東照宮御実紀附録/巻十
上方の逆徒御誅伐の御出陣、九月朔日と仰出されしに、石川日向守家成、朔日は西塞なれは、日を改め給はむかと聞え上げたりしに、西方寒がらばわれ行きて是を開かむ、何のはやかる事かあらむとて、御出馬ありしなり、この春奉りし年筮を占せられしに、習坎の初六を得させられしとか、其時前後に大敵を受け給ひし姿は、坎卦の受の辞に云ふ、重険に陥るとも申すべけれども、よく恐戒おはしませしゆゑ、終に凶を転じて吉になされしならむ、〈武徳大成記、武辺咄聞書、〉
江戸を御首途の日、外桜田の御門に至らせられしころ、濃州岐阜より井伊・本多の呈書来り、去る廿五日石田治部が手の者を、福島正則が家人打取りしとて、その首級入れし桶、品川まで到来せし由注進あり、増上寺の門前にさし置くべき由命ぜられ、やがて御発駕あり、【芝神明社】その頃芝神明の社はいと小祠にて、本祠の前にわづかの拝殿あり、それへ渡御なりてかの首ども御覧じ、御門出の吉兆なりとて、御気色斜ならず、また増上寺へ立よらせ給へば、住持の存応迎入れ奉り、本堂にて御拝あり、しばし御体らひありて、程なく立たせられしとぞ、〈武徳大成記、大業広記、〉
此度の御出陣いと忍びやかにおはしまして、御旗もしぼらせ、御旗印・御馬印も目に立たぬ程にせられ、三島に着せらるゝと、御馬印は熱田へもて行けと仰せて、奉行人もそはで、たゞ御小人計にて御先へまかり立つ大垣に着御ありて後、はじめて旗幟など押立て、いとおごそかに見えけれは、上方勢はじめて目を驚かせしとぞ、〈聞見集、卜斎記、〉
【家康岐阜に着す】岐阜に御着陣ありし時、厚見郡西庄村亀甲山立政寺の住持、大なる柿を献りければ、殊に愛でさせ給ひ、はや大垣が手に入りたるはと仰せられて、その柿をまき散らして、近臣等に賜はりければ、いづれもあらそひて給はりしとぞ、〈天元実記、〉
御進発の御道すがら、さる僧を召して、汝今度の戦は勝敗如何にあらむと問はせられしに、此僧答へけるは、果して御負軍なるべしと申す、そのゆゑいかにとなれば、大敵をたゞ一時に挫くべしとの思召、御表にあらはれ候、かくては必ず御勝利あるべからずと申す、扨は何と思案してよかるべきにやと仰せらるれば、願はく【 NDLJP:1-112】は天下安泰に伐ち治め、万民塗炭の苦を免かれしめ、諸寺・諸社の頽廃せしをも興隆せむと、大悲の御兜に忍辱の御鎧を召され、たゞ天地神明のために、逆賊を征討せしめむ思召にさへましませば、御勝利疑あるべからずと御請せしかは、これ至極の理なりと感ぜさせ給ひ、この僧を戦場に召し具せられ、敵味方の戦死の者どもを懇に弔はしめられしとぞ、〈新著聞集、〉
按に、新著聞集に、関原の御道にて旅僧に行会ひ給ひ、この説を尤と聞召し、軍陣に召し具せられしが、この僧後に増上寺の観智国師といふよし記せしは誤りなり、源誉はこの時既に増上寺の住職し、また関原御出陣に、寺社祈祷の事など勧め奉りし事もあれば、その時の事誤伝せしなり、
九月十三日岐阜につかせ給ひ、翌朝御出立ありて、御陣押の様を敵に見せまじとて、大垣の方をよきて長柄川呂久川を渡り越し、西の保山を経て、赤坂の後なる虚空蔵山と南禅寺山との間なる余池越を通らせ給ふとき、諸大名御途中まで出迎ひて謁し奉る、この時御興のうちより、南宮山に続きし敵のさまを御覧じ、御輿の傾く程御頭を出され、御またゝきもなく見めぐらしておはせしに、柳生又右衛門宗矩近よりて、此度御上意めでたし、いづれもこれにさぶらふと申せば、はじめて【 NDLJP:1-113】御心づかれ、各大儀に思召さる、明日は早々戦を始むべし、かならず勝利ならむと宣ひしとなむ、この時本多忠勝御輿によりて、筑前中納言秀秋御味方せむと、黒田長政をもて申出づ、既に人質も取かはしぬと申す、【小早川秀秋の内応】何と秀秋が返忠するとか、さらば戦は既に勝ちたりと高らかに仰せければ、諸人これを承りてよろこび勇む事限なし、戦に及びて小西助左衛門正重〈家譜助兵衛或は助太夫とす、〉西尾伊兵衛正義両人を秀秋が備へし松尾山に遣され、かの陣の体をうかゞはしめしに、かへり来て、秀秋いかにも裏切すべき様なりと高声に申上げゝれば、その時は、かゝる事は密にいふべきものなれ、もしさなからむには、諸軍の気おくるゝものなりと仰ありしとなり、 〈黒田家譜、前橋聞書、古人物語、〉
【関原の役】十四日、大垣城中よりこなたの御出陣の様を伺はしめむとて、浮田・石田の家人ばら株瀬川を渡りて刈田をすれば、中村一学忠一が手の者出合ひてこれを追ひ退け、川を渡り越す様を御覧じ、あれ川切に追とめはせずしてと仰せらるゝ中に、果して又敵に追返されければ、近臣に向はせ給ひ、我等がいはぬ事か、あれを見候へとのたまひ、井伊兵部少輔直政・本多内記忠朝に仰付けられ、諸勢を引上げさせ給ひしとなり、この迫合に有馬玄蕃頭豊氏が家人稲沢右近、敵方横山監物に組伏せられし所を、右近が若党監物を引倒して、己が主に監物が首を取らせける、かゝる所にまた何者か来りて、その若党の首切つて逃げ去りぬ、後に御糺しあれば、堀尾信濃守忠氏が家人の由なり、またく味方伐の事ゆゑ、右近その旨訴へ出でしに聞召し、何をいふぞ、かゝる打込の軍には、さる事もあるものぞ、そのまゝにて捨置けと仰せけり、同じ時、敵方に白しなへの指物させし者、幾度となく後殿して引退きし様、いかにも殊勝に見えければ、あの白しなへが武者振を見よと度々仰せられしとぞ、これは石田がうちに、林半助といひし者なりとぞ、〈天元実記、〉 戦の前日、諸軍の合詞を改め給ひ、兼ねては山か麓か、麓か山かといふを、山は山、麓は麓といふべしと仰出され、又総軍の左の肩に角取紙を付けられ、味方打なき様にすべしと命ぜられしとぞ、〈落穂集、〉
【関左馬之助】十四日の夕方、右筆関左馬之助を召して明日軍果てし後に、関東へ遣さるべき御書各状三通に、江戸留守の者への連状一通を認むべしと仰付けられ、十六日藤川の御陣にて、昨日の書状はと宣へば、左馬之助かねて認め置きしを御覧に備ふ、あ【 NDLJP:1-114】て所は三河守秀康主・伊達政宗・最上義光へ一通づゝ、江戸の御留守は本城・新城ともに連名に認むべしとありて、一通残りければ、左馬之助、こは佐竹義宣が方へ遣されむかと伺へば、いづ方へもつかぬものをと仰せらる、左馬之助、いづれへもつかずば、猶更遣さるゝがよけむと申す、いや〳〵との仰にて、さて汝この状を書きしに、今十五日と書きしはさる事なれど、巳の刻とまで、前方より時刻をはかりて書きしは、いかなる故かと問はしめらるれば、左馬之助、敵は大軍、味方は小勢なれば、巳の刻より午の刻までに勝たせ給はずば、必ず御負なるべし、さらば御書も不用なりと思ひて、かくはしるし侍りぬといへば、御笑ありしとなり、この左馬之助元来善書のみにあらず、その才覚も御意にかなひければ、四百石賜はりて右筆の組頭の如くにてありしが、後にまた加恩ありて使番になされしとぞ、〈霊巌夜話、〉
【毛屋主水】十四日の晩かた、黒田長政より家臣毛屋主水をもて言上の旨あり、御前へ召し出し御物語あり、敵は何ばかりあらむと問はせ給ふ、主水御陣の縁のはしによりながら、某が見し所にては、一一三万もあらむかと思はるゝと申す、そは思ひの外の小勢かな、外々の者は十万もあらむといふに、汝一人かく見積りしは如何にとあれば、仰の如く総勢は十万余もあらむなれども、実に敵を持ちし者はわづか二三万に過ぎじといふ、こは金吾・毛利の人々、かねて御味方に参らむといふを、内々伝へ聞きてかく申せしゆゑ、君にも思召し当らせ給へば、殊に御気色にて、御前にありし饅頭の折を主水に賜ふ、主水戴き、御縁に腰をかけながら、饅頭を悉く食ひ尽してまかでしなり、路にて御側の者に、かれが本氏を尋ね置くべきにと宣へば、毛屋主水と申す、いやとよ、彼が毛屋を氏とせしは、越前の地名にて、その本氏にあらず、毛屋にて軍功ありしゆゑ、地名をもて氏とせしなりと仰せらる、末々の陪臣までの事をいかにして御心にとゝめられしとて、御強記の程を感じ奉れり、またこの日の夜半ばかり、福島正則より祖父江法斎を使に参らせ、敵勢今宵の中に大垣を出で、牧田海道を経て関原表へ押出す様に見え候、此方にも明日早天に戦をしかけ、敵を切崩し候はむ、【家康の出陣】早々御馬を進め給へとなり、よて法斎をめし出し、正則が勧むる如く、御出馬あるべき旨仰せ聞けられ、御湯漬召上られ御用意をなさる、往年長久手にて三好秀次を切崩し給ひし事語り出で給ひ、このたびも彼の大勢をどつと追崩してと仰せられながら御馬に召さる、御冑はと申せば、いや〳〵との【 NDLJP:1-115】仰にて、茶縮緬のほうろく頭巾を召して御出陣ありしなり、この時御手水を召し御陣の縁へ出でおはしまして、近臣等を召し呼ばれ、敵の陣どりし山々の篝火を指し給ひ、あれを見よ、夥しき事にてはなきか、夜あけばかの敵どもを蹈ちらさむ汝等も父や祖父のつらにくそを塗るなと仰せければ、いづれも御前を退き、只今の上意を承りては、血首を提げて御覧に入るゝか、さなくば我々が首を敵に取らるゝか、二つの外はなしと、いよ〳〵奮励して勇気百倍せしとぞ、〈落穂集、〉
十五日の朝、勝山より関原へ御陣を進めらるゝ時、さて〳〵年がよりて骨の折るゝ事よ、忰が居たらばこれ程にはあるまじ、内藤四郎左がこねば、斥候に遣るべき者もなし、渥美源吾は居たらむ、呼べとの上意にて、源吾勝吉参りければ、敵の様見てこよと命ぜられしが、やがて馳かへり、今日の御軍必ず御勝利ならむ、早く御旗を進め給へと申す、先手のかたに鉄炮の音聞ゆるやと問はせ給へば、誰もいまだ御答せざりしに、【すり】年頃御馬の口取にすりと字せし老人あるが、殿よ、戦は既に始まりしと見えたり、早く御馬を出し給へといふ、汝何を知りてかさはいふぞ、すり、さきまで鉄炮の聞えしが、今やみつれば、定めて鎗合になりしならむと申す、さらば鬨の声をあげよと命ぜらるれば、いかにも恰好の時節なれと申す、その折御身をもたげいさゝか飛ばせられ、御軽捷の様を近臣にしめし給へば、いづれもその御挙動を感歎するに、かのすりひとりは、糞がにの飛むだ程にもなしと、悪言はくを咎めもし給はで、ほゝゑませ給ひておはせしとぞ、又辰刻計に本多三弥正重御陣に参り、敵合遠し、今少し御陣をすゝめ給へと、いふを聞かせられ、口脇の黄なる程にて、いはれざる事をと宣へば、三弥御次に退き、なんぼう口脇は黄なるにもせよ、遠きは遠しといひて居りしとなり、又朝の程霧深くして、鉄炮の音烈しく聞えければ、御本陣の人々、いづれも勇み進むで馬を乗廻しつゝ御陣もいまだ定らざるに、野々村四郎右衛門某あやまりて、君の御馬へ己が馬を乗かけしかば、怒らせ給ひ御はかし引抜きて切はらはせ給ふ、四郎右衛門は驚きてはしり行く、なほ御怒やまで、御側に居し門奈助左衛門宗勝が指物を筒より伐らせ給へども、その身にはさはらず、これ全く一時の英気を発し給ふまでにて、後日に野々村を咎めさせ給ふ事もおはしまさゞりしとぞ、〈古人物語、落穂集、卜斎記〉
米津清右衛門正勝敵の首取来りて、小栗又一忠政に向ひ、我ははや高名せしとい【 NDLJP:1-116】ふ、忠政かねて清右衛門と中あしければ、汝がしらみ首とるならば、我は冑附の首取つて見せむというて、先陣へ馳行く、清右衛門はかの首を御覧に入れしかば、使番勤むる者は、先手の様を見て、早く本陣に注進するが主役なり、首の一つや二つ取りて、何の用にか立つとて警め給ひしなり、忠政はやがて冑附の首とり来て清右衛門に、これ見よ、汝になるほどの事が、我になるまじきかといひて、【大野治長の戦功】その首をば路傍の谷川に捨てけり、また大野修理亮治長は先年の事により、佐竹が方に預けられしを、こたび御許得て御本陣に候せり、戦のはじめ先陣に行きて、敵の首取りて馳かへりしに、匠作これへと仰にて、その功を慰労せられ、もはや先手に進むに及ばずと宣ひ、岡江雪と共に御本陣にありしとぞ、この折治長が得し首は誰とも知れざりしが、後に聞けば浮田が家に高知七郎左衛門といふ者なる由聞召し、さほど名ある者と知らば、我その折たしかに見て置くべきにと宣へば、治長は首一つにて両度の御賞詞を蒙りしと、時の人みな羨まぬ者はなし、〈落穂集、明良洪範、〉
この日辰刻に軍はじまり、午の刻に及びてもいまだ勝敗分れず、やゝもすれば味方追靡けらるゝ様なり、【秀秋の態度】金吾中納言秀秋かねて裏切すべき由内々聞えしが、いまだその様も見えず、久留島孫兵衛某、先手より御本陣に来り、金吾が旗色何とも疑はし、もし違約せむも計り難しといへば、御気色俄に変じ、しきりに御指をかませられ、扨は忰めに欺かれたるかとの上意にて、孫兵衛に、汝は金吾が陣せし松の尾山にゆき、鉄炮を放して試みよと宣へば、孫兵衛組の同心を召連れ、山の麓より鉄炮打かけしかば、筑前勢はじめて色めき立ちて麓へ下せしとぞ、〈天元実記、〉 この日の戦未刻ばかり全く御勝利に属しければ、藤川の台に御本陣をすゑられ、御頭巾を脱がせられて、裏白といふ一枚張の御兜をめし、青竹を柄にして、美濃紙にて張りし魔を持たしめ、兜の緒をしめ給ひ、勝つて兜の緒をしむるとは、この時の事なりと仰せられ、首実検の式を行はる、諸将も追々御陣に馳せ参り、首級をささげて御覧に備へ、御勝利を賀し奉る、一番に黒田甲斐守長政御前に参りければ、御床机をはなれ、【家康黒田長政の奮戦を謝す】長政が傍によらせられ、今日の御勝利は、偏に御辺が日比の精忠による所なり、何をもてその功に報ゆべき、わが子孫の末々まで、黒田が家に対し粗略あるまじとて、長政が手を取りていたゞかせ給ひ、これは当座の引出物なりとて、はかせ給ひし吉丸の御短刀を、長政が腰にさゝせ給ふ、本多中務大輔は御前【 NDLJP:1-117】にありて、諸将への御詞を伝ふ、福島左衛門太夫正則進謁せしかば、今日の大功、左衛門太夫をはじめ其外の者ども、いづれも其働目を驚かしぬと申せば、正則、忠勝が人数扱の様、げに比類なしといへば、忠勝、思ひの外の弱敵にて候といふ、君、中務は今にはじめぬ事よと上意あり、【松平忠吉井伊直政の負傷】やがて下野守忠吉朝臣は手を負はれ、布もて肘をつゝみ、襟にかけて出で給ふ様を御覧じて、下野は手負ひたるかと宣へば、朝臣薄手にて候と答へ給ひながら座につかる、井伊兵部少輔直政も鉄泡疵を蒙り、靱に手をかけ、忠吉朝臣に附そひ参り、忠吉朝臣の勲功の様を聞えあげ、逸物の鷹の子は皆逸物なりと称誉し奉れば、そは上手の鷹匠がしゝあてよき故なりと宣ひ、汝が疵は如何にとて、御懸硯を召寄せ、御膏薬を取出して、御みづから直政が疵に附け給ふ、直政かしこみ奉りていはく、今日某が手より好みて軍を始めしにあらず全く時分よくなりしゆゑ守殿と共に手始せしといへば、いたく御賞美あり、其次に本多内記忠朝、大太刀血に染みて、鋼元五六寸計鞘に入らざるをさして、御前に出づるをみそなはして、忠朝若年なれども、武勇の程父祖に愧ぢずと宣ふ、織田源五郎入道有楽は、石田が家臣蒲生備中が首を提げ来りしかば、有楽高名めされしなと仰あり、入道かしこまり、年寄に似合はざる事と申上ぐれば、備中は年若き頃より用立ちし者なるが、不便の事なり、入道さるべく葬られよと仰せらる、入道が子河内守長孝も、戸田武蔵守重政が冑の鉢を鎗にて突通せしと聞し召し、其鎗取寄せて御覧あるに、いかゞしてか御指にさはり、血出でければ、村正が作ならむとて見給ひしに、果して村正なれば、長孝も迷惑の様して御前を退き、御次の者に事のゆゑ由を問ひて、はじめてこの作の当家にさゝはる事を知り、御家の為にならざらむ品を所持して何かせむとて、さし添を抜きて、その鎗を散々に切折りしとぞ、【秀秋家康に謁す】金吾秀秋は参陣遅々しければ、村越茂助直吉を遣はされて召し呼ばる、秀秋長臣二十人計を従へて参り、芝居に跪きてあり、君御床机より下させ給ひ、かねて懇誠を通ぜられし上に、また今日の大功神妙の至りなりと宣ふ、秀秋かたじけなき由を申し、明日佐和山討手の大将を望みこふによて御許あり、この時金吾が見参せし様を見て、後日に福島正則が黒田長政に語りしは、こたび内府勝利を得られしといへども、いまだ将軍にならせられしにもあらず、さるに秀秋黄門の身として、芝の上に跪き、手を束ねし様は、いかにも笑止にてはなきかといへば、長政、さればよ、【 NDLJP:1-118】鷹と雉子との出合と思へばすむ事よと笑ひながらいふ、正則、こは御辺が贔負のいひ様なれ、鷹と雉子ほども違はむかといひて、笑ひてやみしとぞ、〈武徳安明記、明良洪範、天元実記、〉 十五日の申刻より大雨降出し、車軸を流す如くなれば飯を炊く事ならず、御本陣より御使番馳廻り、諸陣に触れしめられしは、かゝる時は飢に迫り生米を食ふものなり、されば腹中を損ずべし、米をよく〳〵水に浸し置き、戌の刻に至り食すべしと仰諭されしかば、いづれも尊意の至らぬ隈なく、ゆきとゞかせらるゝを感じ奉れり、さるに不破の河水溢れ出で、戦死の屍骸を押流し、水の色血に染みしかば、浸せし米もみな朱色に変ぜしとぞ、〈落穂集、〉
朽木河内守元綱は、この日の夜に入り、細川忠興にたより御本陣に伺公し、元網一旦敵方に与せし罪は遁るゝ所なしといへども、脇坂中務少輔安治が陣に属し、御味方の色をあらはしたり、あはれ御許蒙りて、後日の忠功を励まさしめむといふ、君聞召し、其方などの如き小身者は、草の靡きといふものにて深く責むるに及ばず、本領安堵これまでの如しと仰せければ、元綱も盛慮の寛洪なるに感じ、涙落して御前をまかでしとなむ、〈東遷基業、〉
【津田清幽】金吾秀秋等佐和山の城責めし時、城中に籠りし津田喜太郎清幽といへるものは、元御家人たりしをもて、船越五郎左衛門景直に命じ、清幽を城外へ呼出し、三成既に敗北しぬ、城中の者ども速に城を明けて帰降すべし、清幽は一度御家にも召使はれしものなれば、厚く恩賞あらむとなり、清幽、某既に身を城将に委するからは、これに背かむ事本意にあらず、仰はかしこけれども、従ひ奉ることかなはずと申切りて城にかへり、三成が弟木工頭一成に告ぐ、一成いかゞせむと議すれば、清幽、三成には徳川殿に敵対し給へども、君をばさまであしともおぼさず、今三成と君の妻子を助けられば、検使をうけて腹切り給はむか、さらずば力の及ばむだけ防戦して討死せられむか、此二の外なしといふ、一成、さらば最初の議に従はむとて、明日城を渡し奉らむにより、村越茂助を検使に給はれといひ出でしが、其中に城中に違心の徒ありて、本丸に火を放ち、寄手俄に責入りしかば、一成は清幽に後事を托して自殺す、清幽は脇坂中務少輔安治が家人村瀬忠兵衛と戦ひ、忠兵衛を捕へ、是を証として同僚十一人と同じくその場を切抜け、御陣に参りその由申上ぐれば、汝そのかみ我家人たりといへども、近日の挙動かくこそあるべけれとて、【 NDLJP:1-119】清幽父子を召出し、同僚十一人は大阪に赴き、秀頼に仕へしめよとありて、大阪にて佐和山防戦の功をもてをの〳〵禄仕を得たり、清幽は後に尾張義直卿に属せしめらる、一とせ清洲御通行の折、平岩親吉を召して、清幽はもと尾張の産にして且二心なく誠実の者なれば何事ぞあらむには、一方の任を打任せても、危き事なしと仰せられしかば、清幽も感涙を流し、終身御詞のかしこきを人々に物語りけるとなむ、〈家譜、〉
この巻は関原御発向より御勝利の後までの事をしるす、
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