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東照宮御実紀附録/巻二

目次
 
一向一揆水野正重内藤正成土屋重治柴田康政一揆平定の困難門徒の帰降戸田忠次小栗忠政今川氏真一宮城を攻む家康籠城の将を救ふ一宮の後詰峯屋貞次の後を立てしむ武田信玄欵を家康に通ず家康信玄と好を絶つ遠州諸城の攻略榊原康政家康徳川氏を称す家康家士を愛す金崎の役に家康秀吉を援く姉川の役家康朝倉氏に向ひ之を破る家康池田信輝と陣法を論ず榊原康政の二陣の備信長の感状軍功に依りて家士の名を改む家康吉田に信玄の軍を禦ぐかゝりかむ家康浜松を守る本多忠勝の奮戦味方原の戦家康の決心鳥居忠次の戦死夏日吉信家康の敗戦水野正重小笠原定信木梨新兵衛野中重政鈴木久三郎桜井勝次家康浜松に退く高木広正信玄軍を班す馬場信房三河勢の勇武を歎賞す家康戦死者の後を立てしむ石川善助
 
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東照宮御実紀附録 巻二
 
一向一揆

一向乱の時、正月三日、小豆坂の戦に、大見藤六は前夜まで御前に伺公し、明日の御軍議を聞済まして、賊徒に馳加はりしかば、君近臣に向ひて、明日はゆゝしき大事なれ、藤六定めてこなたの計略を、賊徒にもらしつらむ、汝等よく戦を励むべし、我もし討死せば、藤六が首切つて我に手向けよ、是ぞ二世までの忠功なれと仰せけり、かくて明日藤六と石川新七両人、真先かけて攻来り、新七は、水野惣兵衛忠重が為に突伏せらる、水野正重藤六には水野太郎作正重行向ひ、汝のがすまじとて打たむとす、藤六弓引いて、忰め寄らば一矢に射とめむと、待構へたるをも顧みず、正重鑓提げて間近く進むに、流矢来つて藤六が腕に立てば、弓矢を捨て太刀抜かむとする所へ正重鑓付けしが、札堅くして徹らず、藤六抜放ちて正重が冑を切りけるに、之も切り得ず、よて太郎作も鑓捨て刀にて切合ひ、終に藤六を切倒しければ、倒れながらせがれ無念なりとて、念仏唱ふる所を其首打落す、かくて二人討たれけれオープンアクセス NDLJP:1-19ば、賊徒みな敗走す、正重、藤六が首を御前へ持参りしかば、藤六をば汝が討ちたるか、汝が一代の忠功なれと御称誉あり、又針崎を責められし時、御手鑓もて渡辺半之丞を突き給ひしに、薄手にて逃行く所を、石川十郎右衛門、渡辺が前に立ちて、君に向ひて突かゝる、内藤正成其時内藤四郎左衛門正成は、まだ甚一郎といひし頃なるが、御側より弓引いて二人を射る、二人共射殺されければ、賊徒直に敗走す、正成は渡辺には甥なれども、大義親を顧みず射倒せしとて、御感斜ならず、其頃織田殿、諸家にて勝れし武勇の者の名を記し、自ら点かけて置かれしに、この正成も若年ながら、点懸かりし者なりとぞ、〈貞享書上、〉

正月十一日、上和田の戦に賊徒多勢にて攻め来り、味方難儀に及ぶ由聞召し御みづから単騎にて馳出で救はせ給ふ、その時賊勢盛にして、殆危急に見えければ、土屋重治賊徒の中に土屋長吉重治といふ者、われ宗門に与すといへども、正しく主の危難を見て救はざらむは本意にあらず、よし地獄に陥るとも何か厭はむとて、鋒を倒にして賊徒の陣に向つて戦死す、この日御冑の内に銃丸二とゞまりけるが、御鎧堅ければ裏かゝず、戦はてゝ後、石川家成に命ぜられ、重治が屍を求め出して、御手をかけられいたく歎惜し給ひ、上和田に葬らしめ、厚く追善を営まれしとなむ、又この日柴田七九郎重政、己が名を矢に彫りて射たりしが、柴田康政其矢に中り死する者数十人、賊徒その精兵に感じ、重政が放ちし矢六十三筋を取集めて御陣に送りしかば、君御覧じて御賞誉の余り、御諱の字賜ひ康政と召され、六十三の文字を旗の紋とし、名をも矢の教にならひ、七九郎とめされしなり、〈東遷基業、岡崎記、貞享書上、〉

正月二日より十一日まで、日毎に数度の戦あり、御自らも太刀撃し給ふ事度々なり、後年伏見にて加藤主計頭清正が謁見せし折、四方山の物語ありて、佐々成政が、豊臣太閤の為に肥後国収公せられ、清正・小西両人に分ち賜はりし時、国中一揆起りしを、清正が武功にて、速に打平げし事を仰出され、一揆の魁首本山弾正を討取りしを、清正いつも名誉におもひ、ほこりかにいひ出づる事なれど、われも昔領内に一揆起りて、一揆平定の困難日毎に苦戦度々なりきとて、新野何某といふ者を召出し、彼等も弓もて我に近づき、既に射むとせし時、われに睨まれ弓を捨て遁れたるを、汝は今に覚えたるかと仰せられしかば、清正これを承りて、己が武功はいふにも足らぬ事と思ひ、且感じ且恥ぢて、御前を退きけるとぞ、〈続明良洪範、〉

オープンアクセス NDLJP:1-20門徒の帰降門徒等帰降の折、約定ありしは、昔よりの門徒は御許あり、其身一代門徒に帰依せしは罪に処せられむとなり、然るにあまたの人の内に、昔よりの門徒も、咎め仰付けられむとありしに、これは昔よりの門徒なりと申上げしかば、昔とは伊弉諾・伊弉冊の尊の事と思召されぬ、親鸞は近き世の事なりとて、科に処せられしもあり、又戸田忠次戸田三郎右衛門忠次は佐崎の本証寺にありと聞召し、たはけめ、彼は元来浄土門にて、一向門徒にもあらざるを、呼べとありて召出されしに、忠次人に語りしは、殿の召さるゝ故出でぬ、全く臆して狭間をくゞりしにあらずとて、さて三日の内に、此砦を攻め落さむと申す、いかなる計略かあると問はせ給へば、道場の下水の樋の口広し、これより人を入れて焼立つる程ならば即座に落ちむといふ、よて大久保七郎右衛門忠世に命ぜられ、忠次を嚮導とし彼砦を攻めしめ、遂に是を陥る、この時忠次奮戦して、鉄炮に中りて疵蒙りしかば、御感あつて、国光の御脇差を賜ひけるとぞ、〈古人物語、武徳編年集成、〉

小栗忠政一乱治まりて、帰降の者とり見え奉りける内に、小栗又一忠政御前に出でければ、君忠政が胸元を捕へ給ひ汝此後宗門を改むべきや、さなからむには只今一刀に刺殺さむとて、御指添を抜かせ給へば、忠政聊驚遠の様なく、御手討にならむとても、改宗はなり難しと申せば、汝が様なる者は穀さむも無益なりとて、突放し給ふ、忠政重ねて、只今こそ法華に改め候はむといふ、君聞し召し、手刄に逢ひても改宗はならぬといふ詞の下より、又法華にならむとは何事ぞと咎め給へば、忠政、士たる者が、御手討になるが恐しとて改宗すべき哉、たゞ一命を御助あるといふ、上命のかしこさを謝し奉らむ為に、法華にならむとは申しけるといへば、君も覚えず御咲ありけるとなり、又天野三郎兵衛康景も、同じ門徒なりしが、此度浄土に改宗して戦功を尽し、馬場小平太といへる大剛の賊徒を討取りしかば、御感あつて、阿弥陀の木像をたまはるといへり、〈続明良洪範、天野譜、〉

按に、一説には此事石川又四郎が事とせり、又四郎一向乱の後、信長に随ひ、其後また立帰り、御鷹狩の道筋にて見え奉りしに、又四郎が胸取りて引寄せ、御膝の下に組しかれ、汝浄土に改宗はすまじき哉と宣へば、いかにもなり難しと申す、よて衝放ち給ひて、汝は譜代の者にてはなきかと仰せらる、又四郎やがて起揚り容を改め、仰の如く浄土に改むべし、さきの如く御膝下に組しかれては、いかオープンアクセス NDLJP:1-21に主君にても御受は申上げ難しとあれば咲はせられしとなり、池田正印覚書、

今川氏真一宮城を攻む永禄六年三月、今川方の設楽郡一宮の城を攻め取られ、本多百助信俊に五百計の勢をそへて守らしむ、七年に至り今川氏真大軍を率ゐ、武田信虎に八千を分ちて援路を遮らしめ、一万二千の兵をもて、一宮を十重二十重に責囲めば、防戦殆ど艱危に及ぶ由聞召し、援兵を出し給はむとす、この時御勢はわづか二千に過ぎず、老臣等諫めていはく、氏真暗弱なりといへども、義元以来旧功の者猶多し、其上虎狼と呼ばるゝ信虎に、遊軍を分ちて援路を支ふれば、ゆゝしき大事なり、よくよく御思案あれといふ、君聞召して、凡侍たる者は信義の二を忘るべからず、家康籠城の将を救ふ敵城を攻め取りしのみにて、そのまゝ明け置けばともかうもあれ、既に家臣に命じて守らしむる上からは、その急あるに臨み、救ふべきは元より期したる事なり、さるを敵が多勢なり、計略が勝れしなどいふを恐れて、家臣の戦死するをよそに見て救はざるべきや、主の大事は被官が救ひ、被官が危急は主の助くる常の事なり、もしこたびの軍難儀に及び討死せは、これ何某運命の尽くる所なれ、今はたゞ敵の多少にも計略の善否にもかゝはらず、ひらに進めよと打立たせ給へば、諸卒も皆盛意のかしこきに感じ奉り、勇み進むで今川の大軍を何とも思はず、信虎の備を傍に見なし、たゞちに一宮の城際に押付け給へば、百助も喜びに堪へず、城門を開きて迎入れ奉る、この時今川勢は御備の厳整なるに恐れ、たゞ茫然としてありけるが、やがて心付き、信虎が勢を纒め、一同に責懸らむと犇めく所に、君にははや御入城ありて、御湯漬めし上がられ、此所に一宿し給ひ、人馬の労を体められ、翌朝本多を召具し給ひ、城を出でませば、敵は案に相違し、あれといふ内に、御備は真丸になりて引退く、百助が手勢五百、直ちに信虎が備を突き崩す事度々なり、とかうして酒井左衛門尉忠次・石川伯耆守数正・牧野右馬允康成御迎に参り、段々に備をたて、敵の襲路を断ちければ、今川勢追討つ事叶はず、御勢は一人も毀傷なく御帰陣あり、一宮の後詰これ一宮の後詰とて、後々まで御武功の一端にもてはやし奉る事なり、右馬允康成己が領邑牛窪に帰り、一族を集めて、君の御武略は兼ねて承及びし事ながら、此度の御手段を見て、はじめて其実なる事を知れり、かゝる大将の太刀かげを頼み奉りてぞ、行々功をも立て、名をもはどこせ、これぞ一家繁栄の基なれといひしとか、はるか年経て後御上洛の時、山岡道阿弥この事いひ出して、その頃オープンアクセス NDLJP:1-22より武道に志ある者は、みな御名誉の由伝称せしと申上げしかば、そはわが若年の程の事にて、若気の至なりと仰ありて、微笑し給ひしとなり、〈岩淵夜話別集、〉

峯屋貞次の後を立てしむ永禄七年五月、野田牛窪の城攻められしに、峯屋半之丞貞次鉄炮に中り、其疵愈えずして死す、其妻男子なければ、女子をともなひ、郷里に引籠りてあり、後に其辺に鷹狩せさせ給ひし折、御鷹それてかの宅地に入る、御供の人々、走り入て鷹を据上げしに、かの寡婦これを咎め、人々は何とて寡婦の家に案内もなくて闌入せらるゝぞ、と高声にのゝしる、君は何者の後家なるかと御尋あれば、貞次が妻なりと申す、貞次に男子はなきやと御尋により、六歳になる女子たゞ一人ありと申上ぐれば、いと哀と思しけるにや、その女に貞次が旧領をたまひ、鳥居源一郎をもて婿とし、貞次が家継がしめられしとぞ、〈家譜、〉

武田信玄欵を家康に通ず同年十一月、武田信玄御英名をしたひ家人下条弾正して、酒井左衛門尉忠次に書簡を贈り、この後は両家慇懃を通ずべき由を述ぶ、其書の表に啐啄の二字を記せり、人々いかなる故を詳にせず、其頃伊勢の僧江南和尚といへるが、たま岡崎を過ぎて東国に赴かむとするにより、石川日向守家成この字義を問ひしかば、鳥の卵殻を破るにその時節あり、早ければ水になり、遅ければ腐るといふ意なりと答へける由御聴に達し、すべて万事に時を失はざるをもて肝要とす、主将たらむ者は、殊更此意を失ふまじと宣ひしなり、後に又柴山小兵衛正員を召し、鷹をかふにもよく夜据をなし、時節を伺ふて鳥を捉ふ事は、昔聞きし啐啄の意なりと仰せられしとぞ、〈武徳編年集成、〉

今川氏真当家を攻めむとて、信玄へしかせむといひ送りければ、信玄もその計略の調はざるを知りて、心中にはおかしと思ひながら、暫同意の体にもてなし、心安く思はれよなどよき程に答へて、さて当家へは下条弾正を進らせ、その由つばらに告げ奉り、聊御心悩さるゝまでもなし、もし氏真出馬せば、かへりて共に打亡しなむと申上げしかば、君宣ひしは、信玄は酸刻の人かな、されどかくせずばはかゆくまじと仰せられぬ、また氏真が駿河を出亡せし後に、信玄と御和議ありて、誓紙の文に、川を限りて両国の分界とせむと書定められしは、大井川の事にてありけり、然るを入道が心中には、当家いまだ御若年におはしませば、今川義元が扱ひ奉りし折の如くせむと思ひあなづり、三河の里民の人質などをとりしゆゑ、オープンアクセス NDLJP:1-23こなたより咎め給へば、家康信玄と好を絶つ誓紙に川切と記せしは、天龍川切なりといふ、こゝにて大に怒らせ給ひ、天龍川はわが城溝の如きものなり、何故に天龍切といふべきや、かかる権譎のやからは、行末頼まれずと仰ありて、遂に隣交を絶たれしなり、〈武辺咄聞書、古人物 語、〉

遠州諸城の攻略永禄十一年三月、遠州の城々攻取り給はむとて、尾藤彦四郎が籠りし堀川の城を責めらる、先陣は松平勘四郎信一・榊原小平太康政なり、榊原康政康政己が配下の士に向ひ、われ若年なるを、かゝる寵任を蒙り、一隊の主将となり、その上御諱の字をさへ賜はりし御恩の深高なる事、山海にも比し難し、明日の戦には、必一番乗して盛意に報いむとて、其日のつとめてより、紺地に無の字の指物さし、笹切といふ鎌鑓を提げ、一番に城に攻め入り、散々戦ひて深手二ヶ所負ひしを、家人等肩に負ひ、猶進みて城に附入り、遂にその城を乗取れり、班軍の後、やがて康政が営にならせ給ひ、疵を御覧あり、深手にてとても生くべしとも思しめさねば、なからむ後の事、つゝまず申置けと仰せければ、康政もかしこみて、此度その配下の伊奈・中島の両人、忠戦衆に勝れしかば、両人に御恩賞あるべきなり、此外には思置く事侍らずと申せば、即二人を御前へ召し、御感状を授けらる、その後康政が疵思ひの外に平愈して見え奉りしに、御気色斜ならず、さま慰労の御詞を加へられしとぞ、〈武徳編年集成、家譜、〉

家康徳川氏を称す永禄十二年、これより先、松平の御称号を止められ、徳川の旧氏を用ゐ給ひしかども、旧冬此由はじめて京都将軍家〈義昭〉へ申請はれ、近衛左大臣前久公もて叡聞に達せられ、去冬十二月九日勅許ありて、この正月三日、将軍家より口宣案に添へて、御内書・御太刀を贈らる、〈武徳編年集成、〉

改年之吉兆珍重々々、更不休期候、抑徳川之儀、遂執奏候処、  勅許候、然者口宣案并女房奉書申調指下之申候、尤目出度候、仍太刀一腰進上候、誠表祝儀計候、万々可申通候也、

  正月三日                  義昭

     徳川三河守殿

今川氏真が籠りし、遠州掛川の城を攻められし時、城将日根野備中が甥、同弥吉手痛く戦ひしに、家康家士を愛す御旗本の水野太郎作正重渡り合ひて、弥吉が首取つて立上らむとせし所に、敵又弓をもて正重が腰を射ければ、深手ながら引取りけるを聞召し、丸オープンアクセス NDLJP:1-24山清林といへる外科医を召して、正重の疵大切なれば、いかにもして平愈せむ様に療養せよと仰あり、清林もかしこき事に思ひ、殊更に心用ゐて治療せしゆゑ、日頃へて恙なく平快せしなり、又後年甲斐若御子にて、北条と御対陣の折、久世三四郎広宣、北条が内、野中六右衛門といふ者を打取し時、面に疵蒙りしかば、御手づから薬を付けさせ給ひ、是も清林に療治仰付けられ、三四郎が鼻の落ちぬ様にと命ぜられしとぞ、これら皆士を愛し給ふ御心の一端を伺ひ知るべきなり、〈績武家閑談、柏崎物語、〉

金崎の役に家康秀吉を援く織田信長、越前金が崎・手筒山の両城を攻め落し、既に朝倉が居城へ押寄せむとせし所に、江洲の浅井父子心変りして、朝倉と牒し合せ、信長を前後より挟み伐たむとするよし注進あり、信長大に狼狽せられ、木下藤吉郎秀吉をとゞめ後殿とし、速に旗を返さむとせられしが、この時急遽にして、君にその由告げ奉るにも及ばず、いそぎ軍伍も定めずひき上げ、辛うじて朽木谷へかゝり、危急を免れけり、君には御微勢なれども隊伍を調へ、秀吉が苦戦する時、毎度これを援けて敵を追散し、聊道路の妨げなく、若狭路にかゝりて御帰陣ありしなり、御帰京の上、信長に御面会ありしとき秀吉も帰り来て、此度は徳川殿の御援助によて、十死を免れ一生を得たりと披露しければ、信長も君に向ひ、いたく礼謝せられしとなり、後年長久手の役終り、御上京ありし時、秀吉、君御在洛の間、厨料進らせむとて、先年金崎退口の時、おのれ徳川殿に助けられ、江州守山にて、川田といふ地士を呼出され、嚮導とせられしゆゑ、われ恙なく帰京する事を得しは、全く徳川殿の御智略による所なりとて、守山にて三万石の地を進らせしとぞ、〈落穂集、武徳大成記、御和談記、〉

姉川の役姉川の役に、織田家の援兵として、三千の勢を率ゐて馳せ上らせ給ひ、信長に御対面あり、信長申さるゝは、軍期近きによて、諸手の備は皆定め訖りぬ、君にはたゞ戦の弱からむ方を援け給へとなり、君、はる援兵として打上りしかひもなく、打込の軍せむは永き弓矢の瑕瑾なり、さらむには、速に本国に引返さむに如くべからずと宣へば、家康朝倉氏に向ひ之を破る信長、さらば浅井はわが当の敵なれば、朝倉が方に向はせ給はむや、朝倉大勢なれば、誰にても我旗下の者を加へ参らすべしといふ、公、某小国にて小勢を遣ひ馴れて侍れば、大勢を指揮せむ事思ひも寄らず、又心も知らざらむ人と打語らはむもむづかし、朝倉何万騎なりとも、某が手勢計にて打破り見参に入るべけれと仰せければ、信長、さりながら北国の大勢を、御勢にのみに任せたらむにオープンアクセス NDLJP:1-25は、信長又天下の嘲を免るべからず、物の用には立侍らずとも、一二人にても召具せらるべしといへば、さらば稲葉伊予守良通をかし給はるべきやと宣ふ、稲葉は小身にて、勢も持ち候はぬ者なれども、御望に任せ参らすべしとありて、伊予守千にも過ぎぬ人数を率ゐて御勢に馳加はる、かくて明日になりぬれば、御勢姉川を打越して、朝倉が一万五千の大軍にかけ合せ、しばし戦ひしが、遂に敵勢を切崩し給へば、かの伊予守も後陣に控へしのみにて、手を下すにも及ばず、織田家の備は、はじめ江州勢の為に切靡けられ、既に負色になりしを、御勢の朝倉に切勝ちし余勇を振ひ、又浅井が陣に横合より切つて懸らせ給へば、織田勢もこれに力を得て備を立直し、遂に勝利を得たり、戦畢りて後、信長いたく御武略を賞し、備前長光の刀を進らせけり、この役に織田家の寸兵をかり給ひて、北国の大軍を切り崩し、又浅井をも追なびけ給ひしは、類なき御事なりとて、日本国中に感ぜぬものはなかりしとぞ、〈藩翰譜、落穂集、常山紀談、〉

按に、一説に、前日の軍議にては、君は浅井、信長は朝倉に向ふべしと定められしを、その日の暁に至り、信長より俄に毛利新介秀詮を使として、よべの軍議はかく定めつれど、浅井はわが当の敵なれば、信長向ひ侍るべし、君には朝倉に向はせ給へと申送られし時、酒井忠次、わが軍列すでに定まりしを、今更かへむとせば列伍乱るべし、此事はいなみ給ひて然るべしといふ、君、浅井は小勢、朝倉は大軍なり、大軍の方へ向ふといふは、勇士の本意なれ、とかう織田殿の命にこそ任すべけれと、急に御陣を立直して、朝倉が方に向はせられしとぞ、

稲葉伊予守良通は、はじめより後陣に控へ居て、本意なく思ふ処に、織田家の先陣、浅井が為に切靡けられし様を御覧じ、良通に向ひ給ひ、我が兵已に敵を切崩しつれば、御辺こゝにありても詮なし、いま織田殿の戦危く見ゆれば援けむと思ふなり、こゝは御辺が先陣すべき所なりと宣へば、伊予守も承り、直に横違ひに川を打渡し、浅井が陣へ打つて懸る、君、又御先手の面々へ命ぜられしは、汝等今朝よりの戦にあまたゝび奮闘し、さぞ疲れたらむ、その儘に折敷きて休息すべし、こたびは旗本の備もて切勝たむと仰ありて、稲葉に続き敵陣へ打懸り給ひ、遂に難なく浅井を追崩し給ひしなり、〈落穂集、〉

家康池田信輝と陣法を論ず此軍議の時、君、軍は二の手にて勝利のあるものなりと宣ひしを、池田庄三郎信輝オープンアクセス NDLJP:1-26もその席にありしが、何故に敵を二の手まで越させ申すべきやと、ほこらしげにいふを君聞召し、さはありたきものなりと、さらぬ様にて御座を立たせられしが、戦に及むで信輝浅井が先鋒の為に散々切崩され、酒井忠次が備へ崩れかゝれば、忠次、おことは昨日の広言にも似ぬ様かなといひながら、長刀の蹲もて信輝が馬の三途を打ちしかば、馬驚きて落馬しぬ、其頃の人々、庄三郎は忠次が為に打落されしなど、誤り伝へしこともありしとか、〈落穂集、〉

榊原康政の二陣の備この戦に先陣うけたまはりし酒井左衛門尉忠次・小笠原与八郎長忠・菅沼新八郎定盈等川を打渡せしに、向の岸高くして上り兼ねしを見て、二の手に備へし榊原小平太康政、ゑい声上げて先陣を打越して先に進まむとす、酒井が兵後れてはかなはじと思ひ、競ひかゝりて遂に前岸に上り得て勝つ事を得たり君後に、榊原が二陣の仕方、後来の模範とすべし、二の手はかくあらまほしと仰せられけり、又戦のはじめ、朝倉の先鋒かち誇りしには目をかけ給はず、長沢藤蔵某を斥候に遣され、直に敵の二三の陣の間やゝすきたる所に、横合より打つて懸らせ給へば敵兵裏崩して総敗軍となりしなり、信長の感状信長より授け奉りし感状の文に、今日大功不勝言也、先代無比倫、後世誰争雄、十樊噲百張良といへども、日を同じうして語るべからずなど、御雄略の程を賞歎して進らせしとぞ、〈常山紀談、砕玉話、〉

軍功に依りて家士の名を改む小栗又一忠政、はじめは庄次郎といひしが、此戦の時年わづか十六歳なり、敵兵一人御側近く伺ひ寄るを見て、御物の信国の鎗取つて渡合ふ内に、御勢ども集り来て遂に敵を討取りぬ、君、庄次郎が年若けれど、心きゝたるを賞せられ、今日の功一番鎗にも越えたりとて、その鎗を給はりけり、その後も、度々の御陣に一番鑓を入れしかば、又一かと仰ありて、名を又一と改めしとぞ、又大塚甚三郎某は敵と鎗を合せしに、己が鎗折れければ、敵の鎗取つてその敵突伏せしを御覧じ、又ない働を仕たるぞ、又内と仰ありて、これもこれより又内と改称す大久保荒之助忠直も、敵の鎗取つて奮戦せしかば、荒が事を仕たると仰せられて、金の御団扇を賜ひしより、荒之助と改称す、榊原隼之助忠政は、敵の首取つて御覧に備へしに、折しも御馬副の人なければ、忠政に侍ふべしとありて、御手綱の七寸に取付きて居たり、忠政、只今御方の常に御恵蒙る者どもの敗走する様の見苦しさよ、かゝる時は誰か奮戦して御恩に報い奉らむかと述懐しつれば、尤と聞召し、後に遠州浜名オープンアクセス NDLJP:1-27にて、七十貫の地をたまはりしとなり、〈諸家講、柏崎物語、続武家閑談、〉

家康吉田に信玄の軍を禦ぐ元亀二年四月、武田信玄御領国に攻来るよしきこえ、浜松より吉田城に御座あり、信玄の先鋒山県三郎兵衛昌景多勢引連れ攻め来る、君、三の曲輪の櫓に扇の御馬幟立て、敵陣の様つく御覧あり、酒井左衛門尉忠次が打つて出でむといふを制し給ひ、敵陣の様を見るに、城を責めむとにあらず、我をおびき出し、彼の松原にて伏兵もて討たむとするならむ、よく見よ、今にかなたより武功の者を出して戦を挑むべし、こなたよりも一騎当千の者を出して、鑓ばかり合せしめよと宣ひしが、果して敵方より広瀬郷右衛門・三枝伝右衛門・孕石源右衛門など、士橋まで進み来りしかば、城中よりも酒井左衛門尉忠次・戸田左門一西・大津土左衛門時隆等打つていで、互に詞をかはして渡り合ひしが、やがて彼方より引取りしなり、此時御推察の如く、山県が備の後には、馬場美濃守・内藤修理亮・小幡・真田等数多備をかくし、御みづから打つて出で給はゞ、信玄は御袖の宿の方より吉田の西口にかかり、吉田を攻抜くべき手術なりけるとなり、山県勢の跡には、足軽の様に見せて、人数を少しづゝ残し置きしは、かゝりかむ甲州言葉にてかゝりかむといふものにて、敵を誘きよせ、諸所にかむを起して喰留めむ手術なりと、忠次に仰聞けられしが、後年広瀬郷右衛門御前へ出でし時、此事語り出で給ひしかば、郷右衛門、其時甲州の計略、全く御明察に少も違はざりしとて、驚き感じ奉りけるとぞ、〈御名誉聞書、〉

家康浜松を守る同年夏秋の頃、武田の大兵三遠の辺境を侵掠するにより、信長使を浜松に進らせ、早く浜松を去つて、岡崎へ退かせ給へといふ、君、時宜にしたがはむと御答ありて、後に侍臣に仰せられしは、此浜松を引く程ならば、我弓矢を踏折りて、武夫の道をやめむものをとて笑はせられしとぞ、其後老臣等、こたびは大事の戦なれば、尾張へ御加勢を乞はれむといふ、君・我いかに微運になりたりとも、人の力を借りて軍せむは本意にあらずとて聞かせ給はず、老臣重ねて、信長より度々援助を乞はるるに、こなたよりは、これまで一度もこはせられず、隣国相助くべきはもとよりの事なれば、こたび仰せ遣されしとて、我国の恥辱といふにもあらずと、強ちに勧め奉り、味方が原の役に至り、やうやく尾張より援兵を進らせしなり、〈柏崎物語、〉

見付の退口に、大久保勘七忠正は、一言坂にて鉄炮を打損じけるゆゑ、わづかの間にてなどかく打損ぜしと尋給へば、勘七平常の通に打ちぬと申上けゝれば、上意オープンアクセス NDLJP:1-28に、そは見付より走り来り、気息のあしさに打損ぜしなり、かゝる時は加様に打つものなりと、つばらに御教諭ありしかば、いづれも感歎せしなり、又この日、本多平八郎忠勝度々奮戦して敵を追払ひ、君にも難なく浜松へ御帰城あり、本多忠勝の奮戦御途中より成瀬吉右衛門正一もて、忠勝が許へ仰下されしは、今日の働日頃の平八にあらず、たゞ八幡大菩薩の出現ありて、味方を加護し給ひしと思召す由、御感賞ありしとぞ、甲州人が、からのかしらに本多平八といふ狂句を書きて、見付の台へ立てしもこの時の事なり、〈柏崎物語、〉

按に、伊賀路御危難の時にも、忠勝が事を八幡菩薩の出現せしとて、賞せられし事あり、さる武功の者ゆゑ、度々同じ御賞詞賜はりしなるべし、

味方原の戦元亀三年十二月、武田信玄重ねて大兵を率ゐて、浜松近く攻め来る、人心恟々として穏ならず、この時鳥居四郎左衛門忠次斥候うけたまはり馳せ還りて、敵大勢にて、行伍の様もまた厳整なれば、たやすく戦を始むべからず、早々御先手を引還させ給へ、もしまた一戦を遂げられむならば、わが軍列を調へ、鉄炮迫合に時を移し、敵の堀田辺まで打出でむを待ちて戦をはじめば、万が一御勝利もあらむか、これも全勝の道にはあらずと申す、君聞召し御気色悪しく、家康の決心信玄なればとて鬼神にもあらず、又大軍なればとて恐るゝにも足らず、汝平生は大剛の者なるが、今日は何とて臆したるやと仰せらるれば、忠次、君常は持重に過ぎさせ給ふが、今日は何とて血気にはやらせ給ふぞ、心得ぬ御事なれ、只今に某が申せし事を思ひ当らせ給ふべしとて御前を退きしが、御家人に向ひては、今日の戦必御勝利なるべし、各進むで忠戦せよと言捨て、みづからは敵軍にはせ入りて討死す、鳥居忠次の戦死渡辺半蔵守綱も、斥候に出でしが立ち帰り、今日の戦は危からむと申上ぐれば、いよ御気色悪しきにより、御側に候ひし大久保治右衛門忠佐・柴田七五郎康忠はせ出でむとするを、守綱制して許さず、君、たとへば人あつてわが城内を踏通らむに、咎めであるべきや、いかに武田か猛勢なればとて、城下を蹂躙しておし行くを、居ながら傍観すべき理なし、弓箭の恥辱これに過ぎじ、後日に至り、彼は敵に枕上を踏越されしに、起きもあがらでありし臆病者よと、世にも人にも嘲られむこそ、後代までの恥辱なれ、勝敗は天にあり、兎にも角にも戦をせではあるべからずと仰せければ、何れも此御詞に励され、勇気奮決して遂に兵を進められしとぞ、〈東遷基業、〉

オープンアクセス NDLJP:1-29夏日吉信この軍既に敗れ、殆と危急に及ばせ給ふ時、夏目次郎左衛門吉信は、兼ねて浜松城を留守せしが、急ぎ手勢引具し御前に馳参じて、御帰城を勧め奉る、君、我かゝる負軍し、何の面目ありて引返すべきや、且敵わが軍後を競へば、兵を返さむ事も難し、たゞ此所にて討死せむと宣ひて聞入れ給はねば、吉信御馬の口取りし畔柳助九郎武重に向ひ、我は君に代りて討死すべし、汝は速に御供して帰城せよといつて、自ら廿五騎を打従へ、十文字の鎗取つて、畏くも御名を唱へ、追来る敵と渡り合ひ、思ふ様に戦ひて打死す、この間に武重は、御馬の口取りて引返さむとするに、御鐙踏立ちて、二三度蹴させ給へども、武重聊動かず、家康の敗戦強て御馬を引立て、浜松の方へ引返す、敵猶も追かけ来れば、松井左近忠次戦疲れて、林の中に息ついて居しが、俄に走りいでゝ、御着背長の朱色になりて、敵の目に付けばとて、己が鎧を着せかへ奉り、己御鎧を給はり、又己が馬をも奉り、みづから松井忠次と名乗つて、敵を二三度追崩す、武重は辛うじて供奉し、浜松に帰りて御門明けよといふに、番兵たやすくうけがはねは、殿の御供して助九郎が帰りたるぞと呼はゝるを聞きて、はじめて御門を明けて入れ奉る、即ち助九郎に命じて城外を巡視せしめ、御腰にさゝせられし扇を助九郎に賜ひしが、折しも雨にうるほひて扇の紙と骨の離れしをもて、後に助九郎が家の紋となしける、忠次もはじめ林中より出でし時、蔦の葉の冑の上に附きたるを御覧じて、汝が今日の功莫大なり、この後は蔦の葉をもて家のしるしとし、後裔に伝へよと命ぜられ、今に家の紋となしぬ、はるか年経て後、夏目吉信の二子を召出して、我その時危難を免れ、今天下一統の業をなせしも、全く汝が父の忠節によれりと、御涙を浮べて仰せられしとぞ、〈貞享書上、大三河志、〉

水野正重この戦に、夏目が外にも忠戦を抽でゝ、御感に与りし者少からず、水野太郎作正重は、敵の追来るに度々取て返し、敵を追払ひ、難なく御帰城あり、君の仰に、一日七度の鎗といふ事は聞伝へたれど、今日の太郎作が働にはいかで及ぶべきとて御賞詞あり、天野三郎兵衛康景は、冑付の首提げて御後に附随ひ、内藤四郎左衛門正成も同じく従ひ来りしが、敵の弓を持ちし者、御側近く寄り来るを見て、正成、汝は何者なりと咎むれば、康景後よりその弓を踏落すゆゑ敵にげはしる、又孕石忠弥といふ者、御馬の尾を捉へて引とゞめむとす、君、御刀もて馬の尾を切払はれ、忠弥が倒るゝ所へ、松井左近忠次馳来り忠弥を討とむ、小笠原定信小笠原次右衛門定信は、山県昌オープンアクセス NDLJP:1-30景が手に打向ひ能き敵討つて、黄の四半の先へ茜の吹貫出し、指物に首取添へて御覧に備へしかば、御感斜ならず、かゝる所へ、その父信倫戦死せし由告げ来りしかば、直に引返し戦場に馳向ふ、折しも敵三人して父の首を争ふ所へ行合ひ、二人をば即座に討取り、一人に手負はせ、父がしるしを得て帰りぬ、凡軍中にて父が仇をその座に打得し事、天の冥助にかなひしといふべしとて、重ねて御感あり、細井喜三郎勝宗も御跡打つて戦死せしが、木梨新兵衛その家僕木梨新兵衛疵七箇所負ひながら、主の仇打つて勝宗が首をも取返し、御前に出でければ、御褒詞を加へられ、銭一貫文下され、汝黒馬に乗つて功を建てたれば、この後は黒と氏を改むべしと仰あり、勝宗は嗣子なければ、遺跡を弟の喜八郎勝久に継がしめらる、大久保新十郎忠隣若年なるが、馬に離れてさまよふ様御覧じて、かれ救へと宣ふ、時に小栗忠蔵久次、折しも敵の馬奪ひ得て乗来りしが、此御詞承ると等しく、馬より飛下りて新十郎を扶け乗せて、己が身は股に鎗疵負ひながら、少しも屈せず引退く、野中重政野中三五郎重政も、御馬に添ひて引退く所に、甲州侍長何某七八騎にて御先に塞がるを、君長め長めと罵らせ給ふ、重政即ち長を馬より突落し首を取る、こは近年まで小姓勤めし者なるが、御家を出で信玄へ仕へしなり、御帰城の後、三五郎に御盃下され、信国の御刀を引かる、盃に三日月を蒔絵にしたれば、向後此を吉例として、三日月をもて紋とせしめらる、鈴木久三郎又御危急なりし時、鈴木久三郎御麾賜はりて討死せむと申す、君、汝一人を討たせてわが落延びむこと、本意にあらずとて聞かせ給はず、久三郎はしたゝかなるものなれば、大に怒りて眼を見張り、さて愚なる事を宣ふものかなとて、強て御麾を奪取りて、只一人引き返し奮戦す、御帰城の後、哀れむべし、久三定めて戦死しつらむと宣ふ所へ、久三郎つと帰り来て御前へ出でければ、殊に御気色麗はしく、汝よく切り抜けしと仰せければ、久三郎、思ひしよりも手に立たざる敵の様に侍るはと、さらぬ顔して座し居たり、桜井勝次桜井庄之助勝次は、浜松の玄黙口を守りて居しが、朱鞘の大小さしたる敵の、手負ひて引退くを誰も追ふ者なかりしが、勝次是を見て走り出で、そが首を取り、外にも一級取りて還りしかば、大に御感ありて、汝が七本のねぢ馬連の指物は重くて便よからず、茜の四半を指物にせよと仰ありて、この後改めしとぞ、〈武功実録、家譜、柏崎物語、貞享書上、東遷基業、東武談叢、〉

家康浜松に退く浜松に帰らせ給ひし時、けふの大敗にて、城中の者ども御安否もしらざれば、大手オープンアクセス NDLJP:1-31より還御あらば、定めて驚恠しつらむと思召し、わざと城溝辺を乗廻り、総懸口より入らせ給ふ、植村正勝・天野康景に命じて大手を守らしめ、鳥居元忠に玄黙口を守らしめ、且命ぜられしは、城門は明置きて、後れ来る者を入るべし、その上敵近寄るとも、門の明きしを見ば疑ひて遅疑すべし、門外四五箇所に燎火を焼かしめよ、さて埓もなき軍して残念なりと仰ありて、久野といふ侍女が供せし湯漬を、三度かへて召上られ、御枕引寄せ、高鼾にて打伏させ給ふ、左右の者は、今日の大敗に一同人心地もなきに、少しも驚かせ給ふ事なし、高木広正かゝる所に高木九助広正、信玄が近臣大隈入道といふ容貌魁偉の者を討取りて来る、その首御覧じて、城中の人心穏ならざれば、汝はこの首を太刀に貫き、信玄を討取りしといはゞ、汝が勇敢は元より衆の知る所なれば、誰も真と思ひ、心おちつくべしとありしかば、広正仰のまゝに、今日敵の大将信玄をば、高木広正討取つたりと、大音揚げて城中を呼ばはりめぐりしかば、人々さてはとはじめて安意せしとぞ、信玄軍を班す暮がけに甲州の馬場信房・山県昌景、城下まで攻来たりしが、御門の明きしを見て、昌景は、城兵よく狼狽せしと見えて、門閉づる暇なしと見ゆ、速に攻め入らむといふ、信房これを制して、徳川殿は海道一と呼ばるゝ程の名将なれば、いかなる計策あらむも計り難し、卒爾の事なせそとて遅々する内に、鳥居元忠・渡辺守綱打つて出でければ、二人恐怖して引返しけり、その後目をさまし給ひ、信玄は定めて引返しつらむと仰せありしが、その夜味方犀が崖の敵の陣に押寄せ、鉄炮打懸けしかば、武田勢大に狼狽し、さすがの信玄、勝つても恐るべき敵なりとて、軍をまとめて引取りしとぞ、〈前橋聞書、四戦記聞、大三河志、〉

馬場信房三河勢の勇武を歎賞す甲州の馬場美濃守信房、後日に信玄にかたりしは、こたびの戦に、三河勢末々まで決戦せざる者はなし、その死骸を見るに、此に向ひしは皆俯伏し、浜松の方に向ひしは仰倒せり、いづれも戦死せしにて、一人も遁走せしはなしと思はるとて、大に感歎しけり、すべて此時御家人あまた戦死し、残少なになりければ、君御涙を浮められ、家康戦死者の後を立てしむわれ小国にてかく家人を打たせては、この後戦せむこと難しと仰せられ、戦死の者の千孫は、年の長幼を論ぜず、召出して家継がしめられしとぞ、中根喜蔵利重は、戦の最中に北条より武田が援軍として向はせし、近藤出羽助実と鎗を合せ、御馬前にて戦死す、然るに利重子なかりしかば、家絶えむとするをあはれませ給オープンアクセス NDLJP:1-32ひ、その女子松平九郎兵衛正俊が妻となりて生みし子、天正十二年京より還御のとき岡崎の松原に母と共にありしを御覧じ、利重が外孫なりとて召出され、中根喜蔵とめさる、時に三歳なり、いとありがたき御事なり、〈武徳大成記、武功実録、家譜、〉

石川善助石川善助といへるは、わづか三十貫計とりし御家人なり、一とせ当家を立去り、加州へ行きて、三百貫の地に在附きしが、こたびの御敗軍をきゝ、彼地を去つて立帰り、此度上方より召抱へられしものどもは、みな戦を恐れ遁げ散りぬと承りぬ、上方の弱兵ども何の御用にか立ち候はむ、某身不肖には候へ共、御先度を見届けむ為立還りぬ、哀れ願はくは、一旦の罪は御許し蒙らむといふ、君、汝がなきとてわが事欠くべきやと宣ひしが、実はその質直なるを喜ばせ給ひ、元の如く召仕はれしとぞ、〈洪明範良、〉

此巻は一向門徒の乱より、味方原御軍までの間の事を記す、

 
 

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