東照宮御実紀附録/巻廿五

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東照宮御実紀附録 巻廿五
 
家康頼宣を教養す

紀伊亜相頼宣卿、いまだ幼弱におはせしとき、川狩に召具せられ、此川馬にのせて渡らせよと、かしづきの者に仰ありて、手綱持たしめ、口とり附そひて渡しけるに、卿幼き心にも、いと危しとおぼせしさま見えければ、人々前後をかゝへて渡し進らせしを御覧じ、臆したることかなたた手放して渡せと宣ひぬ、後にまたいざなはれて出でませしに、小川のある所にて、あれ飛越えよと宣へば、卿先の事恥しとや思ひ給ひけむ、仰のまゝに飛ばれしが、とび損じて水中に落入り給ひしかども、兼ねて水底に網を敷きて置かしめられしゆゑ、落ちらるゝとひとしく、近臣等引上げ進らせしなり、かく御幼稚の時より、武辺の事もて御教育ありしは、いともかしこかりし御事と、卿の年たけて後、人に語らせ給ひしとなむ、〈校合雑記、〉

家康秀康の修飾を誡む越前黄門秀康卿、ある時腫物煩はれ、久しく見えたまはざりしかば、上にもいかゞと心許なくおぼしわたり、日頃ありて、やうやく癒えて、まうのぼられしかば、待遠におぼし召し、さま御もてなしの設どもあり、いまだ御対面なき間に、近臣を召し、秀康が腫物全くいえしや、汝等見たるかと宣へば、御平癒には候へども、いまだ余痛のおはすと見えて、御面に膏薬張らせ給へりと申せば、俄に御気色かはり、越前の家老よべとて召出し、けふは久々の対面なれば、申楽など申付けつるが、おもふ旨あれば、逢はざるなりと仰せければ、家老ども大に恐れ、そのよし卿に申す、卿もいかなる故をしらず、強ちに申請はれむもいかゞと思はれ、其日はまづまかでられ、のちに度々御けしきとられしに、秀康こたびの腫物にて、面体の見苦しといふ事は、我元より聞置きぬ、さるに過ぎし日のさまかくさむとて、張薬せしとか、既に癒えたらば、薬附くるに及ばじ、たゞ外見をよくせむとて、かくものせしは、秀康に似つかはしからぬ事なり、すべて外貌を飾るは、公家か市人のすることなれ、武士は何程形が醜しとて、いとふに及ばず、病によりては、目の抜出づるも、口のゆがみ手足の指落つるもさまなり、いさゝか恥づべきにあらず、秀康我子として、一方の大将をも奉はる者が、鼻の醜きを恥ぢて、張薬せしとありては、人々の聞思はむ処もいかゞなり、さらでだに、上の好む所は、下是を学ぶならオープンアクセス NDLJP:2-129ひなれば、秀康が此さまを其家人ども見ならひて、一藩みな虚飾の風をなさば、いといとひが事なり、かゝる故もて、先日は対面給はらぬなり、よく申聞けよと諭されしかば、卿もはじめて心附き給ひ、盛諭のかしこきを感ぜられ、さま謝し申されしによて御心とけて、重ねて許謁ありし日は、ことさらの御饗待にて、引出物などもあまた賜はりしとぞ、〈君臣言行録、〉

金森長近鮭を献ず金森長近入道が領所より鮭をわらづとにして献りしを、其子出雲守重頼、あまり失儀なりと思ひ、竹簀もてつゝみかへて献りぬ、これを御覧じ、重頼に、汝が父の許より、かゝる様にておこせしかと宣へば、重頼、わらづとにせしが、あまりに見ぐるしければ、つゝみかへたりと申す、さこそあらめ、汝が父の入道などは、さるえうなき形作るものにてなし、すべてこれのみならず、親のせし事は、もどらぬものぞ、よく心得べしと、さとさしめ給ひしとなむ、〈野翁物語、〉

いつの頃にや、申楽ありて、諸大名に拝覧命ぜられ、其家人までも見る事を許され、芝居に並ゐて見ゐたりつるに、笠用ゐよと命あれど、かうぶらざるものあり、こは上杉景勝が家人ならむとて尋ねられしかば、はたして上杉が手のものなり、よて殊さらの仰にて、用ゐしめしとか、その折、三人片輪の狂言ある定なりしが、伊達政宗拝覧の列にありしかば、これを停められしなり、政宗一眼しひしをもて、

家康政宗を招待す笑止におぼしめされてなるべし、また政宗に御手前の茶下されし時、釜の葢いたく熱せしを知ろしめさでとらせられしに、湯気かゝりしかば、思はずに御手を引かせられしを見て、政宗ふと笑ひ出でぬ、やがて又釜の葢のいよ熱せしを御手にとらしめ、しばらく持たしめて、陸奥、釜のゆげなどに、手を引く事にてなしと仰せけるとかや、〈寛元聞書、永日記、〉

常に焼火を好ませられしをもて、皆川山城守広照より、京の黒木のごとくに、榎の木をもて作りて献りければ、いと御けしきに叶ひ、後々は御好にて奉る事なり、さるをうけたまはり伝へて佐竹右京大夫義宣より、皆川が奉りしよりは、一きは見事につくり立て、料理鍋をさへ添へて献りければ、思ひの外に御けしき悪しく、御次に捨置かれて、後々御覧もなし、これを御好の由を、佐竹が方へひそかにいひやりし者ありとおぼし召しての事ならむと、人々いひあへり、すべて御前わたり勤むるものゝ、諸大名へ内意通ずる事をば、殊に嫌はせ給ひしとて、本多上野介正オープンアクセス NDLJP:2-130純が人に語りきとぞ、〈古老諸談、〉

本多忠勝と立花宗茂豊臣太閤あるとき、東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、この二人は当今無双の勇士にて、天下の干城ともいふべしとて、二人を引合はされしにより、二人懇にいひかはし、常々会合せり、宗茂は忠勝が己れより年長じて、軍事にも老練すればとて、いつも忠勝に就きて武辺の物語ども聞けり、一日忠勝がいひしは、我等主人には年若きより、何事に附けてもはきとせし事申さゞる故、忠勝など常々に心元なくのみ思ひ渡りしが、近頃となりて、はじめて思ひあたりしなり、総て上より下を見るに、下ざまの事はよく分るものにて候へ、其分るに乗じて、下々をせめつかへば、下々の者は頭の出づべき様なし、かゝれば、主人には若年より、是等の所をくみはかられ、なるたけ、下の者を寛容にあしらはれし事と見えたり、忠勝も折々此事をもて、江戸の黄門へ語り聞かせ、若年の主の警戒とするなりと申せば、宗茂も思ひの外にかしこき事承りしとて、いたく感歎しけるとなむ、〈明良洪範、〉

小僧三箇条ある時、片田舎の物語に、小僧三が条といふ事のあるが、おのは聞きたるかと、侍座のものへ仰せられしに、いまだ承り侍らざるよし申上ぐれば、さらば語りて聞かせむ、さる山寺の住僧近き辺の村人の子をたのまれ、小僧として召つかひたり、一日小僧寺を遁れ出で、父母の許に来て申すやうは、兼ねて教へられし如く、出家の素意遂げむと思ひつるに、あまりに師のからきめ見せらるゝに、堪へられずして帰りきぬといふ、父母、そは何事ととへば、小僧、外の事はさて置き、さしあたりて堪へ難き事の三が条侍るなり、第一は師の坊髪を剃りならへといひて、剃らしむるに、元より手馴れぬ事なれば、剃刀の先、いさゝかにても頭にさはりて、血など出づれば、手荒き剃り様なりとて、ことしく勘事にあひ、第二には味噌すれとてするに、すり様あしゝとて、朝夕うちたゝかれ、第三は厠にゆけば、何しにゆくとて、責めはたる、日毎にかくのごとくなれば、いかで一生堪へらるべき、身命もつゞきがたしとて泣かぬばかりにいひ立つれば、父母大にいかり、さるにても法師に似ぬ、あまり情なきしかたさよといひて、いそぎかの山寺にゆき、兼ねても頼み進らせし小僧の事、しかのよしなれば今はせむかたなし、父母のかたに引取つて、百姓にいたすべし、いとま給はれと、いきまきていへば、師の僧聞きて、出家といふ者は、さらでだに難行苦行を重ねゝば、得道はならぬものなり、御オープンアクセス NDLJP:2-131辺が如く、小僧の申す事ばかりを信とおもひ、呼かへさむなどいはるゝ様の浅き心にては、小僧も出家はなるまじ、寺にありて詮なし、返し申さむ、されど外々の檀越の聞く処もあれば、一通りは小僧が詞の違を申して知らせむ、抑味噌のすりやうがあしゝと申すは、味噌はすりこぎにてするは、いふまでもなきを、かれは杓子の裡もて、つぶしすれば、さはすまじきにと、度々教へ聞ゆるに、とかく用ゐず、これ見たまへとて、厨下より折損ぜし杓子二三本とり出して見せしむ、また厠へゆくをとゞめしといふは、わぬしも知らるゝ如く、年毎代官巡視の折は、いつも当寺に寄宿せらるゝにより、そが為に客殿の辺に新に円を作り、愚僧はじめ、これに入る事はせざるに、小僧一人己が領して朝夕かよへば、さなせそといへど聞き入れず、又髪を剃るは、僧は戒業と同じ様の事にて、せでかなはざるゆゑ、かねて剃ならはせむと思ひ、愚僧が頭をかして剃らしむるに、この程はおのが頭をも剃り得るほどに手馴れしかば、さきに愚僧が頭をそらしむれば、わざとおこたりて、かくの如くになしつとて、頭巾脱ぎて見すれば、頭の内あまた切はづり、血留などいく所にも附けたり、此始末聞きて、かの父はじめておどろき、我子の愛に引かれて、師の坊が懇切をおろそかに思ひしは、近頃恥しけれとて、さまいひこしらへて帰りしとか、これは賤しの農家の炉談なれども、国家の大事にもたとへつべし、おほよそ家国の主として、あまたの家人を召つかふに、此心得あるこそ第一なれ、人の詞を聞くに、かたよりてのみ聞けば、かく理に違ふ事あるものなりと仰せられき、むかし唐太宗が、明、君と暗君とのけぢめはいかにと、臣下に問はれしに、魏徴が、かたよりて聴くは暗く、普く聞くは明かなりと対へせしも、全く此教諭にひとしき事と、うかゞひ知らるゝになむ、〈駿河土産、〉

平家語前波半入御談伴にて、四方山の物がたり聞え上げしとき、ある田舎の庄屋が、瞽者に平家を語らせ、一村の者に聞かせむと思ひ、その旨を村中に触れしめしに、里民ども聞あやまりて、平家汁をふるまふと聞き、一村うちより、こは珍しき事こそ出で来れ、平家といふもの、いかゞして食はむかと議す、一人いはく、何がしの老人こそ、かゝる表立たしき作法は心得てあるなれ、ゆきて問ひ見むとてたづねゆきしに、老人、常は我事を老いぼれたりとて、かずまへ給はざれど、この事は心得てこそあれ、この汁啜らむものは、新らしき椀を用意して、喰ふならひなれとをしゆ、オープンアクセス NDLJP:2-132いづれも、されば年のろうほどあれとて、新らしき椀を懐に入れて、庄屋が許にあつまり、今に汁をすゝむるかと、人々待煩ふ処に、思の外に警者一人出来て、ながながと平家を語り、かたりさして後、何を供する様もなければ、みなのぞみを失ひて帰りぬるとぞ、かゝる抵梧の話もあるものかなと笑ひながら申せば、君には聞召し終りて、俄に宿老の人々を御前にめし、半入に、只今の話今一度かれらに語りて聞かせよとありて、またおなじ物語せしうへにて、さて何事も末になりては、かく違ふものなれ、汝等が我命を下々へいひ伝ふるに、よく同僚と商議し、人々異議なきやうにすべし、さらずば汝等が伝あやまると、下々の聞違ふとよりして、毫釐の事も千里の違に至るなり、これには心得あるべき事と、御教諭ありしとぞ、〈古人物語、〉

家康忍に栗を植う武州忍の城におはせしとき、伊奈備前守忠次に栗の実さづけて播かしむ、備前御前をまかでゝ、この栗めし上らむには、何程の御長寿ならむとさゝやきしが、年経て後に、終に其栗実をなして供御になりしかば、備前、いかにも盛慮の遠大にして、近利を求め給はざるを感じ奉り、此事につきて、むかし八九十ばかりの老人が木を植うるを見て、側に居し人、いつの用にか立てむとあざけりしを、老人聞きて、汝が如くたはけたる人を、我父や祖父に持ちしゆゑ、一生木に事を闕くよといひしとか、すべてよきと思ふ事は、老いてもなし置くべきなりと、人々に語りき、〈聞見集、〉

本多正重再び家康に仕ふ本多三弥正重は、其かみ一向門徒たりしをもて、当家を立さり、滝川一益・前田利家・蒲生氏郷等に歴事す、氏郷が許にありし時、ある日、氏郷己が着せし冑に、銃痕の二つ三つあるを取出して、正重に見せければ、正重見て、さてもこの人の武運の程は知れたり、徳川殿などは、かゝるいさゝかなる事人に向きて誇らしげにいはるゝ事なし、よし領地たまはらずとも、なつかしき御方につかへ進らせむとて、慶長元年のころ、また当家に立かへりしなり、〈前橋聞書、家譜、〉

菅沼定政菅沼藤蔵定政は、もと美濃国主土岐兵部大輔定明が遺子なりしを、定明その臣斎藤道三がために弑せられし後、三河に来り、母方叔父菅沼常陸介がもとに養はれ、十四の歳より御身近く召つかはれ、三河寺部の城攻の時、御手づから鎧を着せしめ、貞宗の御刀賜ひ先登し、敵の首切りて初陣の功を顕す、あるとき定政御側にありて仮寝し、夢中に定仙が事をいひ出せしが、時に定仙は甲府にあり、明の日仰に汝外舅をおもふ事切なりと見えたり、さぞ対面せまほしく思ふらめ、いとま取らオープンアクセス NDLJP:2-133すべければ、心まかせにかしこに行けと宣へば、定政御前をまかで、朋友に語りしは、常々外舅の事を思ひしゆゑ、夢中ながらも敵国にゆかむといひしは、今さら恥辱この上なし、腹切りてこれまでの御恩にむくい奉らむとて、すでに脇差に手をかけしを、朋友おしとゞめ、御前に出でゝそのよし申上げしかば、定政をめし出され、先に仰せられし事は、みな一時の戯なり、かならず心にとむる事なかれ、もとのごとくつかへ奉れと宣へば定政かたじけなしと謝し奉り、朋友にむかひて、今日死せざるは恩命のかしこきゆゑなり、後日戦場にのぞみ、人に先だちて討死するか、または衆人にすぐれて、勇名を顕さむかと誓ひしが、其後御軍陣の度ごとに、あまたゝび武功を立てしかば、いづれもその詞の空しからぬを感じ、君も御けしきの余り、長光の御刀を賜ひけり、後次第に登庸せられ、万石に列し、本氏土岐に復し、叙爵して山城守と称せしなり、〈寛永系図、〉

牧野半右衛門康成、さる高価の茶壺求め得しよし、太閤聞及ばれ、半右衛門が身分として、かゝる重器を求めしはいらざる事なり、罸金出せとて、金一枚を上納せしめらる、君聞召して御笑あり、後にかの家にて、其壺を科銭の壺と名付けて珍蔵せしとぞ、〈貞享書上、〉

牧野成里の帰参牧野伝蔵成里は、十六歳にて父の讐を討ちて当家を立退き、久留米侍従秀一、また関白秀次につかへ、後に池田三右衛門輝政が所に寓居し、剃髪して一楽斎といふ、輝政が所領播州にありて、輝政により帰参の事を請ひけるに、年月へても其沙汰なければ、ある時播州より伏見に参り、輝政にむかひ、させもが露も年ふりしなどほのめかせば、輝政、いまださりぬべき折を得ず、成里は先帰国すべし、我又計らはむ様もあれと、いひなぐさめて、其後御夜話に侍する者に、此後折をもて成里が事いひ出し給はれと頼み置きしが、ある夜、三・遠におはしませし時の御物語になりしかば、いつよりも御けしきよく御座を進められ、牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故ある事におよびければ、伝蔵今もながらへてあるよし申上ぐれば、君には何ともおぼし召さぬ御様なれば、何れも堅唾を呑むで居たり、この時輝政も御次の襖際に侍し、仰を承りながら、このうへは加恩の地に引かへても、伝蔵がこと執し申さむとおもふ所に、江戸の者よべと宣ふにより、鵜殿兵庫重長が侍ると申せば、兵庫を江戸につかはして、こゝほどにて、勇士一人ほり出したれば、進らするとオープンアクセス NDLJP:2-134申せと仰ありしかば、輝政喜にたへず、御次より走り出で、上意かしこきよし謝し奉れば、成里は大剛のものなり、ながらへ居て喜び思召すよし仰せらるれば、輝政近日召つれてまみえ奉らむと申せば、我逢ふまでもなし、江戸につかはし、将軍家にまみえしめよ、幸ひ明日は酒井忠世が、井伊直政具して江戸に参れば、それと同道せよとありて、輝政御前をまかでむとするに、近藤秀用近藤石見守秀用が一族の何がし、輝政が袖を引きて、秀用が事も、この席に御ゆるしねぎ給はれといふ、輝政、牧野が事だにからうじて御ゆるし蒙りぬ、いかで知らぬ秀用が進退、わが力のおよぶ所にあらずといなめば、かの者、今日ほど御けしきのよき事は、またとあるまじ、ひらに御執たまはれとあれば、輝政かさねて御前へ出で申上げしに、速に恩免をかうぶりければ、輝政はいふまでもなし、秀用悦ぶ事大方ならず、かくて成里は江戸に参り、遠俗して旧名に復し、三千石の新地たまはり、のちに叙爵して、伊予守と称しけり、〈家譜、武徳編年集成、〉

伏見彦太夫某、いつも大太刀さし、奇偉の装して供奉せしを見て、松平勘兵衛信直も同じ様の装して出立ちしが、信直は御ちなみある者なれば、君御覧じて、汝は門地あるものなれば、威儀・行装も分に応じて、かるしき様すべからず、今日の様は、鎗持か馬の口取にひとしくて、いといやしく見ゆ、大将の儀容にあらず、おのれと卑賤に似するは、よからぬ事なりと、おごそかに警め給ひけり、また武藤平三郎某といふが、御放鷹の折、その頃は流行の曝元結にて髪ゆひしを御覧じ、旗本の頭髪御輿近く召し、汝が髪を見せよとて、汝が祖父の掃部は、あまたゝび武功もありて用立ちし者なり、汝がやうなる髪の結様はせざりき、祖父に似ぬたはけ者かなと御叱あり、これより旗下のものゝ髪のゆひやう、むかしの風になり、元結を五巻より多くまかず、太き元結にて、いてふに結ひしとなり、〈武辺雑談、感状記、〉

内藤何がしとて、いと猾狭の性質のものあり、いつも人の言葉を咎め、やゝもすれば闘諍におよぶ事度々なり、あるとき召して、総て人はさまの事をいふものなれば、多きうちには、我こゝろにさはる事もあるべし、さるを一々心にとめて咎むるはよからぬ事なり、よくかうがへ見よ、戦にのぞみて、明日は敵の内にて、何がしといふ剛のものを討とらむと思ふこゝろを、汝が常に人の詞とがむる心に引かへて見たらば、えうなき詞咎めする暇はあるまじきにと仰せられしとぞ、〈君臣言行録、〉

オープンアクセス NDLJP:2-135松平九郎右衛門重忠は、御在世の程、みづから御像を彫刻して、年頃己が家にすゑ奉るよし聞召して、御覧あり、我なからむ後には、これを拝すべしと宣ひて、返しくだされしが、後に重忠卒し、子の与十郎忠清も身まかり、家たえしにより、次子九郎右衛門忠利が家に伝へしを、後に目白の養国寺に安置し奉りしとぞ、〈家譜、〉

箱根山御通行の折、長岡利助といへるが供奉しながら、少し御跡へ下り、山中にて水を飲みしを御覧じ付けられ、利助めは不幸な奴かな、かれが父は兄の仇打ちて手負ひしが、水を呑みしゆゑ、俄にうせぬ、それをわすれて、今水を飲むは、なき父の事を思はぬ、ふたしなみの至なり、おほよそ水を度々のめば、息がきるゝものよとて、其後は御前あしくなりしとなり、又天野何がしといひしは、元よりいひがひなき者なるが、かれは長久手の役に、主君を思ひ顔に見せて、逃げうせしとて御笑ひありしとぞ、〈駿河土産、〉

家康猪勇を賞せずある時、近臣の内に発狂せしものありて、御前にて同僚を切かけしに、徒手にて立むかひ、額に疵うけながら捕おさへたり、上意に、けなげなる振舞なれと、白刄もちしものに、徒手にてむかふは危き事なり、かゝる者をほめつかはせば、後にあやまりて死するもの多からむとて、賞典には及ばざりき、大猷院殿鷹狩の折、徒士の水に飛入りて、鷹の鴈とらへしを賞せられざりしも、かゝる尊意を追はせ給ひてならむ、〈武備睫、〉

酒井左衛門尉忠次の娘、姿色すぐれし由聞きて、牧野右馬允康成が、己が妻にせむと思ひ、風のたよりもて、忠次がもとへいひやりけるに、右馬允元来大胆のをのこなれば、忠次が心には、右馬允時の機変に乗じては、逆叛の志あらむもはかりがたしと思ひ、かゝる穏ならぬものに、最愛の娘をあたへむは心ならずとて、其事いなみしよし、御聴に入りしかば、牧野がごとき才幹あるものに、汝が娘をつかはし、後にかれを引付て家臣となしなば、一方の助力ともなりなむと仰ありしかば、忠次も心を決して、つひに縁辺をむすびしとぞ、〈武功実録、〉

家康信孝の女を嫁せしむ上田兵庫元俊は、岡崎殿〈広忠卿御事〉につかへ奉り、三州明大寺の戦に、松平蔵人信孝を討とり、忠功をあらはしたり、後年君元俊をめし、信孝織田方にくみせしといへども、実は我大伯父なり、其孤女一人あるが、我常にかなしきものに思へば、汝これを迎へて妻とせむやと宣へば、元俊あながちにいなみ奉れば、汝は当家の譜代にオープンアクセス NDLJP:2-136て、ことに石川清兼が外孫なれば、門地といひ、信孝が女に相そひて相当なり、彼女に三州八角村を与へ、汝に配偶せしむれば、辞すべからずとの仰にて、遂に迎取りて妻とせしとぞ、又戸田三郎右衛門忠次、小浜民部景隆と常々中あしく、やゝもすれば、民部が事あしざまにいひなす、民部は九鬼大隅守嘉隆が婿なり、九鬼関原の役に御敵戦せしかば、民部もこれに同意せりと、忠次いひかたむけむとす、君も笑止におぼしめせしが、其後民部が妻身まかりて、ひとり住なるに、幸ひ忠次に年頃の娘ありと聞召し、これを相そはしめて、和合せしめむとおぼし、ある時忠次に、われ汝によき婿とらせむと思ふはいかにと宣へば、忠次かしこきよし謝し奉る、さればわが媒するからは、わが定めむ掟そむくまじとの誓状を出せとて、書かしめし上にて、小浜民部が妻うせたれば、彼に住つかせよとの仰なり、忠次、こは迷惑の事と思へども、口かためられし上は、違背し奉るべきにあらで、かたのごとくに婚儀をとゝのへたり、其後忠次、民部にむかひ、兼ねて御辺が事をあしざまに申上げし事もありしが、今かく離れぬ中とならむと知らば、悪しきをも善きにとりなし申さむものをと、いと悔い思ふさまなり、さるにてもかゝる私どちの事まで御心にかけられ、よく和順せしめたまはむとの盛慮こそ、かしこしとも申すばかりなしとて、かたみに感涙をそゝぎしとなむ、〈寛元聞書、〉

千葉笑下総の千葉が家にて、諸人夜中に打より、面をつゝみ、そが家の執柄始め、奉行・頭人等が依怙する様を誹議して、かたみに高声に笑ふを、千葉笑といふよし御物語あり、これはかの家も末世におよび、国政おとろへ、いづれも愛憎を旨とし、贈賂盛に行はれしゆゑ、下々にくみて、かゝる真似して、上役の者を誹議せしを、執政が警戒にもなれかしとおぼして、語らせ給ひしなり、〈駿河土産、〉

あるとき、わらはやみにておはしけるに、さま治療せしめても、効験ましまさず、この病おとすに妙を得しといふものありて、めされしに、そのもの御ましの屏風の陰にたちて、さあ参るぞといへば、何をするにかと笑はせられしが、やがて丸くくけし帯を、蛇の様にしてなげ出したり、君にはをかしくおぼしめせしのみにて、いさゝか動じたまはねば、御病もまた落ちざりしとか、かれいやしの農民などの、病おとしなれし術もて、神聖の英主に対し、奇功を奏せむとせし心のほどこそをかしけれ、慶長五年七月ばかり、瘧疾わづらはせ給ひし事あり、これは其折オープンアクセス NDLJP:2-137の御事なるべし、〈古老夜話、武徳編年集成、〉

家康失火の老嫗を憐む放鷹の御道筋へ、老いたる嫗の、いとけなき子の手を引きて啼き居たるがあり、やしと思召し、尋ね給へば、此辺に住む者なるが、夜べあやまちて火を出せしにより、所の代官より、火をいましめざる科によて、住所を追はらはれしが、何地へゆかむ心当もなければ、かなしさに堪へで、かくさまよふと申す、君聞召し憐ませ給ひ、住所をたしかに記さしめ、御供のものに命じ、両人具して代官のもとにゆき、我いひしとて申すべきは、たれもおのが家を焼きたくて焼く者はあらじ、もし火をあやまちしものが、他国へ追やらはるべきならば、家康も近き頃、両度まで城中より失火せしぞ、我をばいづくへつかはすべきや、さてもこの両人は幸人なれ、我目にふれしゆゑ、あはれとも思はるれ、元の如く家つくりて遣すべしと仰付けられしとぞ、〈駿河土産、〉

古人のいひし、金は火をもてこゝろみ、人は言をもて試むといひし如く、人々の思慮の浅深は、其言語にて知らるゝものなれば、一言にても苟且にはいひ出づまじきぞ、総て偽にても実らしく語れば、偽がましからず実にても珍らしきことは、偽がましく聞ゆるものなり、よて人は実らしき虚言はいふとも、偽がましき実事は語るべからずと仰せられき、〈名将名言記、霊巌夜話、〉

武士の実直武士の智慮・才能あるは、もとよりよけれども、なくてもことは欠けぬなり、たゞひたぶるに実直なれば、智能を待つに及ばず、武士として義理に欠けたるは、打物の刄がきれしごとしと仰せられぬ、〈中泉古老物語、〉

人質をとるも、あまり久しくとり置けば、後には親子・夫婦の親愛もはなれて、かへりて詮なし、元より主へつかへ、忠義を専ら主と心にかくるものは、親子にも思ひかふるものなり、故に常々よく親ませ置き、時にのぞむで質にとれば、情愛にひかれてすて兼ぬるものなり、されども質のみを頼むべからず、わが義あるをもて、人の不義なるを打たば、石をもて蚕をうつが如しと仰せられき、〈駿河土産、〉

朝夕の煙立つる事はかすかにても、馬物の具きらびやかにし、人も多くもたらむこそよき侍の覚悟なれ、又世の諺に、武士の武士くさきと、味噌のみそくさきは、用ゐられぬものといふは、公家か市人などのいひそめし事ならむ、随分武士は武士くさく、味噌は味噌くさきがよし、武士は公家くさくても、出家くさくても、農・オープンアクセス NDLJP:2-138商くさくてもならず、味噌がなまぐさく、こげくさくてもならず、たゞ本来の味噌くさきがよきなりと仰せられき、〈武野燭談、本多忠勝聞書、〉

家康の仏教信仰仏理をも深く御帰依ありて、いまだ三河におはしませし時より、御出陣の前には、いつも大樹寺へ渡御なりて御祖先の霊牌を拝せられ僧ども召出して、法問聞召され、又関原御首途かどでの日も、増上寺に休らはせ給ひ、法問聞召せしとか、後に駿府にうつらせ給ひては、機務の御暇には、増上寺の源誉を召して、しば法義をたづね給ひ、または呑龍・廓山・了的などいふ、浄門の龍象にも法問せしめて聞召す、又仙波の天海僧上を召して、天台の論議御聴問あり、また曹洞の僧徒に法問せしめ、慶長十年の頃には、天海僧正に命じ、叡山の老僧正覚院始め、数人召呼ばれて論議あり、高野の学侶・大楽院・多聞院・庵室院等にも真言の論議せしめられ、興福寺の総寺院・喜多院・阿弥陀寺にも法家の論議をせしめ、また智積院・観誠坊・長存坊・円福寺等をして、真言の論議行はしめ、東大寺の清涼院・大喜院等には華厳の論議せしめ給ふ、其度ごとに金銀・衣服等かづけられ、または寺領をもまし下されしかば、諸宗の法師ども、いづれも御仁恩を慕ひ、優曇花のあらはれ出でしを待ちつけし心地せしとなむ、〈駿府政事録、〉

天海僧正は、もとは奥の会津、蘆名が支族にして、いとけなきより釈門に入りて、諸刹を経歴して、名僧智識に就いて広く参禅の功を積み、後に叡山に上りて東塔南光坊に住し、慶長十五年はじめて駿府にめされて、法問を御聴に備へ、また其説く所の、山王一実の神道といふこと盛慮に叶ひ、これより眷注あさからず、常に左右に侍して顧問にあづかり、そが申す所の事、一事として用ゐられずといふことなし、御大漸に及ばせられし時にも、和尚を御病床にめし、我数百年の大乱を伐平げ、四海一統の功をなし、齢また七旬にあまれり、天下の事一つとして欠くる事なし、此うへは御坊が神道の奥義により、いよ子孫の繁栄を祈る事なり、つたへ聞く、むかし大織冠鎌足は、摂州阿威に葬り、一年過ぎて和州談峯に遷葬せしとか、我なからむ後には、この例になぞらへ、遺骸をばまづ駿河の久能山に葬り、三年の後、野州日光山にうつすべしと御遺命ありしかば、和尚もなく御請申し、神さらせ給ひし後、本多正純等と相議し、将軍家へ御遺託の旨を申上げしかば、台徳院殿の思召にて、其翌年日光山にうつし進らせしも、皆天海の専うけひきつかふまオープンアクセス NDLJP:2-139つりし所なり、後に台徳院殿・大猷院殿の御代となりても、御待遇ます浅からず、大僧正に叙し、毘沙門堂の勅号をさづけられ、遂に日光・東叡の両山を開き、叡山に合して三山と称するに至れり、寛永廿年十月に遷化せしなり、〈慈眼大師伝、明良洪範、〉

酒は元気を引立つるものなれども、遊行の折など量を過せば、かならず争闘など仕出すものなり、慎むべし、軍陣か鷹野には、下戸も一盃のめば勇気いでゝ、一しほ精の入るものなり、されど小盃にて永々とのむは何か祝言の席めきてよはし、上戸の茶碗などにて、すはと一息に飲みたらむこそ、見ても心地よしと仰せられぬ、また夜中に提灯持ちて行来するをば咎められ、己がかたをば人に見られて、人の方はかへりて見えず、損多きものなりと宣ふ、されば有馬則頼入道が伏見の向島の御邸に参り、夜更けて帰りしときも、提灯をばけさしめて送らしめしなり、〈中泉古老物語、前橋聞書、〉

御茶室の露地の手水鉢を、つくばひて使はるゝほどに、なされしに、本多上野介正純、今世の数寄人は、手水を立ちながらつかふと申せば、御気しき損じ、我露地にては、たとひ将軍たりとも立ちながら手水つかはれむや、まして外々の者をやと仰せられしなり、〈紀伊国物語、〉

家康の娯楽文武の道御教導ありしはいふもさらなり、小技曲芸の末までも棄てさせ給はず、四座の太夫、あるは狂言師なども、巧妙の名を得しものは、ことく召して、其業せしめて御覧あり、本願寺の内に、下間少進といへるも、申楽に達せしとて、召よばれし事も数々あり、もとより申楽をこのませ給ひ、駿城にては月ごと度々興行ありしことも、御みづからの娯観にのみにし給はず、公達を饗せらるゝか、さらずば諸大名・御家人等を慰労せらるゝ為に催されしゆゑ、いつも諸人に陪観せしめられしなり、この外も越前に幸若太夫・または平家かたる琵琶法師・あるは園棋所本因坊算師・将棊よくする宗桂などに至るまで、すこしも名高きものは、召して御覧あり、かゝりしかば、其頃道々のわざつかうまつるものも、みな家業を励みつとめて、いさゝか怠らざりしゆゑ、一時巧妙の徒多く出来しとなり、〈駿府政事録、〉

総じて大名を始め、うるはしき衣装し、輿にのりて往来するは、公家めきていとよはく見ゆるものなり、五十歳より前かたの者は、帛・木綿なども地太なるを着し、草鞋をつけ馬にのるか、又は歩行するがゆゝしく見ゆるものなりと仰せられき、〈中泉オープンアクセス NDLJP:2-140古老物語、〉

此巻は御言行の中にて、年月たしかならず、事類もまた完からざるを取あつめて、巻末にしるし奉るにぞ、

 

東照宮御実紀附録大尾

 
 

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