NDLJP:2-115見附の退口に、大久保勘七郎忠正一人取つてかへし、追ひ来る敵を盛逸にて打たむとせしに、纔か一二間の場にて打損じけるを御覧じ、何として打はづせしとのたまへば、さむ候、都筑藤一が弓を持ちて、傍にありしを頼みにして、おもひの外に打損ぜしと申す、藤一は、勘七が立とゞまり、鉄炮うつを力にして、おのれも立とまりしといふ、勘七が兄次右衛門忠佐、側より藤一に向ひ、御辺さまで御前をつくろふに及ばず、家康銃の打様を教ふ御辺があらずば、勘七いかでひとり立とまることを得むや先に君の弓がけをはづし給ふを見て、われもゆがけを脱せしといへば、藤一申すは、次右、さるにてはなし、坂の下にて、汝が弓がけはづせしゆゑ、我も心づきて脱せしなりと、とりあらがふ様を見そなはして、大に笑はせ給ひ、かゝるえうなき事あげつらふに及ばず、勘七、汝は見附の台より敵に追はれ来て、息のきれたるゆゑに、鉄炮の中程に手をかけ、火皿の下を執つて放せしならむと尋ね給へば、仰のごとしと申す、さればよ、引息にては筒先が上り、出づる息にては筒先が下るものなり、これ呼吸のをさまらざるゆゑにて、汝が臆したるにあらず、この後もさらむときには、両手もて引金の下執つて打つべきなり、何ほど息あらくとも、筒先のくるはざるものなり、能々心得置くべしと御教諭ありしとぞ、〈三河物語、〉

家康の軍隊指揮法合戦に臨ませ給ひ、はじめの程は采もて指揮し給へども、戦烈しきに及むでは、御拳もて鞍の前輪をたゝかせられ、かゝれと御下知あり、はてには御指のふしぶしより血ながれ出づるを、戦畢りて後、御薬附けさせ給ひても、いまだ癒え給はざるうちに、又かくのごとくなれば、後々に御指の中ふし、四つながらたこになり、御年よらせらるゝに及むでは、御指こはゞりて、御屈伸もやすらかにおはせざりしとぞ、〈岩淵別集、常山紀談、〉

今どきの軍の指麾するもの、おほかた胡床に腰かけ采を手にし、おのれは手をも下さず、たゞ詞ばかりの下知にて、軍に勝たむとおもふは、ひが事なり、総て一軍の将たるもの、士卒のぼむのくぼばかり見て居ては、勝たるゝものにてなしと仰せられき、又軍陣は勇気を主として、きほひかゝるがよし、勝敗はその時の運次第とおもふべし、かならず勝たむと期しても勝たれず、あながちに期せずして勝つ事もあり、あまり思慮に過ぐるは、かへりて損なりと仰せられし、〈武功雑記、駿河土産、〉

戦陣に臨むでは、一番鎗・二番錦などゝ、ことしくいひ立てぬものなり、その様オープンアクセス NDLJP:2-116に次第のあるものにてなし、はじまるかと思へばばたと埓あくものなり、また戦場にて物具落せしを、拙劣のためしにいひなせども、高名だにとげば、何か苦しからむ、たとへば敵の首とる時に、傍より我持鎗とられたればとて、とゞめむやうなし、又味方の退口には、敵の死首にても取りたるが手柄なりと仰せられき、 〈駿河土産、武功雑記、〉

おほよそ軍陣の間の事は、纎細の事までも知ろし召したり、或時軍中にて、馬に糠袋をつくるに、豆を糠に交へしはよからず、豆を煮て乾かし、藁を細に切り、和らかにして附くるがよし、豆ばかりざつとほして入れ、又藁を入れたるもよし、こは炎天の頃は、豆をゆでゝも、さまさゞれば腐れやすし、また荒糠かひし馬を強く乗れば、馬の臓腑を損ずるものなれば、藁を細に切りて入れよと仰せられしなり、 〈翁物語、〉

鎧冑の軽重物の具のうるはしきは益なし、重きもまた同じ、井伊兵部は力量も勝れしゆゑ、常常重き物の具したれども、手負ひし事度々なりき、本多中務は、さして重き物は着ざりしが、薄手かきし事もなし、人々おのれが力に応じ、働きよきこそよけれ、下人などは薄き鉄の笠著しがよし、時としては飯をも焚く事なるべしと仰せらる、鉄笠は甲州にて下人に着せしめ、上方にはなかりしを、丹波亀山の城主、小野木縫殿助重勝が、はじめて足軽より下つかたの者に着せしめしなり、故に其頃は小野木とよべりとか、〈常山紀談、〉

御若年より水泳を好ませられ、年ごと夏日には、岡崎近辺の川に出でまして、常に游泳し給ひ、御家人までも此技に達せざるものなし、公達の方々にも、みな折立ちてこの事習はせられしなり、後々に至り、大猷院殿にも城溝にて御水泳ありし事度々なりしは、全く御祖風を受つがせられてなり、慶長十五年七月、駿河の瀬名河に漁猟のとき、御みづから游泳し給ふよし、ものに見えたり、こは御年六十に九ばかり余らせ給ふ時の事なり、御強健のさま、おもひ知るべし、〈御年譜、聞見集、〉

家康の鎗御軍陣の際、別に御持料の御鎗とて定まれるはなし、御長刀一本に、十文字の鎗一柄なり、大和大納言秀長が、細金の具足三百領に、中巻せし野太刀百振進らせしかば、甲州士にその具足を着せしめ、野太刀を持たしめられしとぞ、又姉川の戦の前日、織田右府鎗一柄持出で、これは鎮西八郎為朝が鉱なり、徳川殿には正しく源家オープンアクセス NDLJP:2-117の正統におはせば、その旧物を進らするなり、明日の戦には、かならず打勝たせ給はむと言はれし、これぞ今に持たせらるゝ投鞘い御鎗の中身なりしとぞ、〈武辺雑談、落穂集、〉

細川忠興の冑関原の戦に、細川越中守忠興、たゞ一騎馬を早めて、御本陣さして馳せ参るに、山鳥の尾の冑に、銀の天衝の指物さしたるが、その飛厳するさま、たゞ雲井はるかに舞ふ鶴のごとくに見えしかば、御感ありて、忠興が物数奇またたぐひなしと仰ありて、かの指物御所望にて、台徳院殿へ進らせられしとぞ、〈武家閑談、〉

陣羽織に白鴎を縮にし、頭を馬手の方にせしを御覧じ、これは逃鴎なり、すべて武具に附くる紋がらは、弓手がゝりに附くべきものなりと仰せられしとぞ、〈三河物語、〉

厭欣の旗御旗は、そのかみ右京亮親忠主、井田野合戦の時、大樹寺の開祖勢誉上人が作りて送らせし、厭離穢土、欣求浄土と書きし、白き四半五幅の旗を、むかしよりの御佳例にて用ゐらる、〈これは筑紫陣の時も用ゐ給ひ、また大坂夏の御陣にも、御吉例とて箱に納めて、御輿の傍に持たしめられしとぞ、〉その後七本の白旗・一幅に、長さ一丈八尺にして葵の丸を三つ黒く附く、まねぎも白きを用ゐらる、永禄六年の頃、牧野半右衛門康成が金の扇のさし物御意にかなひ、御所望ありて御馬印になされ、熊毛にて縁をとりて用ゐられ、御旗の葵も、下の方に附きし葵二つを除かしむ、其後慶長五年、奥の景勝追討の時より、御旗を無紋になされ、有紋のかたをば台徳院殿へゆづらせ給ふ、大喪の後に至り、白き御旗のまねぎばかりに御紋を附けられ、紫綾もて乳とせられしとなり、〈武辺雑記、〉

按に、厭欣の御旗は、諸説さまにて、親忠君の御時より用ゐはじめ給ひしといひ、又清康君御事ありし後、織田信秀が三州へ乱入せしに、大樹寺の登誉上人是を用ゐて防戦し、勝利を得しかば、御嘉例にて後々用ゐらるゝともいひ、また大高城御退去のとき、大樹寺の鎮誉が書きて奉りしといひ、あるひは一向乱の時、彼門徒にまがはざらむため、浄土宗の旗は、この句を書きて掲げしともいへり、いづれにも古くより御用ゐありしなり、いま日光山の御神宝に、この御旗を蔵めらるゝといへり、〈旧考余録、〉

五の字の指物御使番の用うる五の字のさし物は、小田原陣のとき、服部半蔵正成、黒地の四半に、五の字を白く染め出せしが御目にとまり、以来御使役の指物に用ゐらるべければ、献るべしとて、これより使番奉はる者の内にても、殊に老功の徒に用ゐしめられしなり、〈貞享書上、〉

オープンアクセス NDLJP:2-118大坂陣家康の武装浪花の役に、白き御袷に、茶色の御羽織を召し、編笠を戴かせられ、御草鞋を附けられ、御胄は冑立に建て置かれ、御采は持たせ給はざりしに、石川主殿頭忠総が、美濃の国士丸毛三郎兵衛といふ、故実心得し者の言葉にしたがひ、青竹切りて献りしを御用ゐありしとなり、また御旗竿の損ぜしにより、改造せむと申上ぐれば、無用にせよ、竿になる程の竹は、何地にもあるべし、旗さへ見ゆれば、よきものなりと仰せられしとぞ、〈武事記談、寛元聞書、〉

刀は中砥にしたるがよし、よく切るゝものなり、また夜中など光らすにもよし、又刀の柄鮫は、大粒なるよりは、小粒なるを漆に塗り、柄をば樫木にかきいれ、小き目貫打ちたるが、定用にもよしと仰せられしとなり、〈三河物語、中泉老人物語、〉

人生の武術と商ひ藤堂高虎が御談話に侍る折から仰せられしは、天下の主たりとても、常々練熟せでかなはざるは、騎馬と水泳なり、この二つは人して代らしむる事のならぬわざなり、またあきなひとする事二つあり、米と馬となり、米穀は天下一日も闕くべからず、馬もたゞ飼殺すべきにあらず、よく国用にあてゝ駈使すべきなり、また刀剣の審鑑も知らで叶はざるなり、常に身を離さゞるものなるに、新身・古身のけぢめもしらず、金味も分らずして帯せりとても何かせむ、この旨折をもて将軍へも申されよと宣ひしかば、高虎かしこまり、夜話の折申上げしに、将軍家も御感ありて、この二技は御演習あり、また本阿弥をも召出して、絶えず御差料の宝刀ども数多かりし中にも、家康の愛刀宗三左文字と名付けしは織田右府が桶狭間にて、今川義元を討ちし時、義元が佩きてありしなり、長さ二尺六寸あり、菖蒲正宗と号せしも、野中何がしといふ微賤の者の献りしにて、二尺三寸あり、この二振は殊に御秘愛にて、替鞘をあまた作らせ置きて、御身さらず帯ばしめしなり、関原のときは菖蒲、大坂には宗三を佩かせられしとか、また三池の御刀も御重器にて、元和二年薨御の前かた、都筑久太夫景忠に命じ罪人をためさしめて、御遺言にて、久能の御宮に納め置かれしなり、また本庄正宗といふは、上杉謙信が家臣本庄越前守繁長が差料なりしが、繁長窮して売物にせし時、御手に入りて御重愛あり後に紀伊頼宣卿に進せられしを、また彼家より献られ、今に御宝蔵として、歴世遷移の御ときには、まづこの御刀を進らせらるゝ事にて、三種の神器うけわたさるゝごとく、いとおもたゞしき御先規になりしなり、〈藤堂文書、武功雑記、坂上池院日記、武林旧話〉

オープンアクセス NDLJP:2-119三河にて牧野半右衛門康成、商人のもとより、刀を売らむとて見せしを、御覧に入れしかば、つく御覧じ、こはよく切るべきものなり、買ひ置くべしと上意にて、半右衛門購求し置きたり、その後御刀のためし仰付けられし折から、この刀も試みさすべしとの命にて、こゝろみしに、果してよく切れしかば、半右衛門、兼ねての御審鑑露たがはず、土壇まで切入りしとて、感じ奉る旨聞え上げしに、御けしき斜ならず、御ためし奉はりしものも帰り来て、先にためさむとせし時、半右衛門目を塞ぎ、あはれこの刀、御目利のごとく切れよかしと、念願せしと申上げしかば、君御笑ありて、さらば其刀目眠刀と名付けよと仰ありて、かく名付く、目眠刀世々に宝蔵しけり、こは保昌五郎貞吉が作なりしとか、又天正の頃、御鷹野の折から、油を売るもの御路を遮り、不礼のさましたれば、彼打とめよとて、御佩刀を近臣西尾小左衛門吉次に授け給ひしかば吉次直に追かけて切りしに、しばしが程はあゆみ行きて、両断になりて倒れしかば、油売の刀その御刀を油売と名付けて秘愛せられしが、後に吉次にたまはりぬ、また向井兵庫頭正綱、小田原の役に、敵の大将鈴木弾次郎といふ者の首取りて実検に備へしに、頤より下歯をかけて斬落せしかば、御感のあまり、其刀をめして御覧じ、後にまた召されしに、故ありて人に渡し置きて、御うけ申かねしと聞召し、二百俵をもて購求し、やがて正綱に返し下されしとぞ、〈家譜、〉

石火箭の製作渡辺三郎太郎といふは、元豊後の大友が家人なるが、大友の命にて入唐し、石火箭の製作及び放し様を習ひ心得て帰国しけるが、大友亡びて後は、三郎太郎も流落し、宗覚と改名し、同国府内の城主早川主馬が方に寓居してありしを、主馬よりかの石火箭を御覧に入れしかば、こは軍用に欠くべからざるものなりとて、宗覚父子を召出され、度々御用を仰付けられ、殊に大坂冬の役には、駿府へ召し、石火箭調じて奉り、夏の役にも供奉し、落城の後、城中にて焼きし銅鉄の類を、ひとつに吹まとめて奉り、後年に至り、領邑を賜はり、世々この御用奉はる事となりぬ、 〈貞享書上、〉

此巻はすべて御武備の事を記す、

 
 

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