東照宮御実紀附録/巻五
長久手の戦に、上方勢おもひの外に敗績しければ、秀吉いまはひたぶるに当家と和議を結ばむと思ひ、まづ織田信雄と講和し、信雄を語らひて、御長子お義丸殿を秀吉養ひまゐらする事となり、元服させ、三河守秀康と名乗らせかしづき給ふ、されどもこなたには、いまだ打解けさせ給ふ御さまにもおはしまさねば、秀吉度々使をまゐらせし上、【秀吉上洛を勧む】猶又土方下総守雄久をして重ねて慇懃を通じ、近きほどに御上洛ありて、秀吉御父子にも御対面あらまほしく、かつは都方の名所ども御遊覧もあらせられば、御心をも慰め給ふべうもやと、懇に申おくられしかば、君聞しめし、われ今何事のありて秀吉にあふべき、秀康が事は、秀吉が子に進らせし上は我子にあらず、親の秀吉にさへ用なきに、何の用ありて其子の秀康に逢ふ事を求めむや、織田殿世におはせしほど都にも上り、名所旧跡みな遊覧しつれば、今さら見まほしとも思はず、この頃はたゞ分国にありて、朝夕鷹を臂にし、犬引いて野くれ【 NDLJP:1-60】山くれ狩くらす、これに過ぎたる楽なし、さりながらもし秀吉、己が兵威をもて、あながちに我を上せむとはからば、われも又其心得あり、つゝまず申せとのたまへば、雄久大に恐れ、これ秀吉が命ぜられしにてはなし、全く某一人の私意もて、御気色とりしまでなりといひすてゝ、急ぎ京へ逃げ上りしとぞ、〈岩淵夜話別集、〉
【秀吉母を送りて質とす】其後秀吉、妹の朝日の姫君もて御台所に進らせ、その上にも母の大政所をも岡崎へ下して、御上洛をすゝめ奉れば、今はあながちに辞せむも、あまり心なきに似たり、いかゞせむと議せらる、酒井左衛門尉忠次等の老臣申しけるは、秀吉が心中未だはかり難し、御上りあらむ事よしとも存ぜず、万一彼怒を発し、大軍をもて責め下るとも、上方勢の手並は長久手にて見透したれば、恐るゝに足らずとて、皆御上洛を止めたてまつる、君聞召し、汝等がいふ所理なきにあらず、さりながらよく考へ見よ、本朝応仁よりこのかた、大乱打続き、四海の民一日として安きことを得ず、今天下漸静謐ならむとするに及むで、我又秀吉と干戈を交へば、騒乱いよ〳〵やむ時なくして、人民これが為に命を喪ふ者多からむ、豈いたましからずや、さればわが一命もて天下万民の命にかはり、上浴せむと思ふなりと仰せければ、忠次等もさまで思召し定め給ひし御事ならば、臣等又何事をか申上ぐべきとて退きぬ、此御詞承りしもの、末終に天下の父母とならせ給ふべき御徳は、この御一言にあらはれたりと評し奉りける、殷湯王が百姓過あらば朕一人にあり、万方罪あらば罪わが身にありといはれしも、同じ様の御事と伺はるゝにぞ、さて都へ出立たせ給ふにのぞみ、御留守奉る者に仰置かれしは、もし我都方にて事ありと聞かば、大政所・御台所も速に京にかへし参らすべし、この人にはもとより大事にあづかりしにもあらず、又家康は婦人を下手人にとりしなど、人に嘲られむは、なからむ後までの恥辱なれば、かまへてわるびれたる挙動すなと、かへす〴〵のたまひ置かれしとぞ、〈逸話、〉
【家康上洛す】御上洛ありて、茶屋四郎次郎清延が家もて御旅館となさる、秀吉よりは使もて御上京を賀せしめ、夜に入りひそかに微行して来られ、年久くて対面し、こゝらの欝懐皆散じぬ、扨此度徳川殿をはる〴〵こゝまで迎へまゐらせしは、秀吉をして天下の主たらしめむ事を頼み進らするよしいはる、君聞しめされ、御身正しく天下の主とならせ給ひながら、何とてかくは宣ふぞ、秀吉、いやさることの候ぞ、秀吉【 NDLJP:1-61】今位人臣を極め、勢天下を靡かすといへども、其はじめ松下が草履取りし奴僕たりしを、織田殿に取立てられし事は、誰かこれを知らざらむ、かゝれば天下の諸大名、陽には敬服すといへども、内心にはあなづり思ふもの少からず、あはれ願はくは明日対面せむに、その御心がまへして給はるべし、秀吉をして天下一統の功を全うせしめ給はむ事、徳川殿の御心一つにありとありければ、君、今はたむすぼれたる御中となり、かく上洛さへつかふまつる上には、何事も御為あしうは存ぜず、ともかうもよきに計らふべけれと、うけひかせ給ひ、さて明日大坂城に渡らせ給ひ、【秀吉家康に依て威信を立つ】諸大名群集の中にて、太刀馬どもさゝげられ、敷居隔てゝ、いかめしきさまにけいめいしてもてなさせ給ひしかば、秀吉喜びに堪へず、さま〳〵饗し奉り、物どもあまた進らせけり、これよりして天下の大小名、殿下の人質出して迎へられし徳川殿すら、かく関白を敬礼せらる、我々いかで軽爾にすべきとて、いよ〳〵尊崇する事前日に十倍せしとか、〈玉拾集、〉
御上洛の折、大和大納言秀長、朝の御膳たてまつるとて迎へ奉りし時、秀吉も俄に其席に臨まる、白き陣羽織に紅梅の裏つけ、襟と、袖には赤地に唐草の繍したるを着したり、秀吉がたゝれし後にて、秀長と浅野弾正長政と密に申上げしは、彼陣羽織を御所望あるべしと申す、君、某今までかゝる事人にいひし事なしといなみ給へば、二人、これは殿下物具の上に着せらるゝ陣羽織なれば、こたび御和議ありしからは、あながらに御所望ありて、この後殿下に御鎧は着せ進らすまじと宣へば、関白もいかばかり喜悦ならむと申す、君もうなづかせ給ひ、秀長の饗席既に終り、秀吉と共に坂城に上らせらる、この時諸大名皆並び居て謁見す、秀吉いはく、毛利・浮田をはじめ承られ候へ、われ母に早く逢ひ度く思へば、徳川殿を明日本国に還すなりとて、又君に向ひ、今日は殊に寒し、小袖を重ねられよ、城中にて一ぷく進らせ馬の餞せむ、御肩衣を脱し給へといへば、秀長・長政御側に寄り来て脱す、君その時、殿下の召させられし御羽織を某にたまはらむと宣へば、【家康秀吉の陣羽織を所望す】秀吉、これはわが陣羽織なり、進らすることかなはじといふ、君、御陣羽織と承るからは、猶更拝受を願ふなり、家康かくてあらむには、重ねて殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば、秀吉大に喜ばれ、さらばまゐらせむとて、みづから脱ぎて着せ進らせ諸大名に向ひ、唯今家康の秀吉に物具させじといはれし一言を各聞かれしや、秀吉はよき妹【 NDLJP:1-62】婿を取つたる果報のものよといはる、この日諸大名の陪従多しとて、秀吉奉行人を咎むれば、かねて少く連れ候へと申付けしにと申せば、秀吉打笑ひ、徳川殿御聞候へ、この所よりわづか清水へゆくにも、人数の三万か二万と申されしとぞ、次の年駿城にて井伊直政・本多正信に、去年秀吉が許にて、我に陣羽織を所望せしめしは、家康が一言にて四国・中国の者を鎮服せしめむ為なり、【秀吉の権詐】次に近所へ行くにも二万か三万といひしは、兵威をもて我をおどさむとてなり、例の秀吉が権詐よと仰せられしとぞ、果して其事十日を過ぎずして、四国・中国はさらなり、しらぬひや筑紫のはてまでもいひ伝へて、関白の兵威の盛なるを称しけり、又ある時の仰に、わが上京せしとき、秀吉密に旅館に来り、我に向ひ三度まで拝礼す、その事しりし秀長・浅野長政・加々爪某・茶屋四郎次郎四人には誓紙させ、他言をとゞめしと聞く、かく諸大名を出し抜きて事をはかる人には、中々力押にはなり難し、よく〳〵時節を待ちて工夫あるべしと仰ありしとぞ、〈続武家閑談、〉
【家康北条父子に対面す】北条氏直へ姫君住つかせ給ひしより、四年になれども、いまだかの父子に対面し給はず、こたび氏政父子伊豆の三島まで詣る由聞しめし及ばれ、御使もて会面せまほしき旨仰遣されしに、氏政が方にも、さこそ存ずれ、但黄瀬川を越えてこなたへ渡らせ給ふやうあらまほしとの事なり、この時酒井忠次等承りて、氏政がかくうつけたる答のまゝに、川を越して渡御ましまさば、世の人、徳川殿は北条が旗下になりたりなどいひ伝へば、当家の名折此上なし、ひらに思召止らせ給へと諫めたり、君、名位の前後を争ふは詮なき事なり、さきに信玄・謙信の両人和議を結ばむとて、犀川を隔てゝ会面せしとき、謙信ははやりかなる性質ゆゑ、信玄よりさきに下馬せしを、信玄はいまだ下馬せずじて応接せしかば、謙信大に怒り、其場より鉄炮打出して合戦に及び、又十五年が間争戦やむ時なし、其ひまに織田殿は上方に切つて上り、大国の主となり、我も織田に力を合せて、一方に自立する事を得たり、この入道等とく和融して軍したらば、織田殿も我も一支も成りがたきを、いらぬ争ひに年月を過したる中に、他人をして大功を立てしめし事のうたてさよ、今氏政実心もて我に接するからは、我何ぞ其下に立つ事をいとはむ、天下一統の後にて上につくとも下に立つとも、其折に議すべけれ、今の位争は無用なりとて、遂に時日を定め、三島におはして、氏政父子に対面ましませり、その時氏政父子は上座【 NDLJP:1-63】に着かれ、一族の陸奥守氏輝はじめ其次に座す、君は氏政より下に着かせられ、酒井忠次・井伊直政・榊原康政ばかり陪座す、一通り献酬終りし後、美濃守氏規進み出で、御宴進まざるうちに、上方の軍議をなされむかといふ、君、上方の事はとくに定め置きつれば、今更議するに及ばず、けふの対面はかたみに打解けて、こゝらの宿念をも晴らし、且はこの後無事ならむ為なり、まづ両国の堺なる沼津の城をはじめ、城々皆とりこぼちて、堺界なしにせむと思へば、もし上方に事あらば、我手勢五万のうち三万を率ゐて、切つて上らば何条事かあらむ、又奥方に出馬し給ふ事もあらば、某先手承りて切靡け申さむに、三年は過さまじ、とにかく親しううち語らはんこそ肝要なれと宣へば、氏政はじめいとおもひの外の事に思ひ、喜ぶ事限なし、かくて酒宴も闌になりて、君自然居士の曲舞をかなで給ひ、黄帝の臣に貨狄といへる士卒とうたはせ給へば、松田・大道寺等同音に、徳川殿は当家の臣下になり給ひぬとはやしたつれば、氏政もゑつぼに入りて聞き居たり、酒井忠次は例の得手舞の海老すくひ、川いづれの辺にて候と舞出でたれば、氏政太刀を忠次に引かる、忠次又おしいたゞき小田原の老臣等に向ひ、我等は加様なる結構の海老をすくひあてゝ候と、高らかにいひけり、忠次が歌のうちに、鎌倉下りといふ詞のありしを、小田原の山角上総介いまはしくや思ひけむ、たむし尻うつたるを見さいな、納りに熱田の宮上りと舞留めける、大道寺いひけるは、酒井殿は鎌倉下りなれば、山角は熱田の宮まで切り上り候ととりなして、主方も客人も各興に入りたり、氏政酔ひすゝみて、君の御膝へよりかゝり、御指添を抜取りて、京兆には若かりし程より海道一の弓取と呼ばれし人なり、其刀を居ながら抜とりし氏政は、大功なれと戯れける、此時松田尾張守、徳川殿にははや当家の臣下におはしませば、何の嫌忌のおはしまさむといふ、この日北条が御もてなし実に善美を尽せり、宴はてゝ後帰らせ給ふ、北条より山角紀伊守して御見送の役を勤めしむ、御かへさの道すがら、【家康沼津の外郭を毀つ】沼津の外郭の塀及び櫓を皆毀ち撤せしめ、本丸ばかりを御旅館の設に残され、紀伊守に見せしめ、こたび親会せし上は、封境の険も無用なれば、かく取こぼちたり、この旨氏政父子によく伝へらるべしと仰含められしゆゑ、小田原にもうしろやすくなり、いよ〳〵当家を慕ひ、隣交おこたらざりき、かゝりしかば世には徳川殿は小田原と結縁ありし上に、今度の会盟またいかなる事を議し給ふも計【 NDLJP:1-64】り難し、その上軍法をも武田が流にかへ給ひしなど京にも聞えければ、豊臣家の上下、さきに彼方に降附せし石川数正が事を古暦・古箒と名付けて、用なきものゝ様におもひ嘲りけるとなむ、〈駿河上産、校合雑記、〉
【家康北条氏の衰運を察す】小田原よりかへらせ給ひし後、本多正信に向はせられ、北条も世が末になりたり、やがて亡ぶべし、松田と陸奥守と二人の様にて知れりと宣ひしが、果して後に敗亡のさま、松田の反覆はいふ迄もなし、陸奥守氏輝も氏政なくば氏直を軽視して、其国政をほしいまゝにせむかとの御推考に違はざりしとぞ、〈紀伊国物語、〉
天正十八年の春、長丸君を都に上せ給ひ、はじめて秀吉に見参せしめらる、秀吉大に喜び、君の御手をひき後閣に運れ行き、さま〴〵もてなされ、大政所みづから御ぐしを結ひ直し、御衣装をも改めかへ、金作の太刀はかしめ、重ねて表方に誘はれ、御供せし井伊直政等に向ひ、大納言には幸人にて、よき男子あまた持たれしな、長丸いとをとなしやかにてよき生立ちなり、たゞ髪の結様より衣服の装、みな田舎びたれば、今都ぶりに改めてかへし参らするなり、いはけなき子を遠き所に置かれ、亜相もさぞ心苦しく待遠に思ふらめ、とく供奉してかへれとて、直政はじめ人人にも、とり〴〵かづけものしてかへされしなり、【秀吉質子を家康に還す】君には此度小田原征討の事起りしにより、長丸君を質子の御下心にて上せ給ひしに、秀吉速にかへされしは、やがて出馬あらむ時に、我領内の城々をからむとての謀略ならむと、御先見ましましければ、本多正信を召して、いづれもその用意せよと仰ありて、三河より東の城々修理加へられ、道橋をも修理加へられたるが、三日ばかりありて、京より秀吉みづからの書簡もて城々からむ事を請はれしかば、いづれも機を見給ふ事の速なる、神明不思議なりと感じ奉りしとぞ、〈東遷基業、〉
東征の軍議ありて、秀吉関東の輿地の図を出して、君と共に検視してありし折、真田安房守昌幸もその末席にありしを、秀吉、安房もこゝに来て図を見よ、此度汝に中山道の先鋒をいひ付くるぞといはる、昌幸は徳川殿と同じく秀吉の待遇ありしを、世にかしこき事に思へり、秀吉また別に昌幸をよび、家康が許に行きて礼謝し、間をよくせよ、長きにはまかるゝものぞといはれ、富田左近を昌幸にそへて、御旅館に参らせまみえしむ、君もとより昌幸の反覆を憎ませ給へども、秀吉が紹介なればいなみ給ひ難く、よき程に応接してかへされぬ、後に左近を召して、安房が【 NDLJP:1-65】事は過ぎつればせむかたなし、このうへは石川伯耆守などを、同じ様に連れ来らざるやうに頼むと仰せられしとぞ、〈老人雑話、〉
【小宮山昌吉】東征の前かた、甲州の士小宮山又七昌吉、小長柄奉行を仰付けらる、又七は年若けれども、その兄内膳友信、主の勝頼が先途を見とゞけて討死せし心ざま、あつぱれ忠誠の者と思召さる、内膳子なきがゆゑ、昌吉をもてその遺跡をつがしめ、かゝる重役をも仰付けられしなり、全く兄が忠義を賞しての事なれば、昌吉よくこの旨心得て、此度の命を己が功労と思ふべからずと御教諭ありしかば、昌吉はいふまでもなし、諸人みな、忠義の士は死後まで旌表の典を蒙る事と、かしこまざるはなかりしなり、〈基東業遷、〉
秀吉既に駿河の三枚橋まで下られしよし聞えければ、榊原・本多の人々、こたび秀吉たまさかの下向なれば、こなたの御領中に於ても、殊更の御もてなしなくてはかなふまじと申す、君、われもとくよりさは思ひつれど、外に思ふ旨あれば、まづ捨置くなりとて、その後密に彼等を召され、われ秀吉の様をみるに、己が才略もて一世を籠絡せんとする人なれば、我又これに対して才智だてをして、智謀ある人とみられむは、かへりてあしきなり、【家康篤実を粧ふ】とかう物事に心づかで、たゞ篤実一べむの人と思はれむこそよけれと宣ひて、御饗待の様も並々の事にて、別に耳目を驚かすまでの事はなかりしとぞ、〈老士物語、〉
秀吉駿府の御城に宿られし時、御みづからもおりたちて御あつかひあり、【本多重次】城中どよみ賑はしき折節、本多作左衛門重次は、これよりさき御用の事ありて遠境にまかりしが、今日還り来り、旅装のまゝにてその所へつと入り来て、にが〳〵しき顔して大音あげ、殿々とよび奉り、さて〳〵殿は愚なる事せさせ給ふものかな、おほよそ国の主たるものが、己が居城あけて人にかす理のあるべきや、さる御心にては人が女房衆をからむといはゞ、かし給ふべきかなど、思ふまゝの事いひ放ちて、己が宿にかへりぬ、君もあまりの事に、何のうつけをいふぞと仰せられ、後に京の人々に向ひ、かれは本多作左といふて、家康が父祖の代より今に至るまでまめに仕へ、あまたゝび武功もあるものなるが、田舎武士にてたゞあらげなくをこなる振舞のみして、心のまゝの事をいひもし行ひもし、人をば虫とも思はぬものなり、されど今日の事といひ、人々の前をもかへりみず、あのごとき無礼をふるまふや【 NDLJP:1-66】つなれば、家康とさし向ひし折は、いかに心苦しからざらむ、各くみはかり給ふべしと宣へば、人々その作左こそ上方にも承及びたる勇土なれ、かゝる勇士持たせらるゝは、実に御家の重宝とこそ申すべけれと、一同感じけるとぞ、〈岩淵夜話、落穂集、〉
秀吉沼津まで着かれしかば、君は織田信雄と同じく、浮島が原の辺まで出でまして、待迎へ給ふところへ、秀吉が前駆、餌差・鷹飼ども打連れて通るうちに稲富喜蔵といへるは、君かねてしろしめすものなるが、御前を平伏して過ぎがてに、殿下もやがて来らせ給はむ、いと異様なる御行装なり、見給へといひさして行く、その折甲斐の曲淵庄左衛門御供に候せしが、三尺余の朱鞘の大刀に大鍔かけてさしたるを御覧じ、御みづからの御佩刀とさしかへ給ふ、かくするうちに秀吉が馬既に近づきぬ、【秀吉の異装】その様金の唐冠の兜に、緋威の鎧を着、緋純子の袖なし羽織に、紅金禰のくゝり袴、作髭をし、金の大熨斗付の太刀二振はき、金の土俵のうつぽに征矢二筋さして負ひ、金の理珞の馬鎧かけたる駁の馬に乗られしが、君と信雄の立たせらるゝを見て、俄に馬より下り、慰労の詞をのべ、かの団扇もて君の御大刀の柄をおさへ、近頃よき御物ずきかなとほゝゑみながら、いざ同じく参らむと、連立ちて数町ばかりおはせしが、諸大名追々出迎へたてまつれば、殿下はもはや御馬に召さるべしと聞え給へば、秀吉さらば軍中に礼なしとか聞く、御ゆるし蒙らむとて又馬に打乗りぬ、外々の大名へは皆馬上より声かけ通られしとぞ、〈天元宝記、武家閑談、〉
按に、一説に、この時秀吉馬より下り、太刀の柄に手をかけ、信雄・家康逆心ありと聞く、立上がられよ、【秀吉家康を試む】一太刀まゐらむといふ、信雄は面赤めて何ともいふ事ならず、君は秀吉が左右の者に向はせられ、殿下の軍始に、御太刀に手をかけ給ふ事のめでたさよ、いづれも祝ぎたてまつれと高声に仰せければ、秀吉又といふ詞なく、重ねて馬に打乗りて過行ぎぬ、その時見しもの、君のいさゝか動じ給はざる御様に感じけり、又小田原の陣中に、君と信雄と秀吉が陣におはして還らせ給ふとき、秀吉十文字の鎗の穂をはづし、御名を呼かけて追かくれば、君右に持たせ給ひし御刀を左に持かへ立ちておはしければ、秀吉大に笑ひ、鑓を持かへ、爵のかたを君に向け奉り、これは年比己が秘蔵せし品なれば、今日参らするとて投出されしかば、君思ひ寄らざる賜物とおし戴かせ給ひて、持帰り給ひしとぞ、信雄は、はじめ秀吉が追かけしさまみて打驚き、君にもかまはず早々急ぎ【 NDLJP:1-67】にげ出でぬ、これよりいよ〳〵秀吉が為に見限られしとぞ、是も同日の談にて、姦雄の人を試むるに、泰然としていさゝか変動の態見えさせ給はざる御議度いとたふとし、
三月十八日、秀吉三枚橋の辺巡視終りて長窪に至り、諸将をつどへて此度の軍議をせらる、【小田原城攻囲の軍議】秀吉、徳川殿にはかねて海道一の弓取と承る、こたびの計略いかゞしてよからむ、指導あれかしとありしに、君聞し召し、北条が家はその祖早雲入道已来、国富み兵強くして武功の者少からず、今度殿下の御征討を承り、定めて主に代り打つて出で防戦すべきに、これまで一人も兵をまじへざるは、はや殿下の御軍威を恐るゝとみえたり、此後とても出づる事はあるまじ、さらば総軍を二手に分け、一手は韮山、一手は山中を攻めむに、何程臆したる敵なりとも、己が城攻めらるゝに、救はざる者はよもあるまじ、その時残る一手をもて戦ひなば、然るべうもや候はむかと宣ふ、秀吉大に感じ、さらば北条が後詰をば、徳川殿に任せたてまつらむといはる、君いかにも奉りなむ、先年甲信の境にて、北条と七月より十一月まで対陣せし事のありしに、十が九は勝利を得侍りぬ、されども此度は敵地の戦といひ、かれ又無双の険要に拠れば、いかなる計策せむも計り難し、万一仕損じなば、二の手の勝利は殿下をたのみ奉ると宣ふ、秀吉高らかに打笑ひて、二の手は秀吉いかにも承るべし、徳川殿を一番に進ませ、秀吉二の手をつめば、日本国中はいふに及ばず、高麗・大明まで攻入るとも恐るゝに足らずとて、大によろこばる、重ねて秀吉、両城を攻むるに、敵もし出合はざらむ時はいかむと問はる、君、その時は両城のうち一城を攻落し、其勢をゆるめす、某手勢を率ゐ、山中の古路を経て、酒勾・早川へ押出して陣を取りしき、関東の城々より小田原への通路を絶つべし、殿下は総勢を率ゐて小田原へ押詰め給へと宣へば、秀吉、酒勾筋に敵城はなしやと問はる、君、鷹の巣・足柄・新庄の三城あり、秀吉、其城々をもいかゞし給ふといへば、この城々は必明退くべし、先年武田信玄、二万の兵もて小田原近辺まで攻入りしときも、この城々落失せたり、まして此度の兵威を望み、一支もなく落行きなむ、秀吉、もし逃げざるときはいかゞといへば、君、それこそ某が望むところなれ、速に手勢もて攻落すべし、先年対陣の折も、五六百の家人もて築井の城を攻め、彼がうちに名を得し内藤周防を討取り、関本の城に押寄せ、大道寺を追落せし事もあり、彼が弓箭【 NDLJP:1-68】の程はかねて知りたれば、いさゝか恐るゝに足らずと、事もなげに申させ給へば、秀吉はじめ満座の大小名、いづれも御智算の周遍して、残る所なきを感じ奉りける、【秀吉家康の献策に従ふ】秀吉その夜は沼津にかへられ、重ねて地図を取出し諸将と評議し、いよ〳〵君の御指図に従ひける、この時黒田勘解由孝高も秀吉が供して、君の御陣にも折々伺公し、軍法の物語せしが、こたびの城攻、始より終に至るまで、いさゝか君の計らせ給ひしに違はねば、或人にいひしは、徳川殿は頂の上より爪の端まで、弓箭の金言にて束ねし名将なれ、殿下も軍議となれば、徳川殿の口を待ちて後に、発兵せらるゝなりといひしとぞ、〈続武家閑談、〉
【信雄秀吉を討つべきを勧む】織田信雄密に君に勧め参らせしは、こたび秀吉の下向こそ幸の事なれ、北条と牒し合せ、前後より挟み討たば、かならず志を得むといふ、君、秀吉我を信じてこそわが領内をも心ゆるして通行すれ、いかで反覆の事して信義を失はむやと仰せらる、また此陣に、関白わづか十四五騎計にて居られしときをみて、井伊直政、唯今こそ秀吉を討つべき時なりと密に囁きけれども、君、かれこたび我を頼もしきものに思ひて来りしを、籠のうちの鳥を殺さむやうなるむごき事はせぬものぞ、天下をしるはおのづから運命のありて、人力の致すところにあらずと仰せければ、直政もえうなき事いひ出しゝと思ひ、面赤めてありしとぞ、〈明良洪範、寛元聞書、〉
【山中城の一番乗】山中既に落城せし晩方、戸田左門一西御本陣に参り、今日の一番乗は、中村式部が内に渡辺勘兵衛といふ者の由なれども、実は某と青山虎之助某と両人折よく参り合せ、一番に乗入りしにまがひなし、上方の黄母衣の者も見とゞけて候へば、この旨仰立てられよと申す、榊原康政取次きてこのよし聞え上しかば、君聞しめし、我婿の氏直が城を、わが手勢もて取りたりとても、さのみ出かしたる事にてもなし、汝等が動功は我さへ聞置けばすむ事なり、虎之助にもいひ伝へて、重ねてこの事いふまじとの上意なれば、左門も口を閉ぢて、その折の事問ふものあれば、場狭き所ゆゑ、しかと弁へずとのみいひ放ちて居たり、虎之助は大にふづくみ、用なきむだ骨をもて勘兵衛が手柄にせしもあまりわが殿のおとなし過ぎしゆゑといひふらしけるを、御聴に入るゝものありしに、青山がさいはゞ、そのまゝいはせて置けと宣ひ、別に御咎もなかりき、その後関東御移のとき、左門に武州鯨井にて五千石賜はりしは、此時の賞に宛行はれしなりとぞ、〈天元実記、〉
【 NDLJP:1-69】按に、家譜には、虎之助この時討死せしと見えたれば、本文に記す所は別人なるも知るべからず、凡家譜と記録と異同のあるは、家譜をもて正しとすれども、強ち記録の説みな誤れりいふべからず、
【家康秀次を誡む】宮城野口・竹浦口を攻められし時、かねて先鋒は当家、二陣は秀次と定められしに、秀次うちこして前に進まむとす、よて村越茂助直吉をもて秀次が方へ仰せ遣されしは、秀次先陣うたれむ事、年若き御心にはさもあるべし、いと神妙の御事なり、わが陣頭を開いて通すべし、家康もその余勇を求めて勝利を得むと思ふなり、ただし敵は地戦、味方は客戦にして地の利に暗し、その上今日、日暮に及むで、山下に陣取るは兵法のいむ所なり、今夜はまづこの所に屯し、明朝先陣打たればしからむかと仰遣されしかば、秀次且感じ且恥ぢて、其夜は箱根山の半腹に陣取り、終に夜篝を焼いて夜を明しけるとぞ、〈天正記、〉
【家康陣取の法を説く】井伊直政酒勾川の方に向ひしに、森を後にして陣せよと命ぜられしに、河原に陣取りしを御覧じ、大に御気色損じ、敵城近く備を立つるには、樹陰を後にして、敵に勢の多少を見透かされざるをもて主とす、さるを味方の足数まで見ゆる所に備ふるは、以の外なりと仰せければ、直政、さきに御諚ありしゆゑ、そが通りに備を【 NDLJP:1-70】立てしなりと申せば、御馬上にて小刀を抜かせ給ひ、御腰物にて打ならし給ひ、此かねの罸を蒙る法もあれ、わがいひしはかしこにはあらざるものをと仰せられ、小刀を打折りて捨て給ひしとぞ、又その辺を巡視ありて、酒勾川の端に下らせ給ひ、海ばたより城内を俯視してかへらせ給ふ時、供奉の者城際を通るを見給ひ、敵もし城より打つていでゝ、味方討死もせば、敵に勢を添ふべし、又逃去らむも見ぐるし汝等はしれた事をするものかな、城の巡視は城際より乗廻し、横より見るこそ作法なれと宣ひしとぞ、又諏訪の原御本陣とせられ、内藤四郎左衛門正成・高木主水助清秀・渡辺忠右衛門守綱・寛助太夫正重・渡辺半蔵守網を残し給ひ、汝等はここに陣取れとて、御みづからは年若き者五六騎召具して巡視に出で給ひ、還御の後、内藤等の陣取の様見そなはし、汝等年頃軍陣になれし者なれば、少しは心得つらむと思ひしに、などかくふつゝかなる様よと、散々に御叱りありて、陣取をかへしめ給ふ、かゝる囲城の内よりは、白昼には打つて出でぬものなり、夜討より外の術なし、夜討も城よりは出でずして、ことゞころに隠れ居て、我陣の後よりうちかゝり、軽くかけ破りて城に引入らむとするものなり、されば其心得して、城際の陣取は、裏を表の如くにとるものなりと仰せられしとぞ、〈三河之物語、〉
笹郭を御巡視ありし後、大久保治右衛門忠佐・高木主水助清秀に命ぜられ、本陣の小屋をかけしめられしに、城に向ひし所を厚く、後を薄くかくるを御覧じて、敵は虎口より出づべし、堀越には出ぬものなり、ゆゑに後の方を厚くとるが古法なりと宣ひて、改めしめられたりとぞ、又同じ曲輪を攻められむと議せられし時、其辺に橋を渡して、距囲の様なるものあり、井伊直政を召して橋が〳〵とばかり仰あり、直政さま〴〵思ひをめぐらし、橋下の水の浅深を試みよとの盛慮ならむと思ひ、橋下に杖を立て、水痕の及ぶ所を験として御覧に備へしかば、とかうの仰もなく、又橋が〳〵とばかり宣ふ、重ねて直政其所に久しくたゝずみ検視するに、橋桁殊更撓みけるを見て心づき、急ぎ馳かへりかくと申上ぐ、君聞し召し、さればその事よと仰せらる、おほよそはじめ命ありしより、直政が思ひ得しまでは四十八時ばかりへしとぞ、さて直政に属せられし甲隊の広瀬美濃・三科筑前は老功の者なれば、【井伊直政の奇功】この郭攻めむ様、直政かれとはからへと宣ひ、直政相議せしに、二人うけたまはり、御家人の子弟の年若きかぎりすぐり出して、攻手にあてられば、子弟の出戦【 NDLJP:1-71】すときかば、其父兄等己が子弟に功名を立てさせむと思ひ、われも〳〵と出来りて、おのづから多勢になるべし、万一仕損ずるとも、子弟の事なれば、させる恥辱にあらずと申すにより、そのごとく命ぜられしかば、果して大勢集り来て攻めかゝり、かの橋辺に至りし時、諸勢いさゝか危ぶみためらひしに、直政はこゝなりと思ひ、この橋危しとて、つゞきの郭をとらであるべきやとて、みづから橋詰まで進み、銃取つて放つに、火薬強かりしかば、筒裂けて指を損ず、されどもいさゝかもひるまず、
長陣の間にさま〴〵の流言ども出できて、君と信雄と北条に同意ありて、諸陣を焼払ひ、城よりも同時に討つて出づるなど、根もなき事紛起してやまず、秀吉小早川左衛門督隆景のすゝめに従ひ、みづから君の御陣を巡視すとて、伊達染の小袖に緋純子の羽織を着、脇差ばかりさし、刀をば従者に持たせ、信雄・隆景其外陪従の者も皆脇差ばかりさし、高声に雑談しつゝ御本陣に参られ、午の鼓打つ頃より夜中まで宴楽あり、其後又信雄が陣へも、君と隆景と秀吉に従ひておはし、また重ねて君と信雄とを秀吉の本陣に招請せられ、昼の程は申楽行はれ、夜に入り酒宴まうけ、小唄踊とり〴〵にて夜一よ遊び暮して、暁にかへらせ給ひ、この後諸陣にもかたみに行かひして会宴まうけ、人心漸穏になりければ、浮説もいつとなくやみしなり、これ北条はまさしく君の御ゆかりにおはしませば、かゝる雑説も出来しゆゑに、君密に秀吉と仰合され、かくは計らはれしとぞ、【陣中流行の小唄】この時の小唄とて後にまで伝へしは、人かひ舟は沖を漕ぐとても、うら〳〵身をしづかに漕げ、我等を忍ばゝ思案して、高い窻から砂をまけ、雨が降るといふて出で逢はむ、〈落穂集、〉
松平石見守康安はこの役に大番頭
甲相の境なる三増峠といふ所は、そのかみ武田信玄小田原へ攻入りし後は、童山にてありしを御覧じ、北条家末になりて武略疎きをもて、かゝる山を荒廃せしめ、武田が為に責入られしなり、樹木の茂らむには、信玄いかで押入るべき、この後は山に木を植そへて、林にせよと命ぜられしなり、〈常山紀談、〉
小田原落城のころ、二子山の下たいらに御本陣をすゑられ、小高き所をかたどり、かたへに御鎧櫃を置き、その上に板二枚を渡し御寝所とす、夜中御傍に大河原源五右衛門といへる十五六ばかりの小姓ふしてありけるが、総軍の騒がしきを聞付けて、俄にはね起きてひしめけば、かの板にあたりいよ〳〵驚き、御寝なりしを起し奉り、この由申上げしに、汝は若年にてものに馴れざるゆゑ、かくそら驚きするなれ、敵が夜討すれば必弓銃の音するものなり、こは味方の闘諍するか、あるは馬を取放せしならむ、さわぐ事なかれとて、いさゝか驚き給ふさまはおはしまさざりしとぞ、〈武家閑談、〉
【家康北条氏を評す】北条亡びて後、人々に仰せられしは、武田信玄は近代の良将なりしが、己が父の信虎を追出せし余殃子にむくいて、勝頼さしもの猛将たりしが、運傾くに至り、譜第恩顧の者まで離畔してはかなく亡びしは、天道その親愛の恩義なきを憎み給ふゆゑと知らる、小田原は百日ばかりの囲城に、松田尾張が外は反逆のもの一人もなし、氏直が高野に趣きし時も、命を捨てゝも従はむと願ふもの多かりき、これ早雲已来貽謀の正しくして、諸士みな節義を守りしがゆゑなりと仰せられしとなむ、
此巻は豊臣家と御和睦より、小田原征伐までの事をしるす、
この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。