東照宮御実紀附録/巻十八

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東照宮御実紀附録 巻十八
 
おほよそ人をめしつかはるゝに、よくその人の性質・才能をしろしめし分けられ、それに御擢任ありしかば、或は卒伍より登用せられて、方面の将帥をうけたまはりしもあり、本は賤吏よりあげられて、経国の良佐となりしもあり、夫より下の一官・一職にありて、功効を顕せし類は、あげてかぞふるにいとまあらず、又其心術は正しからざれども、才幹ありて用立つべきものも捨てさせたまはず、大賀弥四郎・大久保石見守長安がごときも、はじめより、よしともおぼしめさねども、たゞその租税・財貨の事に練達して、家康家士登用の要領経済の用にたつべしとの尊慮にて、任用ありしかども、後後威福を弄し、驕奢を極むるに至りては、忽に誅戮を加へられ、いさゝか姑息の念おはしまさゞりしは、是又英明果敢の御所為と申たてまつるべきにぞ、或ときの仰に、家人を遣ふに、人の心をつかふと、能をつかふと二の心得あり、資情篤実にして、主を大切におもひ、同僚と交りてもいさゝか我意なく、すべてまめになだらかオープンアクセス NDLJP:2-53にて、そが上にも智能あらば、是は第一等の良臣なり、殊更に恩眷を加へ、下位にあらば不次に抽で、挙げて国政をも沙汰せしめむに、いさゝか危き事あるべからず、又心術はさまでたしかならぬ者も、何事ぞ一かどすぐれて、用立つべき所あるものは、これも又捨てずして登用すべきなり、この二品を見わけて、棄才なからしめむ事肝要なりと仰せられき、又人の善悪を察するに、やゝもすれば己が好みにひかれ、わがよしと思ふ方をよしと見るものなり、人には其長所のあれば、己が心を捨て、たゞ人の長所をとれと仰せられし事もあり、又あまたの家人の善悪を、いかで一人して見知る事のなるべき、己れ高位にのみにいかめしくかまへて、下下と意気相校らざれば、下よりは何事も申出で兼ぬるものとにかく顔色を和らげ、辞気を卑くして、下々より親しみ、寄つくやうにすべしと宣ひしは、唐太宗、百官の事を奏するもの、恐懼して挙措を失ふことあるを見給ひ、これより常に吾顔色を仮して諫諍をきゝ、政教の得失をしらむとすとあるに、よくも似させ給へるかなと、伺ひしられていと尊し、〈武野燭談、三河物語、岩淵夜話別集、〉

本多豊後守広孝が、御直にうかゞひしとて、人に語りしは、凡そ人君たらむものは、其心を寛大にして、鎖細の事にはかゝはるまじき事なり、家康人主は寛大なるべきを説く水至つて清ければ、魚住まず、人至つて察すれば親しまずといひし古語の如くなれば、人を使ふにも、其長所を取りて、あしき所は捨置くべし、すべて天地の間に生きとしいけるもの、さまざまにして、牛馬のごとく人の用をなすものあれば、虎狼のごとく害をなすものもあり、薬草もあれば毒草もあり、その中につきて、よきを用うるは勿論なれども、又時としては、あしきを用うる事もあり、あながちに捨つべからず、武田信玄・上杉謙信など、わが疑心よりして、同族を害せしためし多し、物ごとに疑忌の深きは、もとより其胸中の狭隘なるより起れり、抑先代〈岡崎殿御事〉病がちにておはせしかば、わが国政何となく衰微し、一族はじめ譜代の旧臣も、うち他国に心を通じ、両端をいだくものおほかりき、さるを我代になり、天運にかなひて、国勢漸く強大になりしかば、かの者どもみなまつろひきて、忠功を励みしかば、我もまた既往の事をいさゝか心に挟まず、実心もて撫使せしゆゑ、その中には股肱・心膂となりし輩もあまたありき、さきにもし、信玄・謙信等が如く、旧怨を含むで一々に疑ふならば、かく大業をなす事は得べからず、虎狼も牛馬の用をなし、毒草も良薬となりしは、みオープンアクセス NDLJP:2-54なわが心ひとつにあり、胸中狭隘なれば、疑忌の心生じ、疑忌の心生ずれば、多くの人使ひ得がたしと仰せられしとなむ、殷湯王が賢に任じて疑はず、また後漢の光武が、赤心をひらきて、人の腹中に置くなどいひしと、同一の御気象なるべし、〈故老諸談、〉

岡崎の三奉行永禄八年、三河国大半御手に属しければ、はじめて奉行職を置かれ、国政を沙汰せしめらる、本多作左衛門重次・高力与左衛門清長・天野三郎兵衛康景三人をもて其任に充てらる、此時御国中の士人等、仏高力・鬼作左・どちへむなしの天野三郎兵衛とぞうたひける、三人の中にも、清長は温順にて慈愛深く、康景は寛厚にて思慮ふかし、ひとり重次は、おそろしげなる男の、己がいひたき事をば、ありのまゝにうちいひ、いかにも思慮あるべき人とも覚えず、かゝる職務に堪ふべき者にあらずと、誰も皆思ひしかど、心正しく直にして、しかも民を使ふに恵ありて、うつたへを聴きわかつこと明らかなりしかば、いづれも人材をつかはせ給ふ事の明亮なるに、感服したてまつりき、〈藩翰語、〉

人材選挙の方法天正十二年二月、三位の昇階し、参議をかけ給ふ、そのころ高木主水正正次を使番とし、筧助太夫正重を旗奉行になされむとありしに、本多佐渡守正信うけたまはり、主水は禄多ければ旗奉行、助太夫は小身なれば、使番になさしめてよからむといふを聞召し、正信に似合はざるいひ事かな、たとへば同じ役勤むるもの二人あらむに、一人をつかはして敵を防がしむるに、小身にては軍用とゞくまじとおもはる、大身の者をつかはさむか、それも小身のもの其任にかなふとおもはゞ、上より人馬をましあたへても、これをつかはすべし、同僚とてもかくのごとし、まして役を命ずるに、大身ゆゑ旗奉行、小禄ゆゑ使番と定めむは、これ禄をえらぶにして、人材をえらぶにあらず、助太夫は使番の器なり、主水は旗奉行の器なるゆゑに、かくは命ぜむと思ふなり、もし助太夫が禄少にして、其任奉はる事かなはずば、禄扶を加へむのみなり、禄の多少によて人を進退するは、鄙吝の所為に出で、選挙の本意にあらず、又かねて精勤なるものに加恩とらせむとて、それより大禄の役に転ぜしむるも又非なり、何役にもあれ、精勤してよくその任にかなはゞ、元の役を転ぜずして加恩とらすべし、むかしより任にさへかなへば、帝尭の、舜のごときいやしの民に、天下をゆづられし例もあり、とにかく人材をえらぶに、禄の多少を見る事あるべがらずと仰せられしかば、正信、凡慮の及ぶところならずと、ふかくオープンアクセス NDLJP:2-55敬服せしとなり、〈東遷基業、〉

榊原康政小牧を守る小牧より岡崎に御勢を入れられしとき、清洲をば酒井左衛門尉忠次、小牧をば榊原小平太康政に守らしむ、康政小勢にして大軍を引受くることなれば、汝一人心得ても詮なし、郎等にもよくいひ聞かせ、得心せしうへにて、返事せよと仰せらる、康政退き、郎等に仰の旨申聞けしに、いかにも御請あるべし、秀吉大軍にて攻来らば、思ふさまに防戦し、かなはずば討死せむのみと申せば、康政このよし申上ぐるに、御気色斜ならず、かねて勇烈の者どもを、汝に附け置きしゆゑ、さこそあるべけれと宣ふ、是まで小牧は仮に取立てられしゆゑ、城構もみな板塀にてありしを、康政、岡崎より白土とりよせ、白くぬりあげしかば、真の粉墻のごとくにみえたり、其後秀吉このさま見て、わが大軍を引うけ、あの小勢にて防がむとは、天晴不敵の剛のものよ、徳川には、よくも壮士のある事よといはれしとか、又石川伯耆守数正が、岡崎を退去せし後、この城誰に守らせむと老臣に議せらる、本多重次岡崎を守る本多佐渡守正信いふ、己が妻子を殺してもこ、の城と生死をともにせむもの然るべしと申す、しからば本多作左衛門重次に過ぎたるはあらじと宣ふ、即重次をめし、岡崎は上方より手遣第一の城なれば、もし秀吉がよせ来らむには、先こゝに防戦すべしとて、御家人あまた属せらる、重次かしこまり、当家代々の御居城なるを、人多き中に、重次にあづけらるゝとあるは、身にとりての面目、何事かこれに過ぎむ、しからば身命を抛ちて、いかにも堅固に守りたてまつらむと、かひしく御受す、君御感の余、重次老年といひ、もし防戦に及ばゝ、万に一つ生くる理はあるまじとおぼしめしあはれませ給ひ、後嗣のためとて、其子仙千代をめし出され、御前にて首服加へしめ、丹下成重とめさる、よて重次も堅固にせしとぞ、後に秀吉と御和睦ありて、大政所岡崎へ下られしとき、井伊直政と同じく其警衛命ぜらる、秀吉の母人質として岡崎に来るかねては大政所到着あるとひとしく、御上京あらむ定めなりしが、重次諫めていふ、京にては御所方宮仕の女房等が年老いたる者少からず、いかなる老婆を偽りて、大政所となして下されけむもはかりがたし、もとよりこなたに見知りたるものなければ、何によりて是を見定め候はむ、こゝは大切の御ことなれといふ、君もよくこそ心付きたれとて、やゝ御猶予あり、大政所下向の後、四五日過ぎて、浜松より御台所をわたしまゐらせられしに、大政所は御台所の御輿の戸の明るをまちかねて、御台オープンアクセス NDLJP:2-56所に抱付き給ひ、しきりに涙ながし給ひしを見て、人々はじめて疑念を散じ、其後御上京ありしとぞ、〈落穂集、柏崎物語、貞享書上、〉

春引歌当家には、武功のものあまた召しつかはれしゆゑ、そのころ御領内にて、里民の春引歌にも、徳川殿はよい人持よ、服部半蔵は鬼半蔵、渡辺半蔵は鎗半蔵、渥美源吾は首取源吾とぞうたひける、この人々その勇烈の事蹟は、あまたものにみえたれば、こゝにはしるさず、〈三訶之物語、〉

石川伯耆守数正が上方に降附せし後、御国中の城主の面々、人質をたてまつる事ありしに、本多豊後守康重も二男次郎八紀貞を進らせしに、康重事はその祖先このかた忠誠を竭し、世々二心なければ、今さら質入たてまつるに及ばず、御心安くおぼしめさるゝよし伝へられしかば、康重、その身ばかりならず、御賞詞の家祖までにをよびしを、いとかしこみたてまつりけるとぞ、〈本多越前守物語、〉

鎌倉八幡神職の敗訴関東にうつらせ給ふはじめ、鎌倉八幡宮に神領千石を寄附せらる、ものとは八千石なるに、こたびかく減ぜられしかば、神主大に歎き、重ねて訴出でけれど御採用なし、よて神主上京し、豊臣関白へ訴へ、関白よりこのよし江戸に申進らせらる、其とき村越茂助直吉をもてその御使にさゝる、直吉辞見の折、めされし獺虎の御羽織をぬぎて下さる、直吉仰の旨うけたまはりて速に上京し、たまはりし羽織に立付着せしまゝにて、関白の前へ出でむとす、其さまあまりに鄙野なりとて、とゞむるものあれば、市井の典舗にて麻の上下をかりて着し、神主と同じく関白が前にいづ、社人まづこの社の草創よりこのかた、源家世々の崇敬ありし先蹤ども、つばらにいひつやくるに、直吉は口をあきて、心もとめぬさまして聞き居たり、秀吉、直吉にむかはれ、汝かれがいふ所を聞きしやと問はる、直吉今一通りうけたまはらむとありて、同じ事を二度ものがたらせし上にて、さま尊き事どもにて侍るかな、さりながら、この直吉をはじめ、家康が譜代の者ども、三河以来年頃の戦に、今日は討死せむか、明日は鋒に血をそゝがむかと、朝夕苦辛して漸く僅の禄にあり付きしなり、さるに此度関東へうつり、いまだいくほどもなきに、社人等空手にして千石の神領受けしは、家康あまりうつけたる沙汰かなと、某などは覚え侍るといへば、秀吉大に笑はれ、いかにも直吉がいふ所こそことわりなれ、家康もさる心ありて、汝を使にこされしならむ、われやがて対面の折から、よきにはからはむオープンアクセス NDLJP:2-57とて、両人をば其まゝかへされしとぞ、〈兵家茶話、〉

会津の領主豊臣関白、伊達政宗が奥州会津の領地没収せし後、会津は奥の重鎮なれば、控御の人材をえらばむとて、みづから思よりし者の名をかきしるし、徳川殿にも心にかなひしものをしるして見せられよとて、かたみにひらき見しに、秀吉が札には、第一、堀左衛門、第二、蒲生飛騨守とあり、君の御札には、氏郷第一、左衛門第二と記されたり、秀吉掌を打ちて、さて名将の思慮は、不思議にも符合するものかな、一・二はかはれども、その人物の暗合せし事よ、そもいかなる心もて、かくは見定められしと問はる、君、まづ殿下の尊慮うけたまはらむと宣ふ、秀吉、奥州の人は、情の強きものなれば、左衛門がごとき人ならでは、鎮圧すべき事かなふまじ、よて左衛門を一番にしるしたりといふ、君、某愚意には、奥人の崛強なるを、左衛門がごとき猛烈の人に治めしめば、諺にいふ、茶碗と茶碗の出合といふごとく、いづれかたへの砕けずしてはあるべからず、氏郷の武略はいふに及ばず、文学にも志深く、和歌・茶道をも弁へ、性質温和なるに、かゝる風流の好みもあれば、崛強の奥人を治めしむるには、いとよきつり合ならむと思ひつれば、第一にしるしぬと仰せければ、秀吉聞かれ、いかにもよき所に心付かれしとて、遂に氏郷に極められしとなむ、〈大業広記、〉

伊奈忠政江戸御居城ありて後、駿・遠・三・甲・信にて代官奉はりし者どもは、みな役免され、伊奈熊蔵忠政一人もて、八州を保轄せしめむとありしに、本多佐渡守正信申しけるは、是迄五箇国にても、代官あまた設けられしに、今は八州の太守にならせ給ひて、忠政一人に仰付けられむは、いかゞ侍るべき、忠政何程才幹ありとも、いかで八州の繁務を、一人して沙汰する事を得むやといへども、聞きも入れ給はず、忠政に誓詞せしめらる、其前文は正信かき候へと仰せらる、正信硯引寄せ、文段をいかにと伺へば、最初の一条に、先関八州を、己れの物のごとく大切に致すべしとなり、其次の文は、支配下々の者を使ふに、依怙仕るまじとなり、正信仰のまゝ書つらね、第三条はと伺ひしに、もはやそれにてよしと仰せければ、正信筆を擱きしとなり、これまで代官奉はりし者こたびの御国替、ことに御急ぎにより、いづれも江戸に参り、御家人の所領割渡などするに、其身心力をつくして勤むる者もあり、又諸事を下吏にのみうち任せて、己れは怠慢なるもありて、勤労さまなれど、別に褒オープンアクセス NDLJP:2-58貶の御沙汰もなく、なべて役義免されしなり、後に旧役に復せしものあり、ながくゆるされしもありしとなり、〈落穂集、霊巌夜話、〉

成瀬小吉太閤、大坂の千貫櫓にて、当家の人々の馬揃を見物せらる、いづれもこゝを晴れと、良馬をえらび、馬具をかざりて出立ちたり、数多き中に、黒の馬の、紅のたづなかけて乗りたりしは、何者なりと尋ねらるれば、成瀬小吉といふ者のよし御答あり、そは何程知行取らせ給ふぞと問はる、君、千石つかはし置きたりと宣へば、太閤、かれはほしき武者振なり、我ならば五万石はとらせむものをとて所望せらる、君小吉をめして、そのよし仰せらるれば、小吉うけたまはり、こは御情なき御諚にも候ものかな、年頃心力をつくし御為には一命をもたてまつらむと思ひつるに、今かくかなたに遣されむならば、腹切らむより外なしと、思ひ切つたる体にて、泪をはらはらと流す、君重ねて、其方豊臣の招きに従はじ、五万石の身分となる、且家康が為にも便よし、まげてしたがへと、御詞を尽されしかども、中々うけひきたてまつるべきけしきなし、君も詮方なく思して、ありのまゝに申させ給へば、太閤聞かれ、いかにも彼の様にてはさもあるべし、内府にはよき人あまた持たれ、羨しき事なり、随分御心よせあつく、めしつかはれよといはれたり、君御帰館の後、小吉をめし出され、其方が存意のまゝを申しつれば、太閤心次第にせよとてゆるされたり、抑新参の者ならば、さまで厚き心だてにはあるまじきに、年頃つかへしほどありて、他家の富貴を望まず、真心に我に従ふ事、さりとは神妙の至なりと、御褒詞あり、又中納言殿へもこの旨仰聞けられ、後々とも彼者懇にめしつかはれよと、仰進らせられしとなり、〈霊巌夜話、〉

水野勝成伏見におはしましけるころ、大坂の奉行等、ひそかに御館を襲たてまつらむとの企専らにて、今日は取かくるか、明日は詰よするかなど、世の風説よりなれば、かねてより御徳威になづき従ふ黒田・加藤・浅野等は、日夜御館に詰めて、もし御大事に及ばゞ、御味方つかまつらむとひしめきける頃、何方より来りたりともしらず、円頂のものゝふ、小者一人に鎗を持たせ、暮六時頃より明六時頃まで、御門脇の駒寄辺にありて、夜明くれば立かへる事、一夜もかくることなし、御家人等これを見て、誰も見知りたる者なかりしかば、其よし聞え上げしかば、それこそ水野藤十郎なるべければ、此後又来りたらば呼入るべし、対面せむと仰あり、其夕方、例のオープンアクセス NDLJP:2-59ごとくかの者来りしかば、かゝる仰ありしぞと告げしに、かの者かしこまり候とて御門内に入る、直に御前にめして御対面あり、汝が父和泉へは、こなたより申つかはすべければ、汝は三河へ下り候へと仰あり、其後父の和泉守へもことのよし仰下さる、かく仰あるうへは、父もとかう申すべきにあらざれば藤十郎は父の所領三河刈屋へ下り、父子の間も和順しけるとなり、この藤十郎勝成は、壮年のとき、あらしきふるまひ多く、父の教訓にももどりけるより、父子の間もこゝろよからずして、遂に刈屋を立退き都に上り、六左衛門と改め、肥後の佐々成政、また小西行長・加藤清正・黒田長政等の家々につかへしが、とかくに勇にほこり、思ふままの挙動のみせしかば、こゝをも立退き、三村紀伊守とて、三千石ばかりを領せし毛利が被官のもとにて、十八石の禄をうけて口を糊せしが、今度伏見にて、当家御大事に及ぶべき風説をきくとそのまゝ、三村が家を暇こひて上京し、余所ながら夜々御門際までまゐり、警衛せむとせしなり、御家人等見て、誰とも知らざるを聞召し、これ必藤十郎なるべしと御心付かせられし事凡慮の及ぶべきにあらず、もとより此ごろ、当家より立退きし者も、藤十郎のみに限らざるを、よく其心根をしろしめし分けられしうへならでは、いかで其名をかくさゝせらるべき、人君たらむ上には、人をしるを第一の事と、古人も申伝へ侍りしは、かゝる類にやあるべき、此後和泉守へいろと仰せらるゝ旨ありて、父子の中も和らぎ、奥の軍に供奉せし跡にて、和泉守不慮に討たれしかば、勝成仰を蒙りて刈屋にまかり、先陣に馳せ加り、美濃国会根・大柿の城々攻落し、遂に家つぎて、従五位下日向守になり、あまたの所領をぞたまはりたる、〈小早川式部物語、家譜、〉

秀忠西上の扈従小山の駅にて、台徳院殿は木曽路を御登りあるべきに定まりしかば、榊原康政・大久保忠隣・本多正信の三人を御前にめし、此度汝等をして、中納言に扈従せしむ、中納言いまだ年若き事なれば、偏に汝等三人心を合せ力を共にし、万事越度なく執行ふべし.かの漢の高祖の三傑と、おなじ様におぼしめせば、いづれも其心して、盛慮にかなはむほど、相励むべしと御懇諭ありしなり、三人のかしこみたてまつりしはいふまでもなし、よく智・仁・勇の三将を御えらびありしとて、きくものみな感歎せしとぞ、〈大業広記、〉

村越直吉の使命関原の役に、上方の御先手奉はりて馳せ上りし諸将、御出馬遅々なるにより、いかオープンアクセス NDLJP:2-60なるゆゑかと、いぶかり思ふところに、八月十二日、村越茂助直吉を以て、上方への御使命ぜられ、数通の御書をさづけられ、かつ御口上をも仰含めらる、直吉、明日十三日首途し、廿日に三州池鯉鮒に着す、先陣の軍監奉はりし井伊・本多の両人、こたび直吉が御使として上るをきゝ、柳生又右衛門宗矩して待ち迎へしめ、あらかじめ御使の旨を問はしむ、直吉聞きて、先陣の諸将へ下されし御書を持参せしのみなりといふ、宗矩御口状はなきかと問ふ、直吉、いかにも御口状も仰含められたり、そは何と仰せられしといふ、直吉、御みづから誰々に申せとありしを、いかに御辺が我と懇親なればとて、たやすく申すべきやとて、宗矩と共に清洲に至る、中書・兵部の両人出迎へければ、直吉両人への御口状の趣を申述べけるは、速に御出馬あるべきのところ、しばし御風気にておはしませば、とみに御出馬なり難し、其表の事、さるべく両人相議してはからふべしとなり、諸将へ御口状の趣も、大方かくのごとしといふ、両人驚愕して、かくては諸将の心変ぜむもはかり難し、このまゝに申されなば、君の御為あしからむ、明日諸将列席のときは、辞をかへられ、内府いさゝか風気に侵され、思ひの外に出陣遅々せり、さりながら近日のうちには出馬して、敵を一時に切崩さむ、この事申さむ為に、直吉を差越させ給ひしと申さるべし、この詞ゆめ違ひ給ふなと、くれ口かためしかば、直吉、君の御為とあるからは、いかにもかたの指揮に従ふべしとありて、其日諸将会合の席へ直吉進み出で、御書をとり出し、各へ授け、又御口状を述べていはく、いづれも数日の在陣、苦労に思召す所なり、内府出馬油断なしといへども、この程風気によて、しばらく出馬なりがたし、かた兵部・中務に申合はされ、さるべく下知給はれと、仰のまゝにいひければ、両人手に汗を握り、こはいかにせむと思ひ、諸将も御出馬なりがたしとあるを聞きて興をさまし、何といふものもなし、かゝる所に、加藤左馬助嘉明一人進み出で、諸将にむかひ、これはいと尤の御口状なり、加藤嘉明の発議我等只今内府の御味方はすれども、もとは故太閤恩顧の者共なれば、内府の御疑心あるまじきも知るべからず、此度御味方に参りたるしるしをあらはしなば、速に御出馬あるべし、かゝる心付もなく、うかとして日をかさね、御出馬をまち居しは何事ぞといへば、福島左衛門大夫正則も手を拍ちて、御辺が推察のごとく、此弁へもなかりしは、近頃愚なる事どもかなとて、一座のものはじめて夢のさめたるごとオープンアクセス NDLJP:2-61くなり、この後諸将を会議して、岐阜城攻の議は起りしなり、後日に井伊・本多の両人直吉にむかひ、今となりては、御辺がありのまゝに御口状を述べられしこそ、かへりての幸なれといへば、直吉、さきに各方の指揮の如くせむとおもひつるが、又つら思ひかへせば智慮・才能のいる御用ならば、別人に仰付けらるべきを、この直吉が才も能もなき者に、大事の御使を命ぜられしは、御口状を真直にいへとの御事ならむと思ひかへして、ありのまゝに申したりといひしとかや、直吉が使命を守りて、人言に泥まざりしはいふ迄もなし、君の人を使はせらるゝに、よく其任を得させられし御事と、感ぜぬものはなかりけり、〈関原大成、〉

土方雄久土方河内守雄久は、大坂にて異図ありしよし聞えて、常陸国へ配流されしが、関原のときかへされ、北国の御使奉はり、その後中納言殿の御咄衆となさる、或人、かれは君を害せむとはかりしものなるを、御ゆるしあるのみならず、若君に附けられ、御懇にもてなし給ふは、あまり御寛容の事なりと、もどきいふものありしを聞かせ給ひて、彼はもとよりよく大事を見開して、国家の用にもたつものなり秀忠よくねもごろにせられば、行末いかばかりの用に立たむもはかりがたし、旧怨によて、その長所をばすつまじきものなりと宣ひしかば、人々むかしの斬袪射鈎のためしに思ひなぞらへて、御大量にして且御鑑識の明なるを感じたてまつりけり、〈関原聞書、〉

慶長六年、大久保治右衛門忠佐をめして、彼が年頃の勲功を賞せられ、二万石御加恩ありて、駿河国沼津の城を預けらる、其とき渡辺忠右衛門守綱御次にありて、治右衛門は幸運のものかな、武功があるとて恩賞たまはりしぞ、そのかみ我に逢ひてくそをたれしと、高声にのゝしるを聞かせられ、治右衛門に仰せけるは、かの兄弟一向乱の折宗門にくみし、我に敵せしとき、弓二張に鉄炮・鎗と七人にて汝に向ひしに汝、がいひしは、相手がけの勝負ならば、太刀打すべけれども、えうなく多人にむかつて、犬死はせぬぞといつて、汝が引退きしを、われよく覚え居たり、只今その事いひ出づると見えたり、あの様なる狂者は、捨置くべしと仰せけるとぞ、 〈寛元聞書、家譜〉

久世広宣いつの御陣にかありけむ、坂部三十郎広勝・久世三四郎広宣の両人を斥候に遣されしに、三十郎は仰うけたまはると、いと勇める気色にて御前を立ちしが、三四郎オープンアクセス NDLJP:2-62は顔色替り、何となく心おもげにて、やう立出でしかば、伺公の近臣笑ひ出でしものもありしに、三十は元来勇敢の生れなれば、敵を何とも思はず、三四は武辺の心がけ厚く、軍陣に打立つからは、生きて還るまじとおもふゆゑ、そのさまうき立たぬなり、今にみよ、三四が三十よりは、二三町も先へ乗こみて、見てかへるべしと仰せけるが、はたして三四は三十より四町ばかり奥までゆき、よく敵陣のさま見切りてかへり、そのよし申上げしとぞ、〈武辺咄聞書、〉

譜代と新参惣じて譜代の者は世禄をたのみ、勤振りに精の入らぬものなり、他家より今参の者は、主の心にかなはむと日夜に工夫し、一しは励み勤むれども、元より主の心には、譜代の者ほどしたしく思はざれば、遂には又こなたを立出で、他家へゆけども、又思ふ様ならで立かへりなどするに、こたびはいよ元の如くにはあらぬなり、たゞ譜代のもの、心いれてつかへむこそ、主の心に頼もしく思ふべけれ、何とて今参におもひかへむや、譜代の者よく此旨心得て、精いるべしと、仰せけると、阿部備中守正次、御直にうけたまはりしとて、人に語りしとなり、〈三河之物語、〉

あるとき将軍家へ仰進らせられしは、長夜の折から、藤堂和泉守高虎など故老の輩めし出で、ふる物語聞召せとありて、高虎はじめて伺公せしに、藤堂高虎治国の要を説く将軍家の御尋に、先づ治国の要道とするは、何事ならむとあれば、高虎、某元より不学にして、聖賢の道など学びし事も侍らねば、何ををこがましく申上ぐべき、されども殊更の仰事なれば、まづ心のかぎり申して見侍らむ、大道にかなふか、かなはざるは、聞分けさせ給へ、人材の鑑別凡そ治乱の代ともに、人を見分くること第一にて候へ、人の才能さまざまにて、大軍を指揮して、その節度にかなふもの、また一隊の将として、よく隊下を駆使するもの、又物頭など奉はりて、弓銃の士を使令し、軍機を失はざる者、あるは才能はさしてなけれども、性質篤実にして、己が職分を守り、時に臨み一命をも抛つべきもの、あるは年頃廃堕せし国政を振起して、賞罰正しく、国中の士民迄これに倚頼して、安意せむほどの者、或は一郡一郷の進退せむもの、又は才幹ありて繁職に劇務を弁じ、土木匠作の奉行などにても、国家の損費かけずして其事成し遂ぐるもの、此外にもさまの人物を御覧じ分けられて、其人々にかなひたる職掌を仰付けられなば、百司みなよく任にかなひて、天下国家おのづから治るべきなり、疑心を去る其次の心得は、何事も疑心おはしまさぬこそ第一なれ、上として下を疑オープンアクセス NDLJP:2-63ひ、下又上を疑へば、上下の心何となく離畔してはてには上一人にならせ給ふものなり、かゝる隙に乗じて、讒候の徒あまた出来て、さらでだに相疑ふ間をいひそこなへば、善人・君子これがために不慮の禍を受くるか、又山林に逃隠るゝにも至れり、古今ともに讒人の為に、国家の亡滅せしためし少からず、よく思召わけ給へと申せば、将軍家聞召して、御感大方ならず、侍座の者どもいづれも感歎し、儒者共が経書講ずるを聞きたらむよりは、いと親切にうけたまはりぬと申す、その明日、君、高虎をめし、夜べは将軍へ何事をか侍話せしと尋ね給へば、しかのよし申上ぐ、折しも天海僧正・金地院崇伝が御側に侍せしに向はせられ、和尚達は、今の高虎の詞を聞かれしや、仏家の事はしらず、当家にをいて、和泉が申せしごとくの嘉言は此上なし、すべて人を見知ることのかなはざるは、全く己が智の明らかならざるゆゑ、才智ある者をめしつかふ事のならずして、えうなきものとのみ国政を議するなれ、されば智ある者は身を引きて、次第に忠勤を励むものなくなり行くなり、又上下相疑ふより、議人の起るといふもまづ人を疑ふも、我心に信のすくなきゆゑ、人をわがごとくおもひとりて、毎事みだりに疑念を生ずるなり、ここを讒人のよき附け所として、さま巧言をもて黒白をいひ乱す、讒人の習にて、わが事は人にいはせ、人の上は己がいひとり、かたみに相すゝめて、悪類次第に多くなり、大乱にも至るなりと宣へば、両僧うけたまはり、さてかしこき仰をもうけたまはるものかな、高虎が詞も、只今の御一言によて、殊更羽翼をそへ侍りぬと申す、又仰に、忠臣をば、なるたけ寛容に礼遇すべし、わが身命を抛ちても、君の為をせむと思ふものなどの小過とがむれば、たゆみて善にすゝまざるものなり、すべて諛言をきゝ入れず、誠意をもて下々をめしつかへば、臣下もまた一しほ精をいれて、忠勤を尽すべしと仰せられしとぞ、〈藤堂文書、〉

おかちの局あるとき、本多・大久保・平岩などの人々御前にめし、焼火をあそばして、昔今の合戦の物語かたり合はせ給ふ序に、凡そ食物の中に、うまきといふは何ならむ、おのおの申して見候へと仰せらる、おのがじゝたしむものゝ事いひ出で一決せず、おかちの局もこのとき御側にありて、茶を煎じて人々に進め、諸人とりいひあらがふを聞きて、ゑみ顔して居しを御覧じ、かちは何を知りて笑ふや、もし思ひよしり事もあらば、いひてみよと宣ふ、人々も、上言なり、局が論うけたまはらむとそオープンアクセス NDLJP:2-64そのかせば、申してみ侍らむ、凡そ物のうまきものは、塩にこしたるはあらじ、いかほどよき調理なりとも、塩なくば味とゝのひ難し、又万民一日も塩なくば、口腹を養ふ事あたはずといへば、諸人いづれも手を拍ちて驚歎し、いかさまと感じあへり、さらば天下にまづきものは何ならむと宣へば、こたびは人々、口をひらくまでもなしとて、局にゆづれば、局又申すは、まづきものも塩に過ぎたるは候まじ、いかばかりうまきものも、塩味過ぐれば食ふに堪へず、本味を失ふなりと申せば、御前をはじめ、伺公の人々、いづれも局が聡明に感じ、これ男子ならば、一方の大将奉りて、大軍をも駆使すべきに、をしき事かなとさゝやきけり、君また、かちがこの語につきて、わが思ひあたりし事あり、調味と国政の比較凡そ天下国家を治むるものゝ、人の用ゐ方にとも、あまりに用ゐすぐれば、かへりて害を生ずるなり、悪人を退くるにも、其道を得ざれば、思ひよらぬ禍を引出すものなり、こは全く庖人の味をとゝのふるとおなじき道理なり、又善悪なりとて、一偏にのみ固滞すれば、譬へば万病円は効能ある薬なれども、医者にも議せず、たゞこれのみ服して、病を治せむとするが如し、又国家の政道明らかなれば、悪事もおのづから善事となり、己正しからざれば、為す事みなあしざまになり行くなり、今川義元、信長を亡さむとして己がうたれ、信濃の村上・諏訪・小笠原など、武田を討たむとして、わが累代相伝の地を奪はれし類、かぞふるにいとまあらず、武道に暗きものは、兵法は乱世に用うるものと心得て、治世にはたゞ華美風流を宗として、亡滅するにいたるは、是又農夫の春耕さずして、秋の豊穣を求むるがごとしと仰せられしなり、〈故老諸談、〉

成瀬滝之助とて、御側近く勤めたる者ありしが、一日この滝之助は人といひあらがふことなかりしやと御尋ありしが、二三日過ぎて、果して人と口論をし、相手を討ちて立退きしと聞召し、さだめてその折はめて口にてありつらむと宣へば、仰のごとしと申上ぐ、元来かれはめて口にてはなかりしと上意なり、いかなる御思慮ありて、とくしろしめしけるにかと、人々あやしみたてまつりしとなむ、〈紀伊頼宣卿物語、〉

服部中保政といひしは、天性質実の者なり、あるときの仰に、中は神妙のものなり、生理にうときかと思へば家産をよくし、上戸らしくみえて下戸なり、其外もよきオープンアクセス NDLJP:2-65所ありと仰せられき、又才智のあらはれて、きらしきものは好ませ給はず、榊一原甚五兵衛といひしは、頗才幹はありしかど、其心表裏あるものなりしかば、はじめは御気色にかなひしが、終に御前遠くなりしとぞ、〈聞見集、紀伊頼宣卿物語、〉

三家附家老成瀬隼人正正成・安藤帯刀直次・中山備前守信吉の三人を、三家の方々へ附けさせられ、輔導の臣とせらる、まづ正成を義直卿へ附けさせ給ひしときには、正成がこれまでの武功才能をしなかぞへたて給ひ、かゝるゆゑもて輔導の職に進らせらるゝとなり、信吉と村瀬左馬助重治を頼房卿へ進らせ給ひしとき、両人がはじめよりの事ども仰聞けられてつかはされ、頼宣卿へ直次を附け給ひしには、帯刀は何一ついひ立てむ事なし、いかにとなれば、この者人物よりはじめ、武功・才能兼備はりてあれば、殊更とうでゝいひ立つべき事なしと仰せられしが、後々この藩にありて輔弼の志をつくし、しば直諫をいれ、卿をして英明の主とかしづき立てしも、全く御明鑑による所なりとて、人々感服したてまつりけり、〈績武家閣談、額波集〉

井伊直孝陣代を勤む浪花の役に、井伊掃部頭直孝をめし、その兄右近大夫直勝多病なれば、直孝こたび陣代勤むべき旨命ぜらる、直孝、仰はかしこけれど、家人に相議して後、御受申上げむとて、家にかへり、郎等よび出して、今日かゝる仰蒙りしが、汝等にとひはかりて、わが下知に従ふならば御受せむ、さらずば辞したてまつらとむ思ふなりといへば、家人等いかで御下知に背き申すべきといふを聞きて、はじめて御受せしなり、さて御上洛の後、二条城に着きたまひ、直孝をめして、伏見の城番は渡辺山城守に命じたれば、汝は手の者引具し、大坂へむかふべしと仰付けらる、直孝うけたまはり、某身に覚えある事に候へば、とかう望み申すべきこともあらむ、若年にしていまだ軍旅の事にならひ申さゞれば、ねぎ申すべき様なしと申して、御前を退きし後、安藤帯刀直次をめし、只今直孝が身をためさゞるにより、思ふ所中兼ぬるといひしは、定めて先陣奉はらむとの心得ならむと思ふと宣へば直次、いかにも仰のごとくにて候はむ、同先陣の命を受くさらば直孝よべとありて此度藤堂和泉守高虎と同じく、御先手仰付けらるれば、いかにも一しほ軍忠をぬきむで、盛慮にかなはむほど、心付をつくすべしと仰せければ、直孝も面目をほどこし、御前をまかでしとか、果して後に大功を立て、名誉を一世に施し、父の直政にも劣らずともてはやされしは、是も御明審の至なりと、かしこみたてまつりけり、〈続武家閑談、常山紀談〉

オープンアクセス NDLJP:2-66松平下総守忠明が家人に、奥平金弥といふがありしを、かねてしろしめしけるが、浪華の役に、こたび忠明が手にて戦あらば、金弥第一の功名すべしと仰せられしが、大和口の戦に、忠明が手に討取りし首どもさゝげしに、果して金弥一番首とありしかば、さてこそわがいひしごとくなれと、御感賞ありしとぞその時金弥は七十余なりしなり、〈幸島若狭大坂物語、〉

人才の任使すべて人を使ふに、心得べき事あり、たとへば一つの木を二つに切分けて、一つは眼鼻もなき仏の形を作れば、おろかなるものは、何か利益あらむかと思ひて尊むなり、一つはおもしろく運動する操戯の偶人を作れば、たゞもてあそびとするのみにて尊まず、実は仏の形よりは人の用をなすなり、冠に作るも沓につくるも、同じく用をなせども、物には貴賤の別あるなり、これをもて見そこなひ給ひそ、天下の主たる者の、眼目の附け所はこゝにあり、金銀は宝といへども、飢を救ふに雑穀の用をもなさず、人も又かくの如し、返す捨てまじきは人々の材能なりと、将軍家へ仰おくらせられしとなむ、〈太平将士美談、〉

高師直が驕奢によて、尊氏に恨なきものも疎くなり、石田三成が姦佞によて、太閤へ旧恩の人も、心を離せしなり、人を使ふはよく慎むべきなりと仰せられけり、〈武野燭談、〉

人はたゞ実意の深きものこそ、万事に念入るものなり、実意薄ければ、おのづから過誤あるなり、心だに誠実ならば、外ざまの越度はゆるし置くべしと仰せけり、かかる御心もて、人々をめしつかはれしかども、世の心得ぬものは、さまにおもひ誤り、安藤帯刀直次が沈黙なるをみては、言葉すくなきが御心にかなふかと思ひ、成瀬隼人正正成を見ては、戯謔などいふものを好ませらるゝと思ひ、物事あらげなく木訥なるを見ては、本多作左衛門重次・米津清右衛門正勝の輩、御前よしと思ひ、酒を飲過し大言吐くを見ては、大工頭の中井大和が寵遇をかうぶりしなど思ひとりしは、みな盛慮の深遠をわきまへざればなり、〈故老諸談、〉

此巻はよく人々の善悪を御審鑑ありて、それ御任使ありし事をしるす、

 
 

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